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Center:1999年9月ー不登校のメッセージとは果たして何か?

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2011年3月31日 (木) 17:02時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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不登校のメッセージとは果たして何か?

子育てと教育の環境を変えてほしい

  • 〔隔月刊『こみゆんと』(あゆみ出版)第48号、1999年10月発行にエム・T(不登校情報センター)のペンネームで載せたエッセイです。〕

日本の子どもと若者はダメなのか

 今回の文部省の学校基本調査によると、今春の大学卒業生の就職率が60.1%であったことが示されている。就職も大学院への進学もしなかった人が19.9%、10万6000人なる。これは就職難だけが理由ではない。意図的な選択としての不就職が多数含まれている。
 子どもと若者の状況を、もう少し身を引いて全体を見つめてみよう。小・中学生の不登校、高校生の中途退学(例年10万人前後)、大学生の登校拒否(!?)、大学卒業生の不就職。まだある。就職した若者の出社拒否や早期退職、ホームレスの若者(ストリートヤングとでも言おうか)、ひきこもりの人の増大、そしてフリーター(アルバイトで暮らす人)の大量の出現。
 これらのことは、一つひとつ見ると、それぞれに理由があり、それぞれに個別の特性を見ることができる。しかしそこに共通のものを感じなかったら、むしろおかしいくらいのものではないか。
 日本の子どもや若者は元気がない、ダメになった、日本の将来は希望がない、ということなのだろうか。「登校拒否だれにでも起こりうる」という文部省の画期的な見解でさえ、この見方をする範囲からは抜け出ていない。
 私はこれを子どもと若者の、ひかえ目な自己表現と見る。そこにはいろいろな要素が混じっているが、しかし、本質的なものは、子どもと若者がメッセージを発しており、それを受けとる感性が大人(教師や親も含めて)に求められているということだ。
 これらが子どもと若者からのメッセージであると見たとき、私たちは何を読みとることができるのだろうか。
 以下は、私の感覚によるこの子どもと若者からのメッセージの解釈である。いろいろな受けとめ方、解釈があり得ると思う。その一つと考えてほしい。

マニュアルでは子どもは生かされない

 子どもと若者が、現実に直面しているレベルでは、それぞれの場面(学校、家庭、友達関係、仕事、会社…)で、「これはおかしい」という感覚であり、悲鳴である。子どもと若者がそれに代わって望んでいるレベルでは、それぞれの場面で「自分を生かしたい」という感覚であり、主張である。私が、子どもと若者から直接受けるのはこの感覚である。
 これらの子どもと若者のうち、少なくとも消極的な表現をしている人に共通のことは、友達がいない、少ない(対人関係が苦手)、自分に自信がない、経験が不足していて実感が薄い……などである。そして、家から外に出にくい、人とのコミュニケーションがない、働きたくても働けない事態が生まれている。
 小学生、中学生、高校生の不登校を中心に考えてみよう。学校ではぼく(わたし)は生かされない。そこにはさまざまな制約がある。将来に向けては、自分の希望や関心とどうつながるのかよくわからない進路のレールが敷かれている。といっても、そこに教師の側の悪意が満ちているわけではない。中学生なら全員が高校に進学できるように学校で配慮されたマニュアルが用意され、より多くの生徒に、より確実性の高い進路が提示されるようになっている。
 それが子どもにとっては、制約になる。コンクリートで護岸整備された川のようなもので、流れる水は漂うことがない、淀むこともない。生徒にとっては、立ち止まること、選択に迷うことがないように教師の側から提示される。
 提示のしかたも強圧的ではない。希望を聞き、そしてそこで相談することにより安定的な確実性の高い進路がしぼられていく。徐々に選択の幅が狭められ、子どもはそれしか選び取るものがなくなったとき、それを選択する。教師にはこれを自主的に、子ども本人の意志で選択した、と認められる。ときどき親も「共犯者」に巻き込まれる。残念ながら、このカラクリは子どもたちにとっては、きわめてわかりやすいまやかしなのだ。
 子どもが求めている自分の意志や自分の選択はそんなものではない。未熟である、発達途上であることを承知のうえで、自分の意見を聴いてくれる人、自分の手さぐりや模索につきあってくれる人を求めている。いやもう少しある。自分の失敗、脱線をを見守ってくれる人を求めている。子ども自身を人生の主人公と認め、人生に役立つ経験の積み重ねにつきあってくれる人を求めている。
 大人(教師や親)の側には、たぶんこのような子どもとのかかわり方の大切さを否定する人は少ないだろう。
 しかし、ことをより効果的(あるいは効率的)にしようとした結果はどうか。大人のなかでは、その過程は省略化が進み、システム化され、便利なマニュアルになって手の内にある。これは大人側の知識の集約の結果でもあり、いちがいに非難されることとは言い難い。
 だがそれは子どもにとっては、有害になりやすい。ムダがない、失敗がないことこそ、一番遠回りなのかもしれない。経験の削除、知識の詰め込みに至るからだ。
 大人(教師や親)にこの過程で悪意に満ちた対応があるなら、問題はむしろ単純である。それは取り除くしかない。そして事実、取り除かれるようなことをする教師が、ときたま現れる。
 しかし、圧倒的に大多数の教師、その組織としての学校には悪意はない。むしろ善意に満ちている。教師一人ひとりと会ってみるとそのことはよくわかる。かなりどうかと言われる教師でも、会ってみると世間にいるごく普通に人か、それ以上にものわかりのいい人が多いように思う。そういう個人の対応のレベルの問題とは考えられない。
 子どもや若者に、このような大人(教師)の善意と、蓄積されたノウハウを乗り越える理論や運動や方法や組織をつくることは並大抵ではない。かといって、子どもの感性に響く「おかしい」というものが間違っているとか、根拠のないものと言うこともできない。
 そういう歯がゆい思いをしている子どもにとって、最も効果的な(あるいは唯一選択可能な)方法は、学校に行かないことである。もちろん、それは理論分析の結果ではないから、子どもは感じたことを、感情的に、ときには混乱して表現している。「学校へ行けない」という子どもの典型的表現が、そのようなものであることは、広く知られているとおりである。

これはひかえ目だが明確な主張である

 不登校に限らず子どもと若者の、これらのさまざまな表現――学び方さがし、人間関係づくり、自分さがし、仕事さがし、生き方さがしにおける、不透明で困難な模索状況が示しているものは、このような「おかしいよ、変えてくれ」というメッセージではなかろうか。

不登校に限らず子どもと若者の、これらのさまざまな表現――学び方さがし、人間関係づくり、自分さがし、仕事さがし、生き方さがしにおける、不透明で困難な模索状況が示しているものは、このような「おかしいよ、変えてくれ」というメッセージではなかろうか。
 子どもに対するあらゆる教育を否定しているのではない。いまの姿の学校での教育を否定している。いまの形での子どもと教師の関係を拒否している。子どもの意見のを尊重する教師との関係を求めている。若者はいまの姿の働き方や働く場(企業)を否定している。自分を生かせる仕事や働く場を求めている。要するに、人間と人間の関係において、自分が尊重され、生かされることをいろいろな場面で求めている。
 それは別な言い方ではこうも言える。自分の気持ちを主義主張にして発表していない。カモフラージュされた、ひかえ目な形での表現によるメッセージである。それだけに問題の所在がつかみにくい。それはどこか伝統的な日本方式を感じさせる表現のしかたであるとも受けとれる。
 子どもの不登校とは何か。子どもを育て、子どもを教育する環境を「もっと違った形でつくってほしい」という主張のひかえ目な表現なのだ。子どもと若者はダメになったのではない。「このまままの日本ではダメだ」とういことを、身をていして示しているのである。それを受けとめるアンテナの感度を高めたい。
 

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