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Center:2003年10月ー訪問サポートから社会参加につなげる

提供: 不登校ウィキ・WikiFutoko | 不登校情報センター
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目次

訪問サポートから社会参加につなげる

〔2003年10月19日〕
引きこもりなどの当事者にとっての不登校情報センターの三つの役割について話します。

不登校情報センターには引きこもり経験のある人を中心にいろいろな当事者が出入りしています。
平均すると毎日10~20人くらいです。
その人たちは、何をしに来るのでしょうか。
本人は必ずしも来る目的を明確に自覚していません。
目的を明確にしている人もいます。
例えば、異性と話しをしたことがないから話してみたいとか、友達が1人もいないから話をしてみたいとか、自分は哲学的なことを考えているのだけど他人に話したことがないから一度話してみたい…などです。
そういう本人なりの意味、動機を自覚したり、自覚しないで来るのです。
私の方は、そういういろんなバリエーションのある目的に対して、どういう形で彼らを受け入れていくかを考えることになります。
そうは言っても、いつも明確に意識していたのではなく、あえて言うならば「できそうに思えること」をずっとやってきたように思います。
その先に何があるのかと言いますと、最終的には「社会参加」なのです。
社会参加をすることが到達目標なのです。


しかし、情報センターを設立してからの8年間にその言い方や意味合いも少しずつ変わってきました。
当初は「社会参加」というよりは「仕事に就けるように」という意味合いでした。
5~6年前まではそうでした。


4年くらい前から「社会参加」という言い方が多くなったと思います。
最近は「社会の一員として生きる」という言い方もしています。
しかし、引きこもりの経験者がいきなり最終目標に到達することはあまりありません。
そこまでにはいくつかの区切りになる通過点のような段階的な目標があります。
たとえば、「当事者に複数の親しい友人ができること」が通過点の一つにあります。
これは非常に大きい意味があります。私はこれを中間目標と考えています。

最近も、情報センターに来たことのある日とがこんな話をしていました。
「ここでできた友人関係がいまもつづいているから、自分は仕事ができる。意欲を持ち不安を乗りこえていける」。
この人は当事者の会をいわば“卒業した人”です。
引きこもりに対応されている斎藤環さんという精神科のお医者さんは「当事者に親しい友人が複数できるということは、医療としても言わば到達目標である」と言っています。

中間目標から到達目標へ

不登校情報センターは医療機関ではありませんから、それが到達目標ではなく、中間点です。
そしてこの中間目標で終わるわけにはいきません。
実はここからがさらに大変なのです。
中間目標から到達目標までが一つの大きな課題です。
今日、私はその課題を3つに分けて話します。

不登校情報センターに出入りしている人にも精神科に通院している人がいます。
そういう人は医療機関で「あなたは医療機関にかかることは大事だけど、これから大事なのは社会に入っていくことだ。そのためには、人間関係をつくることだ」と言われるそうです。
人間関係をつくるということを、ひとつの段階の一つのテーマのように言われます。
私の感覚では、人間関係をつくることの中に少なく見ても10段階くらいのステップがあるのです。
それには個人差があり、その段階を全部通らなければならない人もいれば、2、3段ジャンプしながら通るという人もいるでしょう。
ともかくいくつかの段階があり、それを階段状に見立ててみるとどうなるかということをまず考えてみたいと思います。
その階段のステップを形づくっている要素はいくつかあって、それが組み合わさって10段くらいになるように思います。
そのいくつかの要素のうち重要なことが3つあります。
一つは、人とかかわること、特に複数の人間が同時にいる場所において、「生身の人間を知る」ことです。
それは教科書に書いてあるような人間ではありません。
生身の○○くんであり、××さんなのです。
それは、同時に感覚的なレベルで体験的に実社会に触れるということです。

二つは、その過程を通して「心を育てる」こともあります。
心ってなんでしょうか。心は目に見えません。
心に対比する言葉は体です。
よく「10代は心身ともに成長する」といいます。
「身」の方は体が大きくなるのですから目に見えます。
では「心」はどうやって育つのでしょうか。
それはとてもわかり難いのです。
「身」の方は、よく食べて、よく寝て、運動するほかにも要素はありますが、おおよそ、この3つがあれば成長します。
では「心」はどうしたら育つのでしょう。
実は人との関係で育つのです。
人とかかわる中で「心」が育つのです。
人と関わることは実は心を育ててもいるのです。

その前提条件として特に重要なのは「人への安心感」です。
それがあると「自分を尊重できる」ようになります。
これは「自分に自信を持つ」と言い換えてもいいと思います。
同時に「他人を尊重する」ということです。
「他人を尊重できない人は、自分も尊重できない」、「自分が尊重されていない人は、他人を尊重できない」と言える面もあると思います。
引きこもり経験者のなかには、こういう面が不足しています。
人と関わるのに必要なこういう前提をよびさますのです。
そういうことが「心を育てる」ことの中に含まれます。

三つは「個性」です。個人の特長、興味関心、あるいは「常にしていること」です。
親から見て、子どもが常にしていることはくだらないことに見えるのです。
例えば、寝てばかりいるとか、ゲームばかりしているとか、テレビばかり見ているとか、何もせずにぼーっとしているとか。
それらはダメなこと、否定的に見えます。
親ばかりか当の本人もそれをダメなことと思っていることがあります。
ところが、「常にしていること」は大事なのです。
子どもがパソコンばかりしていて、「早くやめてくれないかな。それよりも外へ出てくれないかな」と思うかもしれないですが、「常にしていること」には子どもの未来が隠れています。
それはやめさせてはいけないのです。
むしろそれをしている子どもの心の中にどういう要素があるのか発見してほしいのです。
それを成長させて、社会でというか人前で表現する、あるいは収入につなげることに結びつけることが大事です。
親はそれを認めるとか、ほめる形で向き合えばいいでしょう。
同世代の人と関わりをもつことはさらに大きな意味を持ちます。
それは自分さがし、自分の発見になるのです。
人間関係をつくるなかで、これらが少しずつできるようになるのです。
以上の三つですね。

人と関わることで「生身の人間を知る」、「心を育てる」、「興味関心を育てる」、この三つの内容が人間関係をつくることの内容です。
友人がある程度できたところから、もっと親しい友人関係になるのと平行して、この三つが成長していくのだと思います。

訪問サポートの活動

今日の企画を主催しているトカネットは訪問サポート活動をしています。
不登校情報センターやトカネットは、今まで私が述べてきたようなことをどのように実践しているかということを、概略的に説明します。
私は、親しい友人ができるということを中間目標だと言いました。
先進的な医療機関でもその人間関係づくりをやっているということでした。
それは社会のいろいろな所、いろいろな人ができること、必要なことを考えていってほしいと思っています。
私は、いま人間関係がもたらす3つの要素を話しました。
それを今度は具体的な取り組みの場面から話していきます。
不登校情報センターが取り組んでいる取り組みの3つの段階といってもいいでしょう。
3つの具体的な取り組みを挙げてみます。
まず1つは「訪問サポート」です。
2つめは「居場所」です。
3つめは「社会参加」です。
この3つをそれぞれ具体的に説明していきます。

1つめの「訪問サポート」は、主に親しい友人ができるまでの過程です。
どういう中身があるか、概略的に話します。
もちろん個人差、男女差、年齢差など、いろいろなことに関わってきますから、これから話すことが全員に当てはまるわけではありません。
およそ、このどれかに当てはまることが多いのだと思っています。
訪問サポートについて今日は5つの点を話します。
ただし終わりの方は訪問する側の問題についてです。
最初に訪問される方について話します。
引きこもっている人が訪問によって外出できるようになるには何が必要か。
あるいは外出しているけれども人間関係ができない、どうしたらいいか。急がば回れとなります。
私は不登校情報センターに出て来た人に対して「自分で自分を育てなさい」と言っています。
これが基本です。
そのうえでいろんな状況があり、それに応じたことを話します。
家族、親に対しては違うことを言います。
家族が本人に「松田が『自分で自分を育てなさい』と言ったからあんた、自分で自分を育てなさいよ」と言ってほしくないのです。
なぜなら、「自分で自分を育てる」のには、自分を育てやすい環境が必要です。
その環境のなかで一般的に一番大きい役割は家族なのです。

家族が子どもに対して、そのような見方、あるいは応援をすることによって、子どもは動きやすくもなれば、動きにくくもなるのです。
プラスの応援になるか、マイナスの足の引っぱり役になるのかですから、その差はすごく大きいのです。
不登校情報センターに相談に来る親御さんの中で、こう思っている人が多いのです。
「この子どもを何とかしたい」と。
「子どもが何とか変われば、もう解決だ」と。
そう思っている親御さんの多くは、お医者さんに行くと、お医者さんに子どもを預けてしまえば後は何とかしてくれると思っている人が多いと思います。
でもそれは、非常に困難な道を子どもに歩かせることになり、成功しにくいのです。
それはいわば子どもの側にとっては「環境が厳しい」ことになるのです。
「環境」がよくなるには、親が「子どもを認める・受け入れる」ことが大事です。
「認める」というのは、親がよくわかりもしないのに、なんでもかんでも「ああ、いいよ」、「ああ、いいよ」、「ああ、いいよ」、と、「ああ、そうだね」、「ああ、そうだね」、「ああ、そうだね」と言えば認めたことになるのかといえば、そうではありません。
子どもにしてみれば、何を言ったって、暖簾に腕押しみたいに、全部認めてしまったら、認められたと思うかというと、「いつも同じだ」、「何もわかっていない」と思うのです。
子どもは「親は聞く耳、貸す耳持っていない、なにもわかっちゃいない」と思うのです。
親御さんには、なぜ子どもがそうしているのか、そこにどんな意味があるのか、そういうことを少しずつわかっていってほしいのです。
初めのうちは「あなたがそうやっているのは、私にはまだよくわからないけれども、理由があることなのね」とわかろうとしていくことです。
それが「認める」ことにつながります。
一気にはできないということなのです。

いろいろな所に出かけていって人間とはどういうものか、特に子どもから青年にかけての時期は、人間にはどういう問題が生まれてくるのか、子どもに対して「うちの子は、この中のこういう部分の問題にぶちあたっていたんだな」ということがわかってくるにしたがって、子どもにとっては「受け入れられた」という実感もあるし、親もある程度納得していくわけです。

2つめは「攻撃をやめろ」ということです。
攻撃というのは、「こんなことをしていたって、社会では通用しないよ」という言い方です。
そのほかにも「結論を言え」とか「細々としたことはいいから大事なことは何だ」とかいうのもそれに当たるでしょう。
これは、聴く姿勢がなく、聴く耳を持たないということです。
それらは子どもを認めるのではなく、否定的な見方として子どもに伝わるのです。
これらはお父さんに多いのですが。
親自身は納得しなくても、よく聴いていく、そうすれば子どもにとって攻撃的とは受けとめられなくなります。

3つめは、こういう家族と本人の問題がある程度整理されて、そこに外部から訪問サポーターが入っていくことになります。
訪問サポーターと本人が接触するということになると、さらにまた一段と意味が変わってきます。
それは親に対しても違うし、子どもに対しても意味が違ってきます。
こういう段階になると、親子関係の閉塞状態に出口ができる感じになるのだと思います。
親にとっては、「子どもの状態を受け入れる」ことが少しは楽になります。
また、子どもの方にとっても楽になるということです。
ただし、子どもにしてみれば、それまでいろいろな経験があります。
人に対する恐れであったり、警戒感が強いとか、いろいろな要素をかかえたなかで、本人に会おうとするサポーターが来るわけです。
そう簡単に会えるとは限りません。
その会えるというところにいくまでに、人によっては、一山も二山もあるのです。
さらにそれらを越えて、会えるとなったときでも、一度に事態が解決するわけではありません。
「トンネルを出ると雪国だった」というわけにはいかなくて、「トンネルを出て雪国に入ったけれども、またトンネルに入る」こともあるわけです。
いろいろ繰り返す中で、だんだんとひらけてゆくのです。

その過程でいつもというわけではありませんが、とても信頼できる人との出会いの可能性もあります。
そういう人に出会った子どもは、ガラッと変わります。
例えば、人間不信になったのは世の中の全部から攻撃されてきたのではないのです。
攻撃をしたのはごく限られた人です。
その人間が親という場合もあります。
親から責め続けられたことが、人間不信や警戒感を強くしたり、自分を表現できなくなったりするのです。
それが誰か1人でも信頼できる人間がいると、そういうものがとけていく、薄まっていく。
急にぱっと場面回開のようにはいきませんが、徐々に変わっていくのだと思います。
信頼できる人というのは、相性もかかわっています。
そうはいっても、そこに特定のパターンがあって、この人が信頼できて、この人はできないとタイプ分けはできないのです。
実際はいろいろな組み合わせがあります。
「まさか」とか「意外」とかいうような組み合わせはよく起こります。

ただし、サポート役の側についてですが、サポート役の人はいろいろな人がいて、いろいろな個性がそろっているのですが、一般的に望ましいのは「自然に振る舞えて悪意がない」ということです。
「自然に振る舞えること」と「悪意がない」の二つは、二つで一つの一体であり、分けるわけにはいきません。
悪意がある人は自然に振る舞わない方がいいかもしれない。
しかし、自然に振る舞えて悪意がないということは、なかなかできないと思います。
例えば、パニックや混乱に陥っている人を前にしますと、もう「もたない」とか、そういう気持ちになることが多いのです。
一度きりならともかく、それが繰返されると、もういやだとなる。
そういうサポーターの気持ちは敏感に伝わるのです。

引きこもりの人の感性は、他の人間よりも強いのです。
人間は、行動とか言葉によって判断するのですが、引きこもっているタイプの人は、行動でもなく言葉でもなく、雰囲気で判断できるわけです。
例えば、ドアを開けて入ってきたときのドアの開け方とか一瞬の親の表情だとかです。
だいたい彼らの察知は当たっています。
みなさんも、自分の子どもさんとかかわる中で、わかっていることや、自分に反省することなどがあると思います。
一言多かった時、一瞬にして察知しますから、それを取り返すために、いろいろな言葉をかけたところで、見え透いてしまっていますから、9割がた効果がない。
これに対しては、悪意がないということが大事なのです。
人間はどんな場合でも、人間がすべて正しいとか、自信を常に持っているということはないのですから、引きこもりの人も間違いを犯します。
引きこもりの人はそれを指摘されるときに、悪意があるかないかを察知できるわけです。
サポーターは、悪意がないという状態をどうつくれるのか、どうやって出せるのかということです。
これは勝負とまでは言わないまでも、ある意味、訪問する側の人間性が問われるわけです。
訪問を受ける人は、はじめのうちはなかなかサポーターとは会わない場合があります。
それは主に引きこもっている本人の問題ではないと思います。
会う前に訪問する人間がどういうタイプの人間かを観察しているのだと思います。
彼は、彼女は自分に対して「何かをしにくるのだ」と、いろいろなことを考えているのです。
そういう部分がないかを観察しようとするわけです。
それも顔も見ずに観察する。
私は、彼(女)らはそれをある程度できるのだと思います。

例えばサポーターが1階でお母さんと話をしていて、本人は2階の自分の部屋から気にしているというか、雰囲気を感じようとしているのです。
サポーターがどういうタイプの人間か、彼らはかなりいい線まで察知できていると思います。
テレパシーみたいなものなのかもしれません。
人は誰でもテレパシーをとらえられるとは思っていませんが、引きこもっているタイプの人間は、そういうことをキャッチしやすいと思います。
それと関わっているのですが、訪問する側の心がけみたいなものはあった方がいいでしょうが、しかし固定したマニュアルみたいなものはない方がよいと思います。
「こうしたらばこう」とか、そういったものは、作為的で自然ではないのです。
それは、「なにかしてやろう」というオーラがにじみ出すのです。
ともかく、マニュアルによらず、あれこれ経験を重ねていくといいのではないかと思います。
そういう経験を重ねていくことで、会える確立も高まります。
やがて外出する段になって、外出先はスポーツ観戦でも、ショッピングでも釣りでもなんでもいいのですけれども、最終的 には、先ほど述べた二番目の「居場所」というところに来て、そこにいる人間と話をして関わってほしいというのが願いなのです。

居場所の役割

「居場所」については、四つほど大事な点を挙げておきました。
いろいろな段階があり、外出できるようになった彼(女)らがすべてすぐに「居場所」にくるわけではありません。
来る場合もあります。
まず「外出できる」「公共の交通機関に乗れる」ことが前提です。
でも「人込みが恐い、緊張する」というのがあります。

「居場所」における人間関係づくりというのは、実践的な人間学習の場なのです。
それがここから始まります。
お話を聴いておられる方の子どもさんの中には、外出もできないという人もいるかもしれませんが、このあたりから人間関係づくりが始まるわけです。
今日はここに、サポーターと引きこもり当事者の人がいますから、彼らがそういう事情を話してくれると思います。

2番目が、「数人いるところに入る」ことです。
不登校情報センターには、毎日いろんな人が何人か来ますが、そこに人が5人いたとして、そこえ自分が6人目として入っていけないということがあります。
それから、すぐ横にいても話せないということもあります。
しかし、そういう状態を認めるというか、そういう経過があるのだということです。
「入ったのだからしゃべりなさい」だとか、そう思ってしまいがちですが、それは性急です。
不登校情報センターのフリースペースに来る人でも、1階のみんなが集まる喫茶コーナーには行かずに、すぐにパソコンのある部屋に行って、ずっとやり続けるというタイプの人もいます。
そういう人には、そこが「居場所」なのです。
そこは「居場所」だけれども、そこで人間関係がすぐに発生するというわけではありません。

しかし、本人に今できることをやっているのだと思います。
そういう過程があります。
個人差はありますが、そういう時間が必要なのだと思います。
それらを一つひとつ自分なりに越えていくことによって、例えばその部屋で話し掛けられた時に応えることができるわけです。
実はそれが出来ないこともまたあるのです。
あるという場合は、そういうことを通していくしかないのです。
例えば、2人だけなら話せるとか。
そして、だんだんとレベルが上がっていくのです。

やがて、自分の体験とか趣味なら話せるというようになる。
そのうち一つのテーマについて、例えば音楽が好きな人とだったら音楽を介して共通する話ができるようになる。
そうなっていくわけです。
これらはあえてひとかたまりに書きましたから一つのことのように思えるかもしれませんが、実は一つの段階を経るのに数か月から1年くらいの単位で一つひとつ上がって行く人もいます。
もちろん、ここに書いた例にとどまらず、いろいろな状態があります。
それから、案外多いのは、絵を描いているという人です。
他には、「詩」をつくっている人。
そういう人は、あるところまできたら、作品を誰かに見せます。
これはよくあります。
しかも、こっそりと見せる。
いきなり、みんなに「これ私がつくったの。はい」と公開したりはしません。
そこで私はいつも驚きます。
突然見せられて「あなたはこんなことをやっていたの?」というようなことが年に10回くらいはあります。
つまり年に10人くらいはそういう人が出てくるのです。
そういう人が作品をだれかに見せるのに、2年かかる人もいれば、2~3か月の人もいます。
作品は本人にとっても宝なのでしょう。
けれども、自己否定感が強いものですから、人に見せた時に、人からどういう反応が返ってくるかがすごく気になるのです。

私は彼らの性質を今ほどわかっていなかった頃、作品を見せられて「ああ、こういうのを作っているんだね。でも、ちょっと出版社で使うには“まだまだ”だね」と言ったことがあるのです。
私は昔、出版社にいたものですから、そのころの調子がつい口をついて出てしまうのです。
そうしたら、その人は、1年くらいその絵を持ってはきませんでした。
自己否定感が強いというのは、そういうことになります。

でも、大袈裟に誉めればいいということでもないと思います。
そこが小学生に対するのと違うところで、20歳以上になると、それなりの根拠を持って、それなりの深さのある誉め方が必要なのだろうと思います。
そこまでくるとかなりいいように思います。
親御さんは「そこまでくれば大丈夫でしょう」と思われるかもしれませんが、実はそこからまたさらに一つの過程が始まります。
私が挙げた一番目の目標について、「親しい友人ができたら、医者の役割は終わりだ」と言うことがあるかもしれません。
ここまでこれたのだから、後は親なり家族なりに引き継いでも、後は勝手にやれて、どうにかできるだろうと思うわけです。
そこまできたエネルギーと、そこから社会へ入っていくためのエネルギーとでは、どちらが大きなエネルギーが必要かといえば、後者の方です。
ここから社会に入っていくエネルギーというか、テーマというか、それは大きいのです。

ですから、私は、本人がここまで来られても安心はしません。
ともかく、ここまで来れる力があったのだから、その力を信じてさらに伸びてほしいと思っています。

社会参加のついて

「社会参加」についてもまた、個人差がいろいろあります。
「社会参加」の場合は、人によっては、ポンと仕事に就いてしまう人もいます。
そういうタイプの人は確かにいます。
けれども、就いたものの3か月で辞めて、また戻ってくるという人もいます。
人によっては引きこもりまで戻る人もいます。ですから、そうそう油断はできないのです。
この「社会参加」のところまで含めて「居場所」として関わることができます。
私はそのためにいろいろなことをしてきましたが、今日の話のテーマの範囲では、以上の点を列挙し、いくつかの機会により詳しく話す機会をもちたいと考えているところです。

居場所の一つの領域ではあるけれども、「社会参加」はそれを越える内容もあります。
「社会参加」と特に考えるとき、4つの点を挙げます。
1つは、「与えられた仕事であって、関心があればできる」ということ。
2つは、「今やっていることより広いこと、今やっていることとは別のこと、もっと長い事、もっと深いこと。
例えばパソコンであれば、文書入力だけでなく、ホームページ製作とか画像加工であるとか、技術的に深いことに向かっていける」ということ。
3つは、「アルバイト等の就職型の就業への挑戦」など。
4つは、「趣味を収入につなげる」など。
このようにいろいろな角度から見ていける点があるのですが、これらはいわば並列です。
どこへどういくのかは個人差です。

年齢にもよりますが、私は20代前半であれば、なるべく世の中に既にある仕事に就ける潜在能力は高いと思っています。
かつては20代後半であろうと、30代であろうと、そう思っていたのですが、だんだんそうも言っていられないなと思ってきました。
20代後半以上の人には、単に「就職しろ」とは進めなくなってきています。
それは20代前半までの人と比べて、彼らの柔軟性とか適応性とかが少なくなってくると思われるのが理由の一つです。
もう一つの理由は、世の中の厳しさというか、ゆがみ加減です。
一言でいえば、彼らが就職できづらくなっているわけで、そこへ入って行けというのは、少し強引すぎる状況になっているからです。
大学・高校の新卒者でさえも、就職率がすごく悪いのです。
就業したところで、離職率もまた高いわけです。
そういうところへ、引きこもり経験のある人が入って定着せよというのは、要求自体が無茶だと感じることが多いのです。
そこで、この1年あまり前から考えてきたことがあります。
「仕事起こし型」の仕事の発掘です。
これは上の四つ目に「今、自分がやっていること、関心のあることをどうやって収入につなげるか」に注目して、私なりに試みてきたことです。
「仕事起こし」とはいっても、いきなり独立できるほどの収入はないのですけれども、それに取り組んでいます。

不登校情報センターはどうしているか

ここまで私は、「社会参加」についても、「居場所」についても、一般論の形で話してきました。
これからは、不登校情報センターではどうしているかについて話します。
「居場所」には毎日だれかが来ています。
毎日10~20人くらい、昨日は少なくて7人でした。
週に1日くらいは10人を下回る日もあるかと思います。
逆に週に1、2日は20人を越えることもあります。
そこには、いろいろな会の名称がありますが、その名称にあまり意味はないので取りはずしていきます。
来ている人たちがそこで話し合っている。
例えば、食事会をしようと計画しているなどです。
この居場所を土台に社会参加への取り組みがあります。
「社会参加」として、取り組んでいるのは、定期的に繰り返し仕事がまわってくる内容のものは少ないのですが、数少ないそれとしては、「ポスティング」をしています。
個人宅のポストに新聞を配布する仕事です。
月2回発行の生活情報誌「ぱど」を新小岩で配っています。
それから月1回発行される地域の月刊新聞「江戸川タイムス」の配布をしています。
合計するとポスティングは月3回あります。
それを配る地域を広げていきたい、それから配る媒体、他の新聞とか雑誌も加えていきたいと思っています。
これらでいくらぐらいの収入になるかというと、月間の総額で、つまり1人当たりではなく全体で4万5千円くらいです。
これを10人で分けると1人当たり4千円くらいです。
定期的にやろうと考えている仕事は、これまで事情により休刊状態だった『ひきコミ』という雑誌を復刊し、2か月に1度、出版したいと思っています。
それから、不登校情報センターの1階は「書店」と「喫茶コーナー」にしているのですが、これらは、一応収入につながるということになってはいますが、お客さんがほとんどいないので、実際には大した収入にはなっていません。
ただし、私はこの二つに違う意味を発見したのです。

昔に比べて、不登校情報センターには、曜日に関係なく当事者たちが来るようになったのですが、なぜ来るようになったのかといえば、そこに書店があり、喫茶コーナーがあって、たいてい書店員と喫茶店の担当者がいるからなのです。
ですから書店と喫茶店は、居場所づくりに一役かっているといえます。
ところで、9月は情報センターで先ほどのポスティングなどを含めて仕事をした当事者の手取額がこの1年ほどで最高を記録しました。
手取額全体の合計が32万円で、それを31人で分けて、平均すると1人当たり1万円なのです。
一番多い人は3万円ちょっと、少ない人が500円くらいでした。
もし東京辺りで普通に暮らしていこうとすれば、1か月当たり15万円くらいは必要でしょう。
少なく見ても1か月10万円は要るでしょう。
ですから、先月の仕事で当事者に払えたのは、やっと2人分の生活費といったところです。
これをもっと広めて、収入につながるようにしていき、もっといろいろな人が参加するようにしてゆけば、だんだんと、どうにかやっていけそうになるのではないかと思っています。
私は、いま挙げたようなことを去年の春先に「やらねばしようがない」と言ったのです。
そのときある当事者が「就職型の、外にアルバイトに行って継続して働くことは、自分にはできそうもない」と言いました。
他の当事者は「私は引きこもりのまま社会参加をしたい」と言いました。
「ここにいる人とだったら一緒にやって行ける」と言った人もいました。
これらの言葉をきいて、「ここ不登校情報センターで収入になる取り組みをしよう」と考えたのです。

これも一つの社会参加でしょう。
それは、経済的自立とまではいかないものです。
それでも、社会参加の入り口くらいにはできそうかな、と思います。
今日は、「訪問」から「居場所」、「社会参加」という順でお話してきましたけれども、残念ながらというべきか、これらの過程を全部通して、「そうなった」という人は、まだわれわれの取り組みの中ではいません。

「居場所」からセンターに関わり始めて、就職なり、常勤的なアルバイトを始めたり、社会参加をした人は何人かいます。
トカネットの訪問サポート活動の中で、ある訪問された当事者が働き出しました。
ただ、その人は、訪問のおかげで気力を回復し、働き出したのではないのだそうです。
本人にしてみれば、親に「訪問を受けるか、それとも働くか」の二者択一を迫られたわけで、自分でより楽な方を選んだら、訪問を受けるよりも、働く方だったということです。
そういう例が2、3あったように思います。
そういう話を聞くと、なるほど人間の心というのは、私らが考えるような一本調子ではなくて、複数の経路をたどっていくのだということがわかります。
将来的には、訪問から始まって、社会参加につながるところまで、一貫した態勢というか取り組みができるように思います。
もし少し私とは違う場面で仕事をしていて、そういうことができる人とも連携してやっていきたいなと思っています。
情報センターに来てくださっているカウンセラーさんの1人に、経営コンサルタントをされている方がいまして、その方がそういう方面の出口をつくってくれそうな気がしているのです。
世の中にいるそういう人と結びつけていけば、この仕組みづくりはいいのではないかと思っています。

創作系の活動

最後に引きこもり経験者の中には、なぜか創作系の人の割合が高いと思います。
私もよく驚くのですが、「他の人には見せないでくださいね(けなされるのが恐いので)」などと言って作品を私に見せに来るのですが、実際にそれをそこらへんの人に見せたら「すごいな」という反応が返ってくることが、多いのです。
たぶん作品を見せられるようになったらば、それは一種の安心か自信なのでしょうね。
でも彼らは「どうぜ駄目ですよ」などと言ってきます。
彼らのこういう特技をどうやったら生かせるのか、どうしたらよいか答えが見つかるまではもうしばらく時間がかかるでしょう。
ただ最近ある1人が、自伝的な体験記を出版しました。
『ひきこもり、セキラララ』という本です。
こういうことが今後少しずつ生まれてくるでしょう。
それらをよく観察すれば、創作系の人が社会にかかわっていく、別の出口もわかってくるように思います。

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