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Center:2003年10月ー引きこもりから社会参加へ

提供: 不登校ウィキ・WikiFutoko | 不登校情報センター
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目次

引きこもりから社会参加へ

〔2003年10月12日〕

はじめに

こんにちは。不登校情報センターの松田です。
不登校情報センターに親の会である「IINA(いいな)会」というのがありまして、月1回定例の会合を持っています。今日は10月の第2日曜日で、親の会の日にあたります。
私は親の会の代表で、今までにいろいろな趣向の企画をたててきましたが、まとまった話を親の会のみなさんに向けてお話する機会がありませんでした。
たまにはまとまった話をしようと思っていたところ、今回のシンポジウムとぶつかりまして、今日は親の会と共催という形にさせていただくことになりました。
親の会以外の方でもし自分の子どもさんが引きこもり状態であれば、親の会の方にも参加していただきたいと思います。ただ、不登校情報センターの親の会は2つありまして、「IINA会」と、もう一つは、訪問サポートをしている「トカネット親の会」もあります。ちょっと複雑なのですが不登校情報センターには親の会が2つあるということです。
私が話す内容は「引きこもりから社会の一員へ」というレジュメをお渡ししました。おおよ そこれに基づいてお話をさせていただきます。他に資料として、主に高等学校の「現代社会」の教科書代わりの参考書に当たるものなのです。それの「青年期」 について取り上げたページを印刷したものを渡してあります。
「青年期」というのは、10代の終わりぐらいから、最近では30歳ぐらいの人のことを指します。そこでは人間にいったいどういうことが起こるのか、このテキストには簡潔にまとめられていて、今日の資料に丁度よいと思いました。
この本には、いわばオーソドックスな人間の成長発達を示していると思います。「引きこもり」の人たちは「オーソドックスではない」わけです。いったいどこが違っているのか、それを考えるために参考にしていただきたいのです。しかし教科書通りという人もまた少ないのですから、教科書に書いてある通りではないからといってそう心配することはありません。
一番目が「大人になりたくない」、あるいは「大人になれない」。いわば、引きこもっている人の現状評価です。
二番目が「社会性」についてです。ここを一番詳しく話さなければならないと思っています。
三番目が「引きこもり期」です。引きこもりがなぜ必要なのかです。
四番目が「居場所の役割」です。社会参加の過程で求められる環境です。
五番目に付属として「家族の役割」についてです。

これらについて、順番にお話していきます。

大人になりたくない

まず一番目、「大人になりたくない」について。
これは引きこもりの経験者には「大人になりたくない」と考えている人の割合が、かなり高いのではないかと思います。
それから、「大人になれない」とか「子どもっぽく見える」とか、そういう人がかなり多いでしょう。「なりたくない」のと「なれない」のとがあって、本人も区別がつかないのではないかと思います。
「なぜなりたくないか」あるいは「なぜなれないか」。その背景はまず「大人に魅力がない」からです。
大人、特に親を見ていて「あんな苦労なんかしたくない。どうして大人は、平気であんな苦労をしてやっているのか」。なぜそう思うのかというと、親は自分に対して「大人になったら大変だから、いまのうちにがっちり勉強しておきなさい」とか、「○○しておきなさい」とかを本当に一生懸命言っているんです。
「どうしてそんな苦労をして大人にならなければいけないのか」というような感覚が子どもの側に生まれるのだと思います。これはかなりの人に見られるのです。

次の事情が肝腎です。「大人になるということは、実は心が汚れることじゃないか」。「平気で○○ができる」ということ。例えば「平気で無賃乗車ができる」とか。「お金が落ちたのを拾っても交番に届けなくても平気」とか。そういう「平気で○○ができる」という感覚に対する嫌悪があるのではないかと思います。これはすごく特徴的だと思います。
私もこの基準からいくと、「おかしなこと」をいっぱいしています。朝8時にゴミの回収 があるのに間に合わないから、夜のうちに指定のゴミ回収置き場にゴミを出すなんてのをやっています。こう見ていくと、実は引きこもりの経験者も無意識のう ちに「ある程度のおかしなこと」はしているんです。ただし、意識した場合は、あるいは意識せざるを得ない場合は、かなり避けていると思いま す。
例えば、不登校情報センターでは、玄関に10円落ちていたというようなことがあると、それが誰のものかよくわから ない場合は、それが自分のものでない限り、よく私の元に届きますね。なくなる心配というのが本当にないのです。自分のものでなければ持っていかない。10 円くらい、いいんじゃないかと、私なんかはふっと思ってしまうんですけれども、そういうことができないし、嫌なんですね。できないだけじゃなくて、嫌なん だと思います。そういう純粋な気持ちがあるのではないか。
それに比べて大人になるということは、そういう変なことを平気でやってしまう。そういう人間になりたくないという気持ちがどこかにあるんじゃないかと思います。
それは「純粋性を持ち続けたい」ということなのです。よく考えてみると、小さい子どもはそうですね。小さい子どもは10円拾ってもちゃんと交番や大人に届けますよね。それと似たような状況が10代の後半になっても、20代になっても、もしかしたら30代になっても心の中にあるのではないかと思います。
これが「大人になりたくない」という一面です。

もう一つ、レジュメの下の方に括弧書きで「中性的」とあります。意味がわからない人もいると思います。
人間は子どもからに大人なっていきます。その大人になる前に実は子どもから男になるのです。子どもから女になるのです。その後で大人になるのです。
ところが、「大人になりたくない」、そういう意識や気持ちがあると、長い時間をかければ体の成長もそのように反応します。長い時間をかければ。男性なら自分は大人になりたくないという前に「男になりたくない」ような気がするんです。
女性の場合なら、大人になりたくないの前に「女になりたくない」ような気がするのです。それが中性的になるんです。はっきりそのように言う人もいますし、なんとなく「男なんだけれども、女っぽい」とか、「女のはずなんだけれども、男っぽい」とか、そういう中性的な感じになります。体は年とともに大きくなりますが、意識が出口をふさいでいる。
その出口をなんとかこじ開けようとすると、中性的という出口になるのではないかと思います。

依存と子ども返り

二番目の「社会性」についても、「大人になりたくない=子どもである」ということが、いろいろな意味で影響を及ぼしていると思います。
一つは「依存」です。例えば、小学校低学年くらいの子どもであれば、子どもは親の影響の中で、いわば親が産んできた勢いで生きているんです。
ところが思春期の後は、親の力ではなく自分の力で生きるという、いわば「ギア・チェンジ」をします。ところがそれがなかなかうまくできない。「依存」というのはそこに関係するのです。
私は最近、「魔女の宅急便」というアニメ映画を観まして、「この映画はまさにそれを描いたんだな」と思いましたね。キキという少女の魔女が、それまで普通に意識もしないでほうきにまたがって空を飛べていたのに、あるときから飛べなくなった。最終的には自分の力で飛べるようになるのですけれども、そのときに重要な役割を果たすのが友達なんですよね。そういうことを描いている映画です。
「ギア・チェンジ」=親から生んでもらって、親の力でできたことが、自分の力で生きていかなければならない。それは子ども性を抜け出すということなんです。言い換えれば、親への依存から自分の力で自立していく道をたどるということなのです。
引きこもりになっている人の多くは、実は小さい頃の依存経験が少ないんです。思春期になる前に依存ができる、例えば学校から帰ったらいろいろなことを親にしゃべって、そして親が「どうしたの、こうしたの」といろいろ無駄話を聴いてくれる、そういう経験があると、子どもはどこか安心できて、自分なりものものを伸ばしていけるのです。親は早くから依存しなくて早く自立したらいいと考えたのかもしれません。
そういう経験がなくて「それがどうしたの」「そんなことより早く宿題しなさい、明日の予習をしなさい」「塾の時間がもうすぐでしょ、早く行きなさい」と、そういうことがずっと重なって、親への依存経験が少ないまま大きくなったのです。
そうすると、依存から離れようとする時に、離れきれなくなるわけです。それが「依存できた経験がない」=「子ども時代がない」という結果になると思います。

私はこの「子ども時代の欠如」を補完しなければならないと思います。10代であろうと、20代であろうと、30代であろうと。そこのところでいろいろと葛藤するわけです。
私の最近の感じでは、依存させてあげた方がいいかな、と思っています。10代の後半とか、20代になった人が、親の布団の中に入ってくるとか、いわゆる子ども返り、そういうことを私は認めた方がいいと思います。
それは、小さい時にそういう経験が少ない、なにも布団に入る方法が全てじゃないけれども、子ども時代がなかったそういう子が大きくなってから子ども返りの欲求が出てくる。そういうのは受け入れて欲しいと思います。
こういうことは、親でないとなかなかできないです。親以外にできるのは、「信頼できる人」です。ただ「信頼できる人」といっても本当はなかなか大変なのです。
例えば、私が知っているのは20代になっても「おんぶしてほしい」。そういうのもあるんです。でもなかなかそう簡単にはおんぶできないです。20歳になった彼や彼女をおんぶして、街の中を歩けるのか。すっかり暗くなって人通りが絶えたらやろう、そう思えるのは親か信頼できる人でしょう。
そういうことも含めて補完するということです。信頼できる人がいれば、おんぶであるとか、だっこであるとか、そういうのとも違う、安心して自分のことを、少なくても子ども時代の、いわば恥ずかしい話ができるようになるのではないかなと思います。
親や「信頼できる人」がこの依存をどの程度受け入れられ、実行できるのかはそう単純ではありません。それを率直に受け入れられれば問題はないです。しかし、体力、精神力だけでなく、社会生活条件などいろいろなことが関ります。
そこで「枠をつくる」という方法をとるわけです。しかし私は「枠をつくる」ことだけが対応ではない、その前に依存を受け入れられるなら受け入れていい。それができないときに、枠をつくる方法が求められると考えたいと思います。

社会性

そういう状態があって「社会性」の話に入ります。私は「社会性」という言葉は、去年くらいまではあまり使わなかったんです。それまでは「思春期」と「反抗期」という言葉はよく使っていました。
去年のことですが、国語辞典を開いて「思春期」の項目を新ためて読んでました。どういうことが書いてあるかというと、「体が成長し、物に感じやすくなり、特に異性に対する関心が強くなる年ごろ」(『新明解国語辞典』三省堂)と書いてあります。
私にとっては、教育雑誌の編集者をやっていたときに学んだ「思春期」とは意味が違うんです。思春期にはもっと広い意味があります。単に体の成長があって、異性に関心を持つということではありません。思春期というのは、社会的ないろいろな意味があるのです。
ただ私が、思春期ということで話をすすめると、国語辞典には書いていないことをイメージして聞いてほしいということになります。それで「社会性」という言葉を使うようにしようと思ったのです。
「社 会性」というのは、社会のいろいろなことをわかっていくということなのですけれども、これをどう学ぶのかいうと、実は学校の教科書で学ぶのではありませ ん。教科書で学ぶこともあると思いますが、それはほんの付け足し程度です。何で学ぶのかといえば、友達との関係から学ぶのです。
それがさきほど話しました、子ども時代の子どもらしい生活です。羽目を外すとか、いろいろな失敗ができるとか、そういうことです。そういう経験をしていると、人間関係をつくりやすいのです。社会性を身につけやすいのです。
ところが、それがないということは、小さい頃から知識偏重となるように思います。例えば教科書の内容をしっかり勉強してさえいれば、社会でも十分通用する人間になれる、そう仕向けられていって人間自体に触れていないのです。

人間をどこで学ぶのですか。理科で学ぶのですか。小学5年の理科で「人間」という単元があるのですが、そういうところで人間を学んだとしても、社会性を身につけるうえでは、ほとんど意味がないのです。生物学としては意味があります。
自分が生きていくうえでの人間学習は実際に目の前にいる、あるいは横にいる人間と関っていくということです。
小さい子どもだと、それにあたるもので最もいい方法は「けんか」だと思います。でもいまの親御さんは、けんかをさせないですね。けんか=悪いことなんですね。でも、本当にけんかをするのはいけないのですか。
私たちが小さかった頃は、「けんかをした子ども同士はすごく仲良くなる」とよく言いました。今は死語かもしれませんが。そういうことを聞いたことはありませんか。私ぐらい年の人間ならたぶん聞いたことがあると思いますが。
最近は「けんかは悪いことだからさせないほうがいい」と聞きます。でも、子どものけんかは人間学習なのですよ。どこをどうすればあいつは泣くとか、自分に対して本気で向かってくるとか、逆にあいつはこうすると嬉しがるとか、そしで仲直りの仕方とか、そういうことを学のです。
そういう機会がなくなってしまっているのですね。子ども時代があるからこそ、そういうことができるんです。

子ども時代とはなにかと言えば、一つの面は「親の目から離れたところで子ども同士が自分たちの時間を持っている」ということです。今の世の中はそれができにくいのです。ずっと親が子どもを見ていますよね。あるいは誰か大人が見ている。学校の先生の間でもけんかということがすごく悪いということになっている。いじめよりもひどいということになっているのではないでしょうか。いじめとけんかの区別がなくなっているのかもしれません。
そういう人間を知ることが社会性の前提にあるのです。その前提がないと結果がどうなるかというと、典型的な例を挙げれば、「味方でない人間は敵に見える」のです。人間は見方か敵かになる。
あるいはこれは「完璧性」と同じなのです。ぜんぶきっちりやらないと気がすまないか、まったくやらないか。ともかく両極端にいきやすいのです。全てか無か、敵か見方か。そういう格好になる。何かお互いにやりあって一緒に何かを作るとか、折り合うとか、妥協とか、そういうことがやり辛くなっている。
なぜそうなっているのかの背景をみると「認められてこなかった」「受け入れられて来なかった」「誉められたことがない」という子ども時代があり、しかも多くはいまもその状態がつづいている。
子どもに対して「まだ足りない」とか「もっと○○しなさい」とか、こういうことが多いように思います。私が知っているなかで「驚いた」というかわかりやすい例を挙げれば、学校の成績がすごく優秀な子で、今はある国立大学にいっている人なのですが、その子はテストで95点とると、「どうしてあと5点とれなかったんだ」と親にいわれたんです。成績はクラスでトップなのに。どうしたって誉められないのです。100点とったらもう安心かというとそうではないんです。「この町で100点とったのは何人いるんだ」と、こう言われるんですね。できたから誉められるとか、できなかったから誉められないとか、関係ないんですね。確かにできない子は誉められる機会が少ないことは確かですが。
これが例外かと思って、ある講演会でこの話をしたの です。そうしたら聞いていたあるお父さんが、私もそうしましたと言っている。例外ではなさそうです。子どもの方は、誉められたことが全くないということは なく、少しくらいはあると思うのですけれども、記憶の中にはないのです。
親にしてみれば「あの時はあんなに誉めてやった」と思っているかもしれませんが、子どもにはその意識にないですね。ずっと叱られていますと、たまに誉められても記憶に残らないのです。
だから「自分は全然認められてこなかった」とか「誉められてこなかった」とか、そういう気持ちになっていくのだと思います。
こういう感じが子どもにあると、自己否定感が強くなってしまうんです。いつも自己否定感がある子になる。それからもう一つは受け身になります。両者はどこかでつながっているのだと思います。
受付でこれをもらった方もいると思いますが、「引きこもりの高いプライドを考える会」という冊子を、不登校情報センターに通っているI君というのが作りました。これを見ると体験談が書いてあります。この体験談は分かりやすいです。
どうして自分が自己否定感を強め、受け身になっていったかという歴史みたいなものが書かれています。受け身や自己否定感の表れ方は一人ひとりが違います。I君の場合は、「引きこもりの高いプライドを考える会」という形でそれを示したのです。

人への安心感

典型的ともいえる「味方でないと敵に見える」という感覚が引きこもり経験者のなかでどう表れるのかをみてきました。それがどうなればいいかを次に話します。
「人として付き合っていくなかで人の多様さ、個性、距離の取り方、折り合いのつけ方、そういうのを身につけていく」ことです。
最初から敵であるということは、付き合いが始まらないということなんです。
この人たちの多くはまずもって、味方であるということを確認したいわけです。そうすると、まだ関係が始まるかどうかのうちに「自分のことを認めてください、承認してください、「というような感じで迫ってくる」のです。
そうなると、相手にとっては、初対面の同じ世代の人からそうされるのはすごく重たいのです。まだお前のことを知らないのに、どうして受け入れなきゃいけないのだ、と感じる。
「付き合っているうちに、そのうちわかるじゃないか」そういう感覚が必要なのです。
これはごく当たり前なのですけれども、でも相手が自分を認めていると確認できないと不安なんですよ。
まず自分のことを否定しないでね、とにかく私のことを見ててね、という根強い願望があって、それで、「いいよ、O.K.だよ」というサインを自分なりに確認できたら、なにか始めていこう、となります。
「ま ず付き合っていこう」という感覚になるには、ある程度時間がかかるのです。最初そういう依存されてきた時に、「O.K.だよ」というサインを出せる人、こ れが先ほど話した「信頼できる人」という可能性をもった人でしょう。カウンセラーは職業的にわかっているからO.K.するんです。ただし信頼できるかどう かはそのときは関係ないのです。
カウンセラーではなくて、同世代の人であると、もっといいのでしょうね。そうなるためには人間に対する一般的な安心感が前提になるのですよ。小さい頃に親に依存してきた経験があれば、人間に対する一般的な安心感が生まれるのです。
しかし親から常に叱咤激励され、あるいは何か言うと常に拒否された経験が強いと、人間への安心感がないのです。なかなか人への安心感がもてなくて、そうするとごく少数の、自分のことを受け入れてくれた人でないと、人間関係が始まらない、となっていくのだと思います。
「敵でもなければ味方でもない」という人が実際には多数を含めます。そういう感覚をどう育てていくのかと。これが実は「社会性」を育てることの中心的な問題だと思います。中心問題なのです。
社会に入っていけるのは、そういう感覚なのです。とりあえず、まだよく知らなくても人間として尊重できるという気持ち、感覚、それがあることが、社会に入っていけるとことなのです。
「味方か敵か」という気持ちでは、非常にびくびくした状態になります。なかには対人恐怖とか、警戒感がひどく強くなるとか、人間不信となっています。それをなくしていくことは、人間に対する安心感を育てていくことなんです。
それをつきすすめていきますと、実は自分に対する安心感があることになるんです。最終的には、自分自身が信用できるのかというところまでいきます。

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