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Center:2005年5月ー正社員になりたがらない若者

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正社員になりたがらない若者

母親からの相談への返事

(2005年5月31日)


留年しながら大学を卒業し、派遣社員として働く子の母親から電話と手紙で相談を受けました。
息子さんはゲームソフトづくりに関心があり、その仲間もいるようだ。人間関係もでき「生きていくために働く」という息子さんにできれば正社員になるように期待しているが、どうしていけばよいかという主旨です。息子さんは20代後半です。
それに対する私の返事の手紙を紹介します。

(1) やりたいことと、生きるために働くことの分離

息子さんの現況は、時代に対応するための一つの方法ではないかと思います。それが成功すると保障されているわけではありませんが、元々成功が保障されているものはありません。未来に向かって、いまとりうる最善の道が何であるのか、絶対的な道を誰かがわかっているとは思いません。
私はそういう前提で、息子さんを信じていいと思います。若者の時代感覚において、それを感知できるのだと思います。

自分にやりたいことがある。たぶんそれはゲームソフトに関連する創造活動、およびそこから発展していくことでしょう。人生の途上で引きこもり系に入る人には、このような創造活動や芸術的才能をもつ人が多い、というのは私の実感です。

しかし、そういう創造活動や芸術的才能を生活の基盤にして進むことは、さし当たり不安定な、輪郭のはっきりしないものです。それに頼ることは、自分でも不安なのです。
そこで「生きていくために働く」という言葉が出てきます。本当にしたいことは、いまのところ(もしかしたら将来も)仕事にはできないが、それをいまはなくしたくないという思いがそこに表われています。

本当にやりたいことは、心の中に維持し、保存し、生活の中の副次的要素として成長させながら、将来に備えておこうと考えているのだと思います。そこに未来を生きる若者らしさが潜んでいるようにも思います。

いまの状況において正社員になることは、一つの大きな選択です。一つのことを選ぶこととは別のあることを選ばないことです。時と場合によっては別のあることを放棄することです。人はすべてそのように選択し、そのように可能性を断念して、成長し生きていくものでしょう。

息子さんはもしかしたら優柔不断なのかもしれません。それはわかりませんが仮にそうであってもそれを抑止するのは越権のように思いますし、いずれにしてもうまくいくとは見えません。
息子さんは、その現場にいて、さまざまな事情を見聞きし、情勢判断しているように思います。その結果、派遣社員としての現状を選び、そこで将来に備えようとしている、と考えられるからです。

(2) 若者にとっての就業条件は桎梏状態

若者にとって、日本の現在の就業条件は桎梏です。心に描く夢を正社員という就業条件において保存することが難しいと思えるのです。若者に根気・覇気がない、長続きせずにやめる人が多い…要するに困った事情として批判的に見られてきたことです。
本当にそうでしょうか。若者の生活行動とか未来感知力はあなどりがたいものです。そう批判的に考えていた事情の中に、意外と未来の姿があります。日本社会は歴史的な転換点にあり、それを無意識に、時代の空気として察知しているのは若者のほうです。

日本の産業社会、それを中核的に形づくっているのは企業でしょうが、その骨組みを構成している人たちには見えないものがあるのでしょう。企業としての成長性、収益性、発展性…その種のことは私にはよくわかりませんが、世界的に見て肯定的に見ていいのかもしれません。
それらとは別の面で、人を育てていく余裕を失ってきた、若者にとっての夢を広げる余地を少なくしてきた…ように思います。若者にとって、日本の企業社会が桎梏になったとはそういうことをさしています。驚くほどの長時間労働、長時間拘束が進んでいます。

もちろんこれらの事情は企業によって、個人によって大きな差があります。それでも全体の中心軸というべきものが、かなり大きくこのように振れていると思わなくてはなりません。それが一人ひとりの人のところに表われているのです。
自分だけが、自分の子どもだけが、この事情とは別の条件で生きるということはないと思ったほうがいいでしょう。息子さんは息子さんの感覚でそれを察知しているのです。

私が息子さんを信じていいと思うのは、そういう背景を考えてのことです。もちろん、息子さんが、自信満々で将来を見据えているとは思いません。慎重に、いくぶんの不安を持ちながら、自分の感性のなかで、一つずつ確かめていく過程をたどりつつあるのだと思います。

(3) 話し合うとはよく聴くこと以外にはない

この前の電話では、話し合いについても私なりの考えを述べました。私はかなり重要なことだと思いますので、文章にもしておきましょう。
話し合いとは、お互いに意見を出し合い、一方の側に不足のことがあれば補い合い、その結果より確度の高い発想や計画にたどりつくことを想定したものだと思います。

しかし、その実質はなかなかそうならないのです。そのような話し合いが成立するには、一方の側だけの事情をテーマにした話し合いでは不可能です。対等な二者関係、複数の人間関係が成立しないところでは話し合いとは、ある意見(正当と思われる意見)を、上流から下流に流し込む場になるだけです。

私はそうでない話し合いは必要だと思います。必ず要すという意味で必要です。それが上流か ら下流に意見を流し込む場にならないようにしなくてはなりません。下流にいる側の気分、気持ち(意見とは意思表示という形をとる以前の、無意識的な、言葉 としてはまだうまく表現しなれていないある事情の察知)をいかに引き出していくのかが重要になると思います。

まず下流の側の意見を聴くことです。つぎもまた下流の側の意見を聴くことです。そのあともまた下流の側の意見を聴くことです。最後もやはり下流の側の意見を聴くことです。

初めから終わりまで下流の側の意見を聴くことに徹すれば、親子の間のように恒常的な関係においても話し合いは可能になると思います。

下流の側にいる人は、ずっと聴く姿勢でいる人に対して、徐々に自分の考え方を言葉にまとめていくことができるようになるでしょう。最初は、上流の側から見れば、あいまいな、頼りない、現実性にとぼしいか、あまりにも小さな現実話にしか見えないものしか出てこないでしょうが、聴く姿勢を続けていけば、だんだん明確なものになっていくでしょう。

上流の側には発言する権利、自分の意見を述べる機会はないのか、と思えるでしょう。私はそう思ってもいいと判断しています。
ただ下流側からの質問、相談に、できるだけその枠内のテーマで答えるのはいいことだと思います。上流側から長い演説はしないことです。
要するに、上流の側には、忍耐力が要求されるのです。実はそれこそ育てる力だと思います。教える力ではなくて育てる力です。
教育において教ではなくて育こそが大事なのです。話し合いは、これを了解していただければとてもよい力を発揮すると思います。このような話し合い、親と子の間、家族の間でのコミュニケーションが、これまでも必要であったし、これからも必要になるのです。

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