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Center:2000年11月ー友人から社会参加へ

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2021年1月6日 (水) 07:27時点における最新版

目次

友人づくりから社会参加へ

『ひきコミ』創刊の言葉 (2000年11月発行)

遠くの方でベルの音がする。なかなか鳴りやまないし、音が大きくなっていくみたいです。
いや、ベルの音は初めから同じ大きさだったのです。
私の意識がはっきりしてくるとともに、音がはっきりしてきたのです。

暗闇の中で、枕もとの電話機をとり、耳にあてます。
「もしもし・・・・・・」の声。

「どうしたの?」
「なんだか眠れなくて・・・・・・」「さびしくて・・・・・・」「いまから話をしてもいいですか・・・・・・」。
遠慮がちに、ある人はおびえて震える声で話しかけてきます。
いのちの危機を感じる、というと少し大げさかもしれませんが、「話したいことがあるんでしょう」と真夜中の電話につきあいます。
明け方に近いときもあります。
実は“常連”もいます。

友達(友人)がいないことが、電話をしてくる若者に共通しています。
それはとても重大なことで、生きる力(意欲)を低下させ、社会に入っていくのを困難にします。

「友達がほしい」「仲間になって」という叫びが、日本の子どもと若者のなかに広がっています。
表面的に同調して一緒に笑うというレベルではない、本当の友達を求められているのです。
苦しい気持ちを本気で聞いてくれる相手です。
何かがすぐれていることでなくても「正当に」認めてくれる人です。
自分の気づかないことをさり気なく、ずばりと指摘してくれる人です。
求めているのは、本当の友達です。

なかには、友達が本物でないと離れていった結果、だんだん友達が少なくなり、独りぼっちになった人もいます。
多くの人と“友達”になり、そこから始まって本当の友達、親しい友人をつくることができたのに・・・・・・。
なぜ子どもたち、若者たちに友達がいないのでしょうか。
不登校、引きこもりの人たちのなかに、その背景をみることができるように思います。

社会参加に苦しむ純粋さと誠実さ

引きこもり状態にあるあなたに問いかけたい。
あなたは道で偶然すれ違った人に襲われるような恐怖を感じたことがないだろうか。
あなたは話のできる相手に対してさえ、何か別の魂胆があるのではないかと警戒心を抱いていないだろうか。
あなたは相手に受け入れられようと、素顔の自分をかくし、演技して明るくふるまっていないだろうか。
あなたは相手と決裂しないため、本心とは別の受け入れやすい返事をくり返していないだろうか。
あなたは大勢人のいる場にいたたまれなくなったり、気分が悪くなることはないだろうか。
あなたは少数で静かに話し合える場で、緊張して言葉が出なかったり、お腹がゴロゴロ鳴ることはないだろうか・・・・・・。

これらの状態は、引きこもり状態を経験した人たちから直接きかせてもらった話です。
これと似たようなことを繰り返し経験したことがあるのではないですか。
まじめ、やさしい、内向的、おとなしい、感受性がつよい・・・・・・などのうち、少なくともあなたは2つ以上を言われたことがあるのではないですか。

人間はとても高度な精神状態を達成した動物です。
あなたはそれを代表するのだと思います。
その高度な精神状態が“ある経験”によって無防備になったとき、対人関係の不安がつのり、コミュニケーションが不得手になるのだと思います。

私は、不登校や引きこもり状態を経験した人に多く関わってきたなかで、その精神の純粋さ、人間としての誠実さを強く感じることがよくあります。
そういう引きこもり状態の人が、社会参加に苦しんでいるとは、どういうことなのでしょうか。
それは人間が高度な精神状態にあることと、彼、彼女らの精神の純粋さや人間としての誠実さにむしろ関係しているとさえ思えるのです。
もう8年前のことですが、私はこう書きました。
「この子たちは社会についていけないのではない。
むしろ、社会のゆがみについていけなかった、いけないのではないか」。

私は自分で書いた、この言葉を自分でときどき思い返します。
私はあなたの感じる気持ちが、ストレートに通じる社会とは、人間と人間の関係にゆがみの少ない社会だと思います。
いまあなたが生きている社会、西暦2000年の日本という社会は、とてもゆがんだ社会であると思います。

私はあなたが、社会参加、社会復帰できることを願っています。
しかしまた、あなたの精神の純粋さと人間としての誠実さも持ちつづけてほしいと願っています。
それが、ゆがんだ社会をゆがみのないものにする力になると思うからです。

友人づくりと居場所

「親しい友人を2、3人以上つくることが、引きこもりから社会復帰するときの一つの目標となる」。
目の前で『ひきコミ』の編集作業をしている佐藤くんが、ある著名な臨床家がこう話していたと教えてくれました。

私の気持ちの奥にあった、「まず複数の友人を持つこと」が引きこもり状態の人にとっての社会参加(≒仕事に就く)過程の中間目標になるというのと一致します。

引きこもり状態にある人への応援の方法は、この友人ができる環境づくりにあります。
実際に仕事に就く、社会参加をどうするのかは本人にしかできません。
応援も、そこまで入ると干渉になってしまいます。

子どもは生まれると、家庭の中で育てられ、成長とともに仲間の世界に入っています。
母親に連れられて公園に出かけ、保育園や幼稚園に入り、やがて小学校に入学し、学級に所属します。
公園や保育園、幼稚園、学級が友人づくりの具体的な場になります。

「クラスの友達と仲良くしましょう」。
小学校の教室に行くと、ときどきこんな掲示に出会います。
これにあえてクレームをつけるほどのことはありませんが、学級集団と友達(友人)とは同一とはいえません。
学級で肩を並べ共に生活し、共に学ぶことは、子どもにとって、友達をつくりやすい環境にいるということです。

学級に行かなくなってしまった子どもには、この環境が薄まり、なくなっていきます。
登校拒否や引きこもり状態が長くなるにつれて、この友人づくりの環境が消失します。

学級・学校は、子どもにとって学習の場であるとともに、友人づくりの場なのです。
子どもの成長とともに身につける社会性は、この友人と学習が中核になっていきます。
学校に行かなくなった子どもには、学級・学校に代わる友人づくりと学習の場が必要です。
私はそれを“居場所”と表すことにします。

家庭を子どもにとってよい居場所にするという言い方もしますが、それは必ずしも学習や友人づくりのための居場所ではありません。
この居場所は、家庭以外の居場所です。

義務教育である中学校を卒業すると、不登校や引きこもり状態の人にとっては、意図的に居場所(友人づくりの環境)を求めなくては、社会性を養う機会がありません。
中学校を卒業して、就職し、働ける人も少数います。
その場合はその働く場が居場所であり、仕事を通して、人とかかわり、物事を学んでいます。
高校進学率95%以上の今日の日本では、中学校卒業で働ける仕事は少ないです。
皆無というわけではありません。

しかし、不登校や引きこもり状態の人は、高校に入学せず(できず)、また入学しても登校せず(できず)にいることになります。
同じことは、大学の登校拒否や、 社会人の出社拒否の人にも当てはまります。
フリーターや家事手伝いといっている人にも、同様の人がいます。
これらの人を含めて、大雑把に“引きこもり傾向”とよべるでしょう。
「引きこもりからの社会参加の過程の中間目標に、友人を複数もつこと」とは、この脈絡のなかで考えることです。

引きこもり状態の人には、環境として友人をつくる居場所がありません。
この人たちは、それぞれ個別の事情から、この居場所にいたたまれなくなって離れてきた人です。

この人たちは、友人が必要ですが、その前に友人をつくる居場所が求められます。
その居場所は、以前のいたたまれなくて離れざるをえなかったような居場所ではありません。
どんな居場所が求められるのでしょうか。
不登校情報センターに集まる若者サークル・人生模索の会の情景を思い浮かべてみます。
自分の体験したことを弁解なく、実感をそのまま語ることができる場です。
それを正面から聞いてもらえる場です。
自分の語れる範囲で語り、話せないことは話せないこととして認めてもらえる場です。
それは比較的少人数で、司会者は不要で、話があちこちにとんでもいい場です。
したことや言ったことをとがめられたり、不十分さをせめられる場ではありません。

人は物事の道筋がわかっているからできるわけではありません。
理性的行動には、感性(感覚、感情)が先行します。
ウソだと思うなら、幅1メートルの狭い溝、しかし深さが100メートルある溝を下を見ながら跳び越えてみなさい。
ほとんどの人が跳ぶことができないでしょう。
感性が理性に先行するとはそんな意味です。

居場所に話を戻します。
上に述べたことが唯一の姿とは言えません。
佐藤くんが「ある程度人数がいても、何か作業しながらだったら居られるんですよ」と言いました。
数十人が会議している雰囲気の場には彼は入っていきづらいです。
しかし、参加している人の一人として、自分が分担している仕事に集中できるのなら入っていける、といっているのです。

それが仕事でなくても、例えばトランプや将棋であっても、体を動かす体操のようなことでも、ギターを弾いたりすることでも、人によっては可能なのでしょう。
そういう人にとっては、その雰囲気のある場も居場所になります。

このような居場所のなかで、引きこもり状態の人は、友人を得ることができます。
その延長のなかで、友人は複数(2人以上)になるだろうし、「親しい友人」も生まれます。

引きこもり状態の人に親しい友人ができるときには、意外な出会いやハプニングによる場合もあります。
しかしそれは準備できないし、意図的・計画的な対応方法にはなりません。
居場所を設け、そこに加わることで、友人につながるハプニングや出会いも多くなるに違いありません。
それは準備でき、意図的に追及できる友人づくりの場です。

摩擦のある人間関係へ

居場所に加わることが、友人(それも親しい友人)づくりのための準備過程だとすれば、「親しい友人づくり」につづく、社会参加あるいは社会復帰の条件も必要になります。

早岐くんがこんなことを言っていました。
「人間関係の訓練だと思って、就職試験の面接をつづけています」。
居場所での人間関係が、お互いに受け入れ姿勢を持った、摩擦の少ない人間関係であるとすれば、社会参加、社会復帰に求められるのは、摩擦のある人間関係ではないでしょうか。
もちろん、摩擦の強い人間関係は苦しすぎます。

早岐くんの言葉は、普通程度に摩擦のある人間関係に耐える、そこを生きぬく人間関係の力が社会参加は必要だと実感しているのだと思います。
友人が複数いれば、このような新しい出会いである摩擦のある人間関係に入るうえでもお互いの力になるでしょう。

大潟くんのように、「短期アルバイトをくり返している」というのも、同種の摩擦のある人間関係の訓練になると思います。

それと並んで、不登校情報センターが実験しようとしていることは、この『ひきコミ』編集室自体です。
引きこもり体験者などの仕事場にしていくこと、社会参加の訓練の場とすることです。
ここに集まる人たちが、共同で、集団的に社会参加をめざすことです。

不登校や引きこもり状態の人を受け入れようとする人たちはかなり多くなりました。
全国各地で、いろいろな団体、機関、運動ができ、広がっています。

この個人情報誌は、不登校、引きこもり対人関係不安の人たちから発信し、その友人づくり、社会参加につながることをめざしています。
同時に、不登校や引きこもり状態の人たちをサポートする、全国のフリースクールや親の会などの支援と活動を知らせ、交流することもめざします。

(文中登場人物は仮名です)

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