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Center:110-神道の信徒たる日本人

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目次

神道の信徒たる日本人

〔2007年に執筆、2011年3月30日掲載〕

 神道については、井沢元彦『仏教・神道・儒教集中講座』に描かれているものを別に扱うのがいいでしょう。私には、神道に関してまとまって書かれたのを読んだことがないためにそうするわけですが、他の神道に関する文献を読めば、井沢説はさらに相対化していくことになるはずです。しかし本書において私が一番学んだのは神道についてです。

(1)聖典の不在と神道の定義のしかた

前にも書きましたが、宗教の法律的(制度的)条件は、教義があり、施設(神社、仏閣、教会等)があり、布教者(神主、僧侶、神父等)がいることです。ところが、神道には教義としての聖典がありません。それは確かですが、著者は「実はないこともありません」といって、『古事記』を挙げています。

「天皇家の祖先は全部神様ですから、『古事記』で語られていることは、…普通の民族で言う神話に当たるものです。ですから、この中に書かれていることを神道の基本原理と考え、聖典としてもいいわけです」(122ページ)。

神道を、著者は持論とことわってこう定義しています。「日本古来の神様を、日本人のやり方で祭っていく宗教」(107ページ)。こうもいっています。「日本には仏教とも儒教とも明らかに違う、神道という日本人独自の信仰があります。『信仰』の定義というのは難しいのですが、…理性や理屈では必ずしもそうだと言い切れないものをそうだと信じることだと思います。神様がいるということは証明されません。しかし信じることによって、神様は存在するからです」(144-145ページ)。

(2)和を以て貴しとなす

本書で神道を扱う第2部は『「和」と「穢れ」と「言霊」と―神道の無自覚な信徒たる日本人』としています。教義というよりも、日本人の心の奥深くにある心情として扱っているように思います。実は私にはふっと納得できるものがあるのです。「それが最重要3要素なのか? もっとほかにもあるのではないか、あるいはその意味するところに自分はどれだけ同調していけるのか」といういくつかの面はひとまず保留しておくにしてもです。

聖徳太子の「十七条の憲法」を著者は次のように見ます。

第一条「一に曰く、和ぐを以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ」(いちにいわく、やわらぐをもってとうとしとし、さかふることなきをむねとせよ)。第二条は「篤く三宝を敬へ」、これは仏教を尊重すること。第三条は「詔(みことのり)を承りては必ず謹め」、これは天皇の命令を謹んで受けなくてはならない、となります。

第一条は何でしょうか。聖徳太子は、「仏教の熱心な信者」「彼の理解の深さは、日本で初めて正しく仏教を理解した」(115ページ)人ですが、著者はこうつづけます。

さて「第一条は明らかに仏教ではありません。もちろん儒教でもありません。したがって第一条は、仏教でも儒教でもない『何か』によってできていると考えるのが合理的です。その『何か』こそ神道なのです。…ここで言っている神道とは、明治以降の国家神道ではありません。日本人が古代から信じていた宗教としての神の道という意味」(121ページ)といっているのです。

「和」がどのように表われるのか―「みだりに騒動を起こさずひたすら和を保つ。職場でも国内でも協調性を保ち、怨念が発生しないようにする」(140ページ)、「怨念がなぜ発生するのかというと、争いが起こるからです。ならば最初から争いをしなければいい…」(141ページ)、「闘争を否定しているのは、実は日本の和の思想」(141ページ)、「勝った人間が出れば、必ず負けた人間が出る。負けた人ができれば、怨みが生まれる。だから恨みっこなしにするのが一番正しい、と日本人は思っているのです」(143ページ)。

民主主義の時代においては、不当な扱い、処遇におかれているのに、それに抗議めいたことをするのが、もし「和をみだす」としておしとどめられるのであれば不当となります。本来の神道においては、不当な扱い、処遇をすること自体が、道理に反することなのでしょう。現実社会の問題はひとまずおいて、「和」とはこのようなものであると理解しておきましょう。

(3)穢れは個人的感性を超えて社会的に影響を及ぼす

「穢れ」にすすみましょう。穢れとは「諸悪の根源であり、精神的な汚れでもある」(123ページ)。汚れは洗ったり消毒すれば除去できますが、穢れは「宗教的な概念ですから、洗浄や消毒では消えません」(123ページ)。

穢れを取り除くには「禊(みそぎ)」という宗教的儀礼が必要です。その次が「祓い」となります。日本人には穢れていないものが一番すばらしいもので、「真善美」がそれを表しています。

この穢れの社会的、政治的な表われが「怨霊(神)」であり、代表例は菅原道真(天神さま)や大国主命(オオナムチノミコト)となります。

神道では、「普通のものではない、尋常でない特質、異常な特質をもったもの」を「神」として祭るのです(108ページ)。怨霊神もその一つです。人格神(たとえばヤマトタケル)だけではなく、千年の歳月を経た杉の樹、イネの神様や田んぼの神様もいます。著者は、鹿児島では通称「カライモホンジョ」という初めてサツマイモを伝えた人を神として祭った例を紹介しています(155ページ)。

神道が多神教であるのはこのようなもので、八百万(やおよろず)の神といわれるのはこのためです。それは古代以前のシャーマニズムやアニミズムと結びついた、人間の素朴な感情や心情とつながっていることを想起させてくれます。

そのなかでも、「日本の神道は多神教ですから複数の神を認めます」(109ページ)。しかし、神道では、邪なる神も祭らなくてはならないのです。「神道では、そうしたものを退治するのではなく、むしろ祭って、なだめることによって、善なる神に転化させようと考えます。それは、それができるという信仰があるからです」(110ページ)。この点が、抜群におもしろいし異色です。「和を以て貴しとなす」はここにつながっているのです。

(4)神道(日本人)のつくりかえる力

このエッセーの最後に、神道のもつ「つくりかえる力」に言及しておきましょう。ここでは芥川龍之介の「神神の微笑」という短編の内容が紹介されています。戦国時代に日本に入った宣教師が、キリスト教の布教がなかなか広まらない場面が描かれます。そこに古代日本の男神が現れて「かつて仏教もこの国に来て変質してしまった。この国はつくりかえる力というものを持っている。だからキリスト教も変わってしまうよ」と語りかけたのです。

実はキリスト教は日本では大きな広がりがありません。日本におけるキリスト教の変質も目立たないのです。しかし仏教はたしかに変質しました。最初は仏主神従であったのですが(150ページ)、やがて神仏一体になりました。神道は、「ほかの宗教にとても寛大」(152ページ)でありますが、キリスト教は「ほかの神は神と認めないのです。しかし、神道の根本にはすぐれたものは何でも神であるという考え方があります。この二つがぶつかり合うのだと思います」(154ページ)。

神道は、受け入れ、共存し、そして変質させてしまうものがある、ということでしょう。私は、アンデス地域に広がったキリスト教は、たぶん変質したキリスト教だと思います。キリスト教も、地域的広がり、時間的経過のなかで変質していきます。それが生きつづけることだからです。著者が神道をこのようにいうのは、この時間的、空間的変化が比較的少ないか、成文的な教義がないために目立たないためであることを指しているように思います。

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