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Center:112-三教における生命論

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 生命論について三教を比較しましょう。加治伸行『儒教とは何か』、井沢元彦『仏教・神道・儒教集中講座』の2書によります。<br>
 
 生命論について三教を比較しましょう。加治伸行『儒教とは何か』、井沢元彦『仏教・神道・儒教集中講座』の2書によります。<br>
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仏教の生命論は、輪廻転生(りんねてんしょう)です。「人間というのは実は死ぬのではなく、生まれ変わる」(井沢、34ページ)「不滅の存在」(35ページ)です。そして「仏教というのは現世否定の思想です」(115ページ)。その生まれ変わる範囲があります。その範囲が六道であり、畜生道や餓鬼道、地獄道というものがありますが、人間と生物の枠内で生まれ変わるということになります。<br>
 
仏教の生命論は、輪廻転生(りんねてんしょう)です。「人間というのは実は死ぬのではなく、生まれ変わる」(井沢、34ページ)「不滅の存在」(35ページ)です。そして「仏教というのは現世否定の思想です」(115ページ)。その生まれ変わる範囲があります。その範囲が六道であり、畜生道や餓鬼道、地獄道というものがありますが、人間と生物の枠内で生まれ変わるということになります。<br>
 
 現代科学のつながりで考えると、生物学的な範囲をこえます。存在しない生物を持ち込んでいますから(しかし、人間の変形とも考えられる?)、生物学的な可能性はないと思います。これは儒教との対比で考えられることです。<br>
 
 現代科学のつながりで考えると、生物学的な範囲をこえます。存在しない生物を持ち込んでいますから(しかし、人間の変形とも考えられる?)、生物学的な可能性はないと思います。これは儒教との対比で考えられることです。<br>
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儒教においては、中心概念の「孝」自体が生命論です。儒教においては死は不在です。広義においては仏教と同じです。「先祖…親…子…孫…」への生命がひきつがれます。「儒教が先祖崇拝を基調にしている」(井沢、185ページ)というのはこれで説明できます。<br>
 
儒教においては、中心概念の「孝」自体が生命論です。儒教においては死は不在です。広義においては仏教と同じです。「先祖…親…子…孫…」への生命がひきつがれます。「儒教が先祖崇拝を基調にしている」(井沢、185ページ)というのはこれで説明できます。<br>
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儒教のこの生命論は、生物学的には、それ自体で説明したことになります。生物学における個体の死と家系(生命)としての連続性(不死)が、宗教的概念として統一的に説明されています。<br>
 
儒教のこの生命論は、生物学的には、それ自体で説明したことになります。生物学における個体の死と家系(生命)としての連続性(不死)が、宗教的概念として統一的に説明されています。<br>
 
日本に伝わった儒教においては、血統の絶える断える家族継承が容認されています。これは生命論や宗教論を離れた制度論、または儒教というよりは儒学的適応になります。日本において儒教が宗教とは考えられないのは、ここに発端があります。<br>
 
日本に伝わった儒教においては、血統の絶える断える家族継承が容認されています。これは生命論や宗教論を離れた制度論、または儒教というよりは儒学的適応になります。日本において儒教が宗教とは考えられないのは、ここに発端があります。<br>
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仏教や儒教に対して、神道に関しては(少なくとも井沢書のなかには)、生命に関する記述はありません。しかし、死については記述がありますので、それを拾っていきます。<br>
 
仏教や儒教に対して、神道に関しては(少なくとも井沢書のなかには)、生命に関する記述はありません。しかし、死については記述がありますので、それを拾っていきます。<br>
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神道には、仏教の輪廻転生、儒教の孝という生命論(生と死に関する体系的な論)はありません。ただ死をおそれ、死を清浄化する作法が生まれました。仏教におけるシャカや儒教における孔子のような人が現れなかったことが、神道においてある種の理論的な停滞を招いたことのように思います。儒は孔子によってシャーマニズムから抜け出たようですが、神道はシャーマニズムのままにおかれているともいえます。<br>
 
神道には、仏教の輪廻転生、儒教の孝という生命論(生と死に関する体系的な論)はありません。ただ死をおそれ、死を清浄化する作法が生まれました。仏教におけるシャカや儒教における孔子のような人が現れなかったことが、神道においてある種の理論的な停滞を招いたことのように思います。儒は孔子によってシャーマニズムから抜け出たようですが、神道はシャーマニズムのままにおかれているともいえます。<br>
 
神道は、この生命論の空白を、仏教や儒教との融和または混合によって、独自の教義を得ないままきたように思います。しかし、神道にとってはもしかしたら不幸なことではなかったのかもしれません。キリスト教に関して小説化した、芥川龍之介や遠藤周作の作品(井沢書、145~149ページ)に示される、他宗教を「つくりかえる力」「泥沼」にひきづり込む力をもったからです。神道が(少なくともその主流が)他宗教に対して排他的ではなく、仏教と儒教の生命論を(無意識?)に容認していることによって、生命論の均衡を得ているように思います。<br>
 
神道は、この生命論の空白を、仏教や儒教との融和または混合によって、独自の教義を得ないままきたように思います。しかし、神道にとってはもしかしたら不幸なことではなかったのかもしれません。キリスト教に関して小説化した、芥川龍之介や遠藤周作の作品(井沢書、145~149ページ)に示される、他宗教を「つくりかえる力」「泥沼」にひきづり込む力をもったからです。神道が(少なくともその主流が)他宗教に対して排他的ではなく、仏教と儒教の生命論を(無意識?)に容認していることによって、生命論の均衡を得ているように思います。<br>
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生命論というのは、たぶん宗教を考えるときの重要な内容です。しかし、一般にものごとの本質を考えるとき、それが人間の生命本能とどのようにつながっているのかは不可欠な気がします。たとえば経済や物質的生産をみるときには、最終的には人間の衣食住に関係しており、そのうえでのその世界独自の法則性が作用していると推論できます。宇宙探検や原子・分子を扱う物理学でも同様でしょう。<br>
 
生命論というのは、たぶん宗教を考えるときの重要な内容です。しかし、一般にものごとの本質を考えるとき、それが人間の生命本能とどのようにつながっているのかは不可欠な気がします。たとえば経済や物質的生産をみるときには、最終的には人間の衣食住に関係しており、そのうえでのその世界独自の法則性が作用していると推論できます。宇宙探検や原子・分子を扱う物理学でも同様でしょう。<br>
 
そして、宗教や哲学においても同じです。そういうことを欠いたものは空理・空論になり、宗教や哲学の体をなさないように思えるからです。<br>
 
そして、宗教や哲学においても同じです。そういうことを欠いたものは空理・空論になり、宗教や哲学の体をなさないように思えるからです。<br>
 
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2011年3月31日 (木) 17:52時点における版

目次

三教における生命論

〔2007年執筆、2011年3月30日掲載〕

 生命論について三教を比較しましょう。加治伸行『儒教とは何か』、井沢元彦『仏教・神道・儒教集中講座』の2書によります。

(1)

仏教の生命論は、輪廻転生(りんねてんしょう)です。「人間というのは実は死ぬのではなく、生まれ変わる」(井沢、34ページ)「不滅の存在」(35ページ)です。そして「仏教というのは現世否定の思想です」(115ページ)。その生まれ変わる範囲があります。その範囲が六道であり、畜生道や餓鬼道、地獄道というものがありますが、人間と生物の枠内で生まれ変わるということになります。
 現代科学のつながりで考えると、生物学的な範囲をこえます。存在しない生物を持ち込んでいますから(しかし、人間の変形とも考えられる?)、生物学的な可能性はないと思います。これは儒教との対比で考えられることです。

(2)

儒教においては、中心概念の「孝」自体が生命論です。儒教においては死は不在です。広義においては仏教と同じです。「先祖…親…子…孫…」への生命がひきつがれます。「儒教が先祖崇拝を基調にしている」(井沢、185ページ)というのはこれで説明できます。
ただ、生命の連続性からみれば、祖先に対する孝だけが孝ではありません。「孝の行ないを通じて生命が永遠であることの可能性に触れうるのである。…永遠の生命―これこそ現世の快楽を肯定する現実的感覚の中国人が最も望むものであった」(加治、21ページ)となります。
儒教の現実(現世)肯定は仏教の現世否定と対比できます。
儒教のこの生命論は、生物学的には、それ自体で説明したことになります。生物学における個体の死と家系(生命)としての連続性(不死)が、宗教的概念として統一的に説明されています。
日本に伝わった儒教においては、血統の絶える断える家族継承が容認されています。これは生命論や宗教論を離れた制度論、または儒教というよりは儒学的適応になります。日本において儒教が宗教とは考えられないのは、ここに発端があります。

(3)

仏教や儒教に対して、神道に関しては(少なくとも井沢書のなかには)、生命に関する記述はありません。しかし、死については記述がありますので、それを拾っていきます。
神道には「穢(けが)れ」という考えがあり、それは「諸悪の根源であり、精神的な汚れ」(井沢、123ページ)、そして「穢れの中でも、最も穢れたものが『死』です」(126ページ)。「穢れというのは、人間が死ぬことによって発生する、生命の輝きを奪うような状態です」(157ページ)。死との関係において「生命の輝き」ということばが出てきます。
穢れは、「禊(みそ)ぎ」と「祓(はら)い」によって清浄化し(取り除き)ます。「そもそも穢れないことが一番いいという発想になります」(158ページ)。しかし死はさけられないでしょう。
神道には、仏教の輪廻転生、儒教の孝という生命論(生と死に関する体系的な論)はありません。ただ死をおそれ、死を清浄化する作法が生まれました。仏教におけるシャカや儒教における孔子のような人が現れなかったことが、神道においてある種の理論的な停滞を招いたことのように思います。儒は孔子によってシャーマニズムから抜け出たようですが、神道はシャーマニズムのままにおかれているともいえます。
神道は、この生命論の空白を、仏教や儒教との融和または混合によって、独自の教義を得ないままきたように思います。しかし、神道にとってはもしかしたら不幸なことではなかったのかもしれません。キリスト教に関して小説化した、芥川龍之介や遠藤周作の作品(井沢書、145~149ページ)に示される、他宗教を「つくりかえる力」「泥沼」にひきづり込む力をもったからです。神道が(少なくともその主流が)他宗教に対して排他的ではなく、仏教と儒教の生命論を(無意識?)に容認していることによって、生命論の均衡を得ているように思います。

(4)

生命論というのは、たぶん宗教を考えるときの重要な内容です。しかし、一般にものごとの本質を考えるとき、それが人間の生命本能とどのようにつながっているのかは不可欠な気がします。たとえば経済や物質的生産をみるときには、最終的には人間の衣食住に関係しており、そのうえでのその世界独自の法則性が作用していると推論できます。宇宙探検や原子・分子を扱う物理学でも同様でしょう。
そして、宗教や哲学においても同じです。そういうことを欠いたものは空理・空論になり、宗教や哲学の体をなさないように思えるからです。

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