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Center:1996年4月ー相談先を利用する視点

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2012年8月14日 (火) 22:13時点における版

相談先を利用する視点

(1996年4月、出典『登校拒否と医療・心理相談ガイド』1996年、桐書房)

 かねてから考えてきた医療や心理の場を紹介する本がやっとできました。
 一歩大きく前進しましたが、その半面、この本がどう利用されるのかに思いが及ぶとき、心配もあります。問題が起きたときその問題に詳しい人を探し、そこに任せて自分の足元の問題を見ないようにしてしまいがちです。
 登校拒否も同じです。専門家に任せてこれで安心、一件落着になっては残念です。

 登校拒否とは何なのでしょうか? 日本の社会のいろいろな要素、社会全体のゆがみを、子どもが鏡の役割をして映し出したものであるといわれています。
 教育、家族、学校、地域社会、受験競争と学歴偏重、四十人の多数の学級構成、学習指導要領で求められた莫大な教える量・学ぶ量、生活や意欲さえ点数化しようとするおかしな新学力観、生活体験の不足と知育偏重、父親の子育て放棄と教育ママ、友達関係の希薄さと集団遊びの不足、教師の体罰の横行と子ども社会におけるいじめの蔓延……。
 登校拒否の子どもを目の前にすることは、それらの一端と直接にかかわる機会が生まれることでもあります。
 でもわが家の場合やわが学校の場合は、専門家に任せて問題は素通り……というわけでしょうか。
 よい専門家との出会いはすばらしいことですが、それでも専門家に任せるだけでは問題解決のための本質はつかめません。互いに活用する協力者となる姿勢が大事だと思います。そのためにはどうすればいいのかを考えてこの第一章を設けました。
 その際、もし私が当の子どもであったらどうだろうか、という視点でまとめました。むしろ私は子どもの代弁者として、親(家族)に対して、学校と教師に対して、そして専門家といわれる医師やカウンセラーに対して、こうしてほしいということを書いたつもりです。
 なお、用語 の問題としてカウンセラーは相談員、心理療法士はサイコセラピスト、略してセラピストという相対する訳語が一般にあります。カウンセラーは本来、もう少し 幅の広い人々をさしているはずですので、ここでは心理療法士もカウンセラーという用語で表します。

(1)親は家庭で何をすればいいのか

 登校拒否の子どもを持つ親、家族の苦しみや困難を私は数多くきいてきました。特に登校拒否を始めたときのとまどいや、子どもが暴力を働いたり、引きこもりになったときの困惑は、本当に大変だと思います。
 この困難に輪をかけるのが周囲の無理解と批判、相談に行った先の相談相手からの親や子の心を傷つける心ない対応です。
そういう状態にある親にとって、家族としてはじめにできることは、家庭を子どもの居心地のよい場にすることです。それが子どもを受けとめることの出発点になると思います。
 しかし子どもの状態には不安になるでしょう。だらだらした生活をしている、ちっとも勉強しない、ファミコンばっかり、昼夜逆転の生活、友達ができないのではないか、将来が不安になる……親として(一人の大人として)イライラするのも無理のないところです。
 時たま子ども にそのいらだちをぶつけるのは仕方のないことかもしれませんが、ストレートに子どもにあたるのは自重しなければなりません。親には別の方法で解消する手段 があります。同じ状態でわかりあえる親同士で話をすることです。すでに各地に親の会があるので、それに加わるのもいいでしょう。周りに見当たらないとか、 その雰囲気に入っていけない場合は、新しく募ったりしてはいかがでしょうか。

 子どもに変わっ てほしいと願うとき、親にとって最も考えやすい方法は親がかわることです。どう変わればいいのかは、親の会に参加したり、カウンセラーに相談していけば、 だんだんと自分なりにわかっていくものです。カウンセラーにどうすればよいか指示を求めても、すぐには納得できる答えはもらえませ ん。
 カウンセラーは、期待できる答えはすぐに出せないかもしれないことをよく知っていますから、親と一緒に最もいい方法を見つけ出そうとします。このへんは早急な対応策を求める親とすれ違いを起こしやすいところです。  対応策は、親が助言を受けたり参考例をきいて、納得できる答えを自分で見つけ出すしかなく、カウンセラーはあくまでも援助者です。援助者というより伴走者だという人もいます。一方的に援助するというのではなくて、相談相手からも学ぶ、そのことでカウンセラー自身も一つ前進するということでしょうか。
 ですから、指示する、教える、という傾向を強く感じるカウンセラーは、カウンセリングをあまりよく知らないカウンセラーだと思っていいほどです。

(2)専門家につれていくとき

 次の問題は子どもを病院や心理相談所、ほかの相談所につれて行こうというときです。登校拒否の子どもの多くが自分を病気だとか登校拒否であるとは思っていません。頭痛や腹痛など身体症状がある場合も、子どもにとってはその範囲のことであって、とくに精神科への受診は意味がわからず、嫌がります。
 登校拒否自体は病気ではありません。多くの医師もそのことはわかっているはずですが、医療としての対応に困りま す。今回、この本をまとめるために、多くの医師にアンケートを送り、回答をいただきました。そのなかで、「登校拒否は病気ではないので、専門的にみている 方に紹介している」と回答いただいた方が何人かいます。ある意味ではこれは医師として正しい対応です。けれども、適切な相談者を探しておられる方には、ま だ最初の目的をとげたことにはなりません。
 またむやみに薬物療法(薬の投与)をすすめる医師への批判もありました。 多くは精神安定を促す睡眠作用のある薬物であろうと思いますが、これは基本的には、心の相談に応じたものではありません。しかし眠れないこと自体が悪循環 になる場合もありますから程度の問題も考慮しなければなりません。
 メンタルヘルスに対応する医師は、まだ少ないのが現状です。この本で紹介されている医師でさえ決して例外ではありません。そのことを自分の目と感覚でとらえていってほしいとさえ思います。
 ここである母親の手記を紹介しましょう。娘さんが登校拒否で、病院へ行きしぶっているケースにこたえる内容です。

 ◎病院へ行きしぶるには理由があります
 「UY
   なぜ不登校の子が病院へ行き渋るかというと、それには大きく分けて三つの原因が考えられます。まず第一に、とても感受性が強く傷つきやすい子が多く、自分が他者から変だと思われることにとても敏感です。不登校の子には学校のある時間に外に出られないという子が多くいます。
 うちの子もずっとそうでした。日本では小中学生は平日の昼間は学校に行っているのが当たり前で、学校のある時間帯に外を歩いていたり、電車に乗っていると好奇の目で見られます。うちの子もそれがイヤだと言います。ですから、フリースクールへ通うようになった現在でも朝は父親に車で送ってもらっています。
 不登校の子どもたち自身、自分たちが病気であるとか異常であるとは思っていないし、そういうふうに見られること をとてもいやがります。実際、不登校それ自体は病気でもないし、異常なことでもないのです。もちろん、稀に不登校の影に病気が隠れている場合もあるようで すが―。
 ですから、病院で精神科のお医者さんに「この子は正常です」と言ってもらえたことで安心し、自信がつく場合 もあります。うちの子の場合も、不登校の関連では著名な精神科医に「この子は正常です。ただ学校へ行っていないことに対する罪悪感が強いようです」と言わ れました。
 自分はちょっと変だと思われているのではないかとそのことをとても気にしていた娘にとって、「正常である」という精神科医のお墨付きは安心感を与えたようです。
 ただ治療は最初の二、三回のカウンセリングに通っただけで、それから行かなくなりました。それは、しっかりした受け答えをする娘に大丈夫かと思われたカウンセラーの先生が、娘にとって触れられたくないつらいこと(学校のこと、不登校になった理由や経緯など)について質問なさったためと、正常なのに治療を受けるということの矛盾、何かしら自分が矯正されるのではないかということを肌で感じたのではないでしょうか。
 本当は あるがままの自分を認め、あるがままの自分でよいのだと思えることが必要なのかもしれません。人間関係に傷つき、臆病になっている子どもたちに足りないの は自信だけなのです。このことに気づき、子育てに母親である私自身が自信を持てるようになるまで、病院へは私一人がカウンセリングに通い続けまし た。

 子どもが病院へ行きたがらない原因の第二は、精神科への偏見とその独特の雰囲気にありま す。私がかかっていたカウンセラーの先生は「最近は病気というのではないけれど、自分の生き方の問題で思い悩んでいる人でも気軽に精神科に相談に来るとい う例が増えていますよ」とおっしゃっていました。例えば、何か事件が起こると、よく新聞などで「精神科の通院歴あり」と書かれるように、まだまだ精神科に 対する世間一般の偏見は強いようです。

 第三は(これは第一の原因の中でもちょっと触れたこと ですが)、不登校になった原因やそうなった状況についていろいろ質問を受けると、子どもたちは当惑してしまうということです。なぜなら、子どもたちにとっ てそれはあまりにもつらい記憶であり、防衛機制が働いて、無意識の領域へその記憶を封じ込め、その前後の記憶がスッポリ抜け落ちてしまうらしいので す。
 うちの娘に話を聞いても、不登校になった小学三年生の時のことはほとんど覚えていないようです(むしろその前の 1~2年のことは覚えています)。講演会での講師の方のお話の中でも、不登校体験者から聞いた話では、不登校に陥った時は世の中がセピア色に見えたり、周 りの人々がみんな宇宙人に見えたりとまるで現実感がなかったとのことです。
 よく不登校に陥った(私はいわゆる神経症 的不登校の場合、この「陥る」という言葉が最もピッタリくるように思うのですが)、子どもたちに親も教師も医師もそれ以外の人も「なぜ?」「どうして?」 ときくけれども、不登校状態を卒業した人ですらそれに答えることは難しいようです。まして不登校状態の人、特に不登校に陥ったばかりの時にそのような質問 をすることは、本人をよけい窮地に追い込むことになります。
 このことは私の痛恨のでき事でもありました。6年半前、娘が不登校状態に陥ったとき、最初は私も主人も「どうして?」を連発し、そのたびに娘はよけい殻に閉じ込もり、おびえていたようです。
 その後、私も不登校について本を読んだり、講演会に行ったり、カウンセリングも受けて勉強し、やっと子どもの気持ちが少しでもわかるようになりました。子どもも自然体でつきあえるようになり、子どもの状態も落ち着きました。それでも、閉じこもりをやめ、曲がりなりにも外に出て行くようになるまでに、6年という長い月日がかかりました。

 結論的に言うと、子どもが病院へ行き渋る場合、無理に引っぱっ て行く必要はないと私は思います。むしろ、親が自分の不安な気持ちをカウンセリングを受けたり、親の会に参加することによって落ち着かせ、子どもに少しで もゆとりを持って接することができるようになることに意味があるような気がします。つまり、この不登校の問題を子どもだけの問題として子どもを治療しよう というのではなく、親も自分の問題、生き方の問題としてとらえ、共に考えることにより、親子ともども成長できるのではないでしょう か。」

 UYさんは、病院へ行きしぶる原因を三つの方向から示されています。①私は病気じゃな い、変だと思われるのは嫌だ。②精神科への偏見と独特の雰囲気。③不登校の原因調べ、です。そして、「子どもが病院へ行きしぶる場合は、無理に引っぱって 行く必要はない」と結んでおられます。  この結論に私も同感です。親として不安がある場合は、親自身が出向くか、その病院以外のほかの相談機関を探すことです。
 さて先の原因の③(原因さがし)に私は注目します。UYさんが適切に言っています。「あまりにもつらい記憶であり、防衛機制が働いて、無意識の領域へその記憶を封じ込め、その前後の記憶がスッポリ抜け落ちてしまうらしい」と。
 私は登校拒否を体験した子ども(ないしはすでに大人になっている人)の手記を数多く読みました。手記が書ける人は、ある程度調子がよくなっていて、しかもある程度の年齢に達しています。手記を読むと実は登校拒否の前後の事情が書かれていることが多くあります。なかには登校拒否になる前の過程がこと細かく語られているのもあります。
 先ほどのUYさんの言っていることは正しく、しかもそれと反対のことが起きています。その理由を私はこう推察しています。
 状態が改善され、自分で登校拒否の前後の事情を語れるようになれば、一つの関門を突破したことになるのです。子どもは登校拒否の状態から自分なりのしかたで自立の過程をたどり、自ら語れるようになります。語れるようになる時期や機会は、子どもの心の内側から準備されるのです。親や専門家は子どもの安らぎを保障し、援助しながら、待つということでしょう。待つ姿勢が大事なのです。
 ただ親と専門家で、原因について共に考えられる関係ができることは大事なことだと思います。親としてそこで気づいた範囲で話していく姿勢はほしいと思います。
 多くの場合、子どもへの外からの動機づけによって、その時期や機会が決定されるのではありません。しかし〈原因さがし〉として「なぜ学校へ行けなくなったか」という問いかけは、ほとんどの場合、この時期や機会にあっておらず、逆効果になってしまうのです。親の「学校へ行きなさい」、教師の「学校へ来させよう」という登校刺激も、同様に逆効果になりやすいのです。
 ですからまず家庭を子どもの居心地のいい場にすること、登校拒否の子どもを受け入れている学習塾など子どもの行きやすい場をさがすこと、保健室登校はできないか聞いてみること、など子どもが無理なくできることをさがすのも、援助となるでしょう。
 しかし、いい場所が見つかった、と言って、親が勝手に事をすすめるのは疑問です。子どもの希望を中心に考えてほしいと思います。

(3)教師と学校に期待すること
 今日、学級に一人か二人の休みがちな子どもがいるのは、珍しいことではありません。担任の教師が登校拒否の子どもに、あるいは休みがちな子どもにどう援助の手をさしのべるのかについても、さまざまな実践書がすでに提示されています。部分的ですが、教師の間で実践の交流もされています。
 教師の援助の場合、いわば職業的習性ともいえるものがあります。「学校に来られるようにする」ことを第一目標にしやすいのです。少なくとも、いずれは登校できるはずだと思っていますが、その目標をまず降ろします。それにかわる第一目標は、子ども(児童・生徒)が安心できる環境条件をつくることです。
 しかし多くの教師が援助することの困難を認めています。登校拒否とは何か、どう考えたらいいのか、どう対応していいのかとまどっています。専門機関に任せてしまいたい、と思っている方もいると思います。
 ところで、登校拒否を実践的にどのように理解するのか、私にとって最も衝撃的な見解は、ほかならない教育実践者の側から提示されました。教育の側からこれだけの接近ができるのだという可能性をみてほしいと思います。
 ここで、それを紹介します。

◎「声なし太郎からのレポートメッセージ」
 「太郎は学校ではほとんど発声しない、いわゆる場面緘黙児です。入学当初から、授業中は寝ている、ノートはとらない、そして出欠をとる時以外は一言も発しません。次第に遅刻が目立ち始め、一学期中間考査、半分以上白紙の教科がほとんどでした。相談室で検討した結果、レポーターが、継続して面談を行いました。
 両親との面談を通して、太郎が幼少の頃から現在まで、太郎のことはすべて父親が決め、まるで父親のロボットのよ うに管理され続けてきたことがわかりました。幼稚園の頃からずっと塾に通わせられていること、朝起きてから学校に行くまで父親が五分おきにああしなさいこ うしなさいと指示を出していること……。

 方策として、まず担任と、①クラスが太郎にとって安 全であるように心がける。②無理にしゃべらせようとしない。③かといって特別扱いをしない。④クラス全員に太郎の状態をわかってもらう雰囲気をつくる。⑤ 他教科担任の教員と連絡を密にし、太郎の状態を理解してもらう。⑥時間がかかる、といった点について確認しました。そして引き続き両親との面談を行いまし た。
 また、クラスの生徒には次のようなことを訴えました。
 ①太郎は小さい時か ら勉強しすぎたこと。②心がとても疲れていること。③小学校の勉強と、中学校の勉強の仕方がとても違うので今はとまどっている状態であること。④太郎は話 かけたいのだけれど、どうしてもうまくいかないこと。⑤冗談を言って笑わせて欲しいこと。⑥みんなが、毎日一回は必ず声をかけること。⑦そのかわり、みん なの成績が悪くても、少なくとも担任とレポーターは文句は言わないこと。⑧いつもクラスは明るいこと。
 中2の現在ま で、太郎には、大きな変化と思われるものが三回ありました。第一に、中1の三学期、番号順に名前を呼んで宿題を集める際、太郎が初めて、「忘れました」と 文章で答えたこと。第二に、中2の一学期に、太郎が同じクラスの生徒とケンカをしたこと。第三に、中2になってから遅刻が多くなったこと。以上の点から、 太郎はわずかではあるが自己を主張しだしたと考えられないでしょうか。
 太郎は今も授業中は机に伏せて、教科書など出していません。休み時間も机に顔を伏せ、終業のチャイムが鳴ると一目散に帰宅します。
 両親の話から推測すれば、太郎は言うとおりにするように調教されてきたのです。自分の主張が通らないんだと断念させられた、その悔しさや切なさは慮ってあまりあります。最低限自分の存在を持ちこたえるために緘黙状態になったとして、誰が太郎を責められるでしょう。しゃべらないという抗議の仕方で、親・学校・社会に格闘を挑むことは、ごく自然のことだと思います。

 しかし、われわれはこう思ってい ます。太郎がいつか自分を主張してもいいんだと決心したとき、自分を取り戻す決心をしたとき、社会と対決しようと決心したとき、そんな時にまず学校を拒否 できるのではないかと。われわれはその状態になるのをおそれながらも、太郎が登校を拒否する日がいつか来るのではないかと待っていま す。」

 いかがでしょうか? いったいこのどこが衝撃的なのか、気が抜けた方がいるかもしれません。だいたいこれは登校拒否を理解したものではない、と言う方もいるでしょう。
 登校拒否はいろいろな様相を示し、学校へ行っていない状態を除くと、一律な抽象的な定義が難しいのです。教育は実践的な科学であって、個別的に提示されなければなりません。「声なし太郎」レポートは、この教育の要請を満たしています。学級の課題(学級づくり)と子ども同士の関係(集団づくり)が、そして教師と子どもの関係も提示されています。提示内容の性格は、開放的で予防型の取り組みです。
 もちろんレポートにある、 クラスの生徒への対応で⑤や⑥の結果、かえって気がめいってくる子どももいるでしょう。ですからクラスの生徒への対応で、①から⑧までのすべての項目につ いて、どの子にも当てはまるということはありません。子ども一人ひとりが違いますし、その子どもごとに適した対応、援助のしかたがあるので す。

 私にとって斬新と思えたのは、登校拒否を子どもの自己表現、自立の過程の積極的な表現と して評価していることです。「太郎がいつか自分を主張していいんだと決心したとき……学校を拒否できるのではないかと」というのは架空の筋書きにすぎませ ん。現実はまったく違ったことになることの方が多いとさえいえます。その過程を虚心に見つめる態度が必要です。それらを含めて、しかし登校拒否も一つの選 択として頭の隅において対応するという姿勢が私には斬新に思えたのです。
 以上は、「声なし太郎」という一人の子どもに即して考えられてきたから具体的になったのです。

 登校拒否に対応することとは、登校拒否の子どもの表現を受けとめることです。専門家に任せ、その訴えを素通りすることが正しい対応とは考えられません。訴えを受けとめることで、登校拒否に対する教育の可能性は生かされ、逆に専門家に任せて一件落着させることによって、教育の可能性は力をなくします。
 「自分個人のことだから学級で騒いだり、教師が動くなどよけいなことをしないでほしい」という子どももいます。まったく学校や友達とは関係なくそうなる子どもだっているのですから、その場合はそれを受け入れることが援助です。
 専門家の協力が必要な場合もあります。この本にある医師やカウンセラーだけでなく、児童相談所や相談学級(適応教室)などの協力も必要になることがあります。しかしそれは、学内での対応、学級づくりや学級づくりを抜きにして、お任せ先と考えていいことでありません。とくに、それぞれの教師が子どもを見る目、子どもが日常生活のなかで訴えていることを受けとめる感覚を磨くことが求められています。

(4)学校と教師に求められていること

 そこで、次に学校としての対応を考えます。校長、教頭は学校の管理運営の責任者ですから、とくに積極的な対応を期待されます。
 今日の社会的事情を背景にして、さまざまな要因の複合として登校拒否という子どもの表現があります。しかし教師の体罰や子ども間のいじめなど、学校が直接に関わらなくてはならない要因もあります。まずこの点で学校が積極的に対応すること、それが学校教育の課題になります。
 基本的な方向は先の「声なし太郎」のレポートで鮮やかに示されています。学校全体を子どもが安心できる場にすることでしょう。それは私は次の種類のものになると思います。
 ①、教職員の間で日常的に子どもの生活や様子が語られる雰囲気や機会をつくること。生徒(生活)指導部を校則違反の取り締まり的役割から、全校教職員が子ども生活を語りあう役割のセンターに変えること。
 これには、各学校単位ではなく、教育委員会や学校・警察連絡会議(学警連)などの事情もかかわります。子どもを防犯の面から見る姿勢は、まず学校が中心になって改めていく必要があります。生徒指導部はそのまた中心になるのです。この転換は大事だと思います。子どもの表現を受けとめる教師の感度のよさはこのような場を通して、熟成されると思います。
 ②、登校拒否の重要な要因になるいじめに特別の対応をすること。
 担任教師個人の責任でなく(いじめ自殺で前面に出るのは校長)、学年単位、学校の全教師の情報を集め、教育的指導方法を探究しあうこと。アンケート調査やいじめの当事者と担任による手打ち型の解決では、子ども世界の奥深いところに目は届きません。
 ③、保健室(養護教諭)の特別の役割を認め、保健室登校をはじめ保健室を積極的に活用すること。
 なお保健室登校は、子どもが教室の入るための中間段階ではありません。その後、教室に入ることができる生徒もいますが、そうでなくてもかまわないのです。子どもの気持ちを信頼していいのです。
 ④、校外の専門機関、病院、カウンセラー、児童相談所、保健センター、学習塾などとの協力、父母(PTA)や親の会などとの情報交換、人の行き来を広くすすめ、学校を地域の人たちに開放されたものにすること。教職員とそれらの専門機関や人たちとの交流の機会をつくること。

 学校の条件にもよりますし、これらの諸点を別の角度から組み替えて見ることもできますが、おおむねこのようなことが提示されると思います。学校の現場にいる教師としての裁量がかなり行き届く範囲において、高い努力目標かもしれませんが、これが登校拒否に対応する学校づくりになると思います。これはごく当たり前の学校にすること以外ではありません。
 ただし率直に言えば、このほかにも学校、あるいは教師や校長などの裁量の 範囲では、できないこともいっぱいあります。たとえば、学級定数は20人が限界だと私は思っています。受験競争や学習指導要領はどうでしょう。社会はこれ らの大問題は棚上げにして、とりあえずの対応を学校や教師に求めています。そしていじめの根絶を求めているのです。学校にとって大変なことですが、しかし 学校としてできることはぜひやってほしいのです。

 そして改めて、一人の教師の課題に戻って考 えてみましょう。教師一人ひとりにとっては、その学校の状態に応じて、開かれた学校づくりをめざすことです。教職員の間で、子どもの事実に基づいて率直な 意見交換と合意づくりをめざす。それがそれぞれの学級づくり、学校づくりになると思います。
 さらに、教師一人ひとりには、なお一つの課題があると私は思います。それは登校拒否の子どもと親に学ぶことです。登校拒否というテーマに限定することはないかもしれませんが、親の会など親が中心となっている教育的サークルに参加することです。
 その際大事なことは、その親の会に教師として特別の待遇を求めないことです。一人の同じ親、あるいは一人の学習者として加わることです。教師という立場を降りて参加しなければ、ここで学ぶ意味は半減するばかりか、その親の会に迷惑をかけることにもなりかねません。そういう例は意外と多いのです。
 全国各地にすでに多数の親の会ができています。私の知るかぎりでも多くの教師が、それぞれの条件に応じてかかわっています。この事実は非常に嬉しいことですし、教育と教師の役割に夢と期待をもたせてくれます。
 なお文部省は、学校カウンセラーの導入をすすめています。現状はごく一部の配属です。私はとりあえず教職員の増員の一種と受けとめることにしています。しかし現状すでにいる教職員が、その役割をはたすように学校づくりをすすめることが優先されます。そのことが将来学校カウンセラーが増大したときにもよい結果をもたらすでしょう。
 教師は教育の専門職です。それなのに教育の本道からはずれてしまった教師がいっぱいいます。学校カウンセラーはカウンセリングの専門職です。でもカウンセリングからはずれた話もよくききます。
 両者は同じ土壌にいます。管理体制の側で成績を上げようとしたらカウンセラーだって外れてしまいます。子ども本位の土壌が学校につくられなければ、どんな職種の人が入ってきても、大きくは望めないのです。学校カウンセラーはスーパーマン(ウーマン)ではありえません。

(5)医師・カウンセラーに期待すること
 登校拒否の子どもと親は、期待と不安を抱えて医師やカウンセラー(心理療法士)を訪ねます。そこで手ごたえを感じると継続し、信頼感も増し、カウンセラーは子どもの自立の過程を助けることになります。登校拒否の子どもへの対応として紹介される例の多くは、このようなものです。医師やカウンセラーの役割はここに表れています。
 しかし、その一方で相談者から不満を聞かされることもあります。親の会での話や体験者の手記で、医師、カウンセラー、教師、相談員などへの批判をききます。ほとんどが登校拒否への理解不足と対応への不満です。
 この本のなかにも医療機関や心理相談所の側からの伝言・メッセージとして、専門家に見てもらった方がいい、という主旨の言葉がありますが、親の経験にはそのためにかえってこじれたこともあるのですから簡単ではありません。
 体験者の子どもや親の不満、あるいはなぜ行くのをやめたのか、私が見聞きしたことを列挙してみます。多くの方は、医師やカウンセラーに理由を告げないで、去っていきます。相談する親の都合や勝手な判断もあるとは思いますが、そうとばかりは思えません。いやそうであってもなお、そこから何かを学び、つかみとるだけの力量をもった専門家であることを期待するのです。

(6)中断した理由から考える
 ①、転居などで距離的・時間的に通所できなくなった。やむを得ない理由で、中断の理由を告げやすい例です。
 ②、その医師が登校拒否をクランケとして受け入れていない。ほかのよく受け入れている医師やカウンセラーを紹介された。これはかなり好ましい対応例になります。
 ③、経済的負担が多くて通えなくなった。費用はかまわないといわれるカウンセラーもおられますが、相談する側としてはしづらいようです。この費用問題はこの本の資料(3)で、別に取り上げました。そちらも参照して下さい。
 ④、費用の安い(無料の)相談先があり、そこでの対応がうまく行きそうなので、変えました。③と重複する面もあります。
 ⑤、状態が改善された(登校を再開したなど)ので、通所しなくてもよくなった。
 ⑥、子どもは必ずしも良好な状態ではないのだけれども、子どもが行きたがらないので親も通所しなくなった。後の⑭、⑮の状態を子どもなりに感じているのかもしれません。
 ⑦、前のケースのもっと複雑になっているさまざまな場合があります。たとえば子どもの状態がさらに悪化して、親が定期的に外出できなくなるケース、親のほうが精神的に疲れてしまって通う気力をなくしてしまうケース、親が医師やカウンセラーのいうことを受け入れられる状態でないときなどもあります。
 専門家の側には、これらの事情を推察することもなく、単に「来なくなった」と考えたりするだけの人もいます。
 ⑧ボーダーライン的な状態の子どもで、カウンセリングを受ける意欲が少ない。何となく相談に来ていたようで受診の動機が十分でない気がする。
 この意見はカウンセラー側から聞かれます。⑥項と似た状態のカウンセラー側からの意見だと思います。このなかには、子どもが無理やりつれてこられた例があると思います。えてして、そういうときの子どもの状態を医師やカウンセラーは意欲や動機が少ない、親の気持ちが弱いなどと表現します。さらには精神的疾患と考えてしまいます。この場合は子どもが行きたくないのにそれが尊重されなかったことが最も重要な要件であり、それを医師やカウンセラーが受けとめる力量が期待されます。
 ⑨、相談に行ったけれども、カウンセラーがあまり意見を言ってくれない。何回か通ったけれども、ちっともよくならない。話をきいてくれるばかりで何もしてくれない。
 これは親側からの意見です。たまに「なのにお金だけはかかる」という意見がつくこともあります。カウンセリングや心理療法はいろいろな方法がありますので、その一つのケースだと思います。それが親に通じていない問題です。
 ⑩、解決を急ぎすぎたり、即効を求めるのでペースがあわない。カウンセリング療法をなかなか理解されない。
 これは⑨の状態をカウンセラー側から見た意見です。
 この⑨と⑩のくい違いは案外に大きなウエートを占めるかもしれません。対応力を向上させる手がかりとして、すでに臨床家として研究されていることかと思いますが。
 ⑪、あるカウンセラーから聞いたのですが、カウンセラーショッピング(カウンセラーを次つぎに渡り歩くこと)という言葉があるそうです。そのことによるあるカウンセラーに対する中断理由です。これは後でもう一度ふれます。
⑫、 お医者さんとのやりとりがちぐはぐな感じなのでやめました。カウンセラーの先生は静かなのですが、元気がなさそうなので行く気がしなくなりました。相手 (カウンセラー)が女性なのでやめました。いろんな傾向の意見がまざっているかもしれませんが、相性があわない、ということで一つの意見としてまとめま す。
 ある精神科医が話してくれました。「顔を合わせて話をしていると、ウマが合うとか合わないとかわかる」。この医師は登校拒否にはほとんど対応していない、とのことですが、「登校拒否にもこの相性は通用する」と言っていました。
 ある小児科医が「医学というのは、高度に個体(個人)に即した科学です」と話してくれました。
 その意味で、「心を扱う医学は、最も高度に個人に即した科学」であって、だからこそ相談者と来訪者の相性は、最も敏感に作用するのではないか、と私は思います。
 心の問題はきわめて人間のプライベートな部分にかかわります。そしてこの相性の問題はかなり重要な位置をしめると思うのです。そうすると、クライアントがカウンセラーショッピングをするのは、相性のよい対応者を求めて懸命に努力している姿と見ることもできます。クライアントのなかに、その出会いは第一義的に重要なことと考える人がいても不思議ではないでしょう。
 もちろんカウンセラーショッピングという行為が、必ずよい結果をもたらすわけではありませんが、それはまた別の話になります。
 ⑬、もっと行動的なことで子どもを引っぱっていく形がほしかったので、そういう所をさがしています。勉強も見てくれるところがいいので移りました。寮みたいな所で住み込みできればよかったのですが、通所する形だとダメなんです。求める対応方法と応ずる方法のすれ違いの部類に属する意見です。
 この場合、子どもの状態、子どもの希望も親には配慮してほしいものです。そうしないと、子どもには「ありがた迷 惑」を通りこして、「親も信頼してくれない」「親も信頼できない」ということになりかねません。このような親への対応のしかたも、臨床家としての研究テー マだと思います。
 ⑭、価値観のおしつけと考えられる意見や指示によるものもあります。例えば宗教的勧誘(子どもがそ れに乗っかかって動き出した例もきいていますが)、学校への復帰(再登校)を絶対視するのも、「登校しなくてよい」を超えて学校否定論・敵視論的になって いるもの、家庭原因論で夫婦関係の問題を追及されてイヤになった…など。
 それぞれにおいて納得される方がいたり、それでうまくいくケースもあると思いますが、価値観にかかわることもありますのでそう思われたら、適任の援助者、相談者にならないと判断して行かないことをすすめます。
 ⑮、(医師やカウンセラーの学説や方法で)子どもが分類・パターン分けされるようでイヤだ(だから中断した)。
 医師やカウンセラーの気持ちとしては最も適切な対応方法を考えるための手順でしょうが、これがクライアント側の拒否反応にあうこともあります。心理検査についても、同様なことがあるように思います。
 私は精神医学や心理学の門外漢ですが、これについてあえてコメントさせていただきます。
 先駆的な精神医学や心理学者が築き、そして医師・カウンセラーとして自ら学び、研修を重ねてきた学説や方法を機械的にクライアントに当てはめるやり方は先駆者の精神を逸脱しています。経験則的に確かめられてきた理論や方法を適用するのだから、それは合理的方法だというのは間違いです。
 クライアントは学説や方法のためにいるのではなく、学説や方法こそクライアントのためにあるのです。一人ひとりのクライアントの実情に沿って発展的に対応が試みられてはじめて、その学説なり方法は生命力を持つことができます。臨床はそういう一面をもち、専門家とはそれができる人をさしているのだと考えます。
 この部分、臨床の場を知らない者の笑止な意見と思われるかもしれませんが、あえてご一考を期待します。  ⑯、ある本を読んでいたらカウンセラーが自分の「受容と把握の未熟さ」のためにクライアントがカウンセリングを中断してしまったという言葉に出会いました。私はこの言葉とは逆に、この方の受容の豊かさを感じました。
 どんなにすぐれた臨床家であっても、これが限度、これ以上はないということはありません。むしろまだ十分でない、という自覚があるからこそ本物の対応が期待できるのです。この方には、そういう力量を感じました。

 中断や不満はこれ以外にもいろいろあり、しかも複合しているものだと思います。
 一般に、相談する側と相談を受ける側が一方的な場合は、たとえ中断していなくても、いい関係とはいえません。親が子どもに対するとき、教師が子ども(児童・生徒)に対するときも同じです。医師やカウンセラーが相談する側の人に、一方的に教えたり、指示する対応しかできないときは、技量の低さが示されているだけです。
 相談を受ける側も、そこから学ぶ、発見がある、そういう受容の深さがなければ、本当の信頼にはつながら ないでしょう。援助者とか伴走者という意味にはそういうことがあります。ですから長くかかわっている医師やカウンセラーであっても、そういう相互の関係が なければ、必ずしもよい相談相手とはいえないくらいです。
 私は中断という視点から、この臨床家に求められ条件を考え てみました。専門外にいる者としては、接近しやすい視点だったからです。しかし、精神医学や心理学の本筋から、この問題に接近する方法をさぐられるのは専 門家として当然であると思っています。そのことを強く期待しています。

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