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Center:2006年8月ー社会へのアプローチの時期ー脱引きこもり期(その1)

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2012年4月1日 (日) 14:26時点における版

目次

社会へのアプローチの時期 ― 脱引きこもり期(その1)

〔『ひきコミ』第35号=2006年8月号に掲載〕 

(1)「脱引きこもり期」の設定

長く引きこもり状態にある人を、仕事に就く、社会参加できるように支援するのはなかなか難しい課題です。
「引きこもり」から「社会参加」への間の移行期は、短い期間ではありません。
相談に来られたある父親が「なに、息子が自立してくれるだけでいいんです。特別に何かを求めてはいないんですから」と話されたのを思い出しました。
ちょっとしたきっかけで、抜け出すとでも思っているのでしょうか。
手軽に引きこもりから抜け出す人もいるのかもしれませんが、私はまだそういう人を見たことがありません。
この移行期は一般にはかなり長くなります。
その期間には何か一つを身につければいいというのではなく、多くのことを身につけなくてはなりません。
しかもその成長は速成栽培ではないのです。
いろいろなことを時期を少し前後して身につけるとはいっても、本人(及び家族)の意識は中心点の一つに取り組んでいくのかもしれません。
いくつかの課題の中心の環を突破することで全体を持ち上げるようなことなのでしょう。

この環の中心点を何にするのかで、見当違いをしていると思うこともあります。
多くの人は外形を基準にします。
私は内部を見ようとしているのが違う気がします。
結局は大差がないのかもしれませんが、気になります。
私が中心点とするのは<感情>です。多くの人がいうのは社会的状態です。
この両面の成長を図る期間を、「脱引きこもり指向期」、略して「脱引きこもり期」と名づけて、その内容を検討するのが、今回のテーマです。
このテーマには多くの要素があります。
私は人間の内部を中心と考えていますが、それもいくつかの要素があります。
感情(または本能)、意志(または理性)が一番基盤になります。
その上に行動(生活)と対人関係(コミュニケーション、社会性)があります。
これに家族の関係を加えます。
一方、当事者を外側から見た状態を社会的身分・状態とします。支援方法の各種も外側の要素です。
これらを図式化したものが【別表】です。
たぶん円筒型で示す方がお互いの要素のつながりが見やすいのですが、各要素の成長を表示するのにはこちらがいいので図式化しました。
「引きこもり状態」→「脱引きこもり指向期」→「社会参加(自主的生活)」を一連の動的な理解を図るのが、実際的だからです。
図式化して気付いたことは、「脱引きこもり指向期」とは同時に「社会へのアプローチ」の時期と言いかえてもいいことです。
*⇒図表

(2)感情の面が中心課題

私はこの2か月の間に、引きこもりへの就業支援をしているいくつかの団体・機関の人の話を聞き、話し合う機会がありました。
さらに以前から多くの親から相談を受けています。
そういう人たちの多くはこの図式からいえば「社会的身分・状態」のところを主に話します。
それに加えて家族との関係、当事者の行動(生活)の部分を聞くことになります。
その上で、「なぜそうなっているのか」を考えていくわけです。

就業支援に関わる人たちは、「社会的状態・身分」のところから問題をみます。
そしてときどき心の中を考えることもあるように思います。
私からすれば、それは中心問題を後回しにした対処に思えるのです。
私には当事者の気分、気持ち、感情が外形に表われるとき引きこもりという社会的状態にならざるをえないと確信をしているのです。
その感情の面(ときには感性や感覚の面も含めて)を親は、ときには当事者本人も「意志」のレベルで対応しようとします。
「社会的状態や身分」を中心テーマにし、そこからどう前に進むのかを、心の問題を後回しにしていくと、「意志」を前面にしていくしかなくなるのです。
意志のレベルとは考え方、気持ちの持ち方、理性であって、それらを変えることにより行動し、対人関係をつくり、社会に入っていく力にしよう、促そうとするのです。
もし引きこもり当事者が、父や母から、あるいは相談者やカウンセラーからこの面で迫られていったら、絶壁の前に立たされ、無力感にとらわれ、困難や失敗を予測して動けなくなるように思います。
私には、「意志」レベル以前にどうにかしなくてはならないものを感じるからです。

意志レベルでの対処を求められ続けることは、やがて圧迫感、ストレスになり、父母や相談者から離れるしかなくなるのではないかと感じるのです。
この点は後編の「意志」を扱うところで改めて、述べます。
引きこもり当事者の中心的状態は、この図式で表しているように、対人関係の面でみると対人恐怖や対人不安です。
感情や意志の面でみれば、無感情・無表情・無気力からせいぜい感情表現が少ない(哀しい感情だけがある)とか、意志表現のわかりづらい状態(本人には長い精神的忍耐生活が続いている)にいると思えるのです。
それらの全体を一言で表わすとすれば強い孤独感あるいは人間への安心感の欠如、不信感におかれていると思えます。
当然、これだけでも多様な要素がありますし、個人差もあります。
それでもここが中心問題であり、そこを外して対応しても空しいものがあると考えるのです。
いろいろな支援者、支援団体がそれぞれのアプローチのなかでこれらの面に接近していくと考えられます。

感情や感性の点を重視していなくても、当事者に関わっていれば、そうせざるをえない形に近づくのです。
例えば、パソコンの技術的指導という糸口から当事者の中心問題に関わる方法もありうるという意味です。
あらゆる方法は一般的には否定できないけれども、本人の整合性を考慮し、無理なく、強制なく、できるだけ軟着陸の方法を求めるのがよいのです。
さて私は、引きこもりの人全体としては、強い孤独感、人間への不信感や不安感をもっていることが、社会参加を難しくしている最も基本的な背景になっていると言ったように思います。
しかし、それさえ出発点というべき原因とは確定はしません。
多くの引きこもりの人は乳児体験のところに原因があると推測できるからです。
乳児とは母の体外に出た胎児です。
この時期に母と子、または家族の間での親密な関係、皮膚接触(スキンシップ)や言葉かけ、完全な庇護がなされなければ、人間として の本源的な安心感は生まれ、育たないのではないかと思います。
また、いったんそういう条件にかなった乳児期を過ごしても、その後の幼児期における虐待や子ども時代におけるいじめ体験によって、人間への安心感は破壊されるばあいもあると感じています。
ここではこれ以上、この問題にはふれませんが、これは重要なことです。

(3)意識して笑いましょう

以上をふまえて「脱引きこもり期=社会へのアプローチ期」の内容に進んでいきましょう。
私は支援者の側にいる人間です。
この時期を、引きこもりの当事者のところに身をおいて考えていかなくてはなりません。
それは家族においても同じです。
家族にとって何ができるか、何が必要なことかは、当事者が何を必要としているのかに添って考えるしかないのです。
支援者にとっても同じです。
図式では、「引きこもり状態」と「脱引きこもり期」と「社会参加」は一連のことです。
一方的に前に進むばかりではなく、後もどりすることもあります。
「脱ひきこもり期」を中心におきながら、前後の状態とも関連させて考えることが求められるのです。
私が、最も重要な要素と考えるのは感情表現です。
感情とは感覚とならんで人間が周囲の状況を判断するセンサーの役割をはたすものです。
これを“自然 なもの”にすることが、中心的な要素です。
そして「脱引きこもり期」においては、“意識して笑う”ことをそれに近づく方法として勧めたいと思います。
引きこもり状態にある人を見てください。
彼ら、彼女らは引きこもり状態にある、仕事をしていない、友達がいないということで見られますが、より重大のことは、“笑わない”とか、“感情表現が少ない”とか、無表情・無気力・・・のように見える状態にあります。それが本質的なことだからです。

“意識して笑う”ことの周辺には、“なるべく楽しむようにする”とかTPOによっては“怒りが出やすい感情や感覚が高まるように”促進することも必要になります。
引きこもり状態の中心になっている感情は<哀しい>しかないとか、喜怒哀楽を感じなくなっている人が珍しくないのです。
それらは、最も強い感情といわれる愛情に恵まれなかった長い時間を過ごしてきた結果です。
これらはまた長期の、自分を維持するために環境に適応して感情抑制を図ってきた結果です。
かなりの人が子どものころから孤独感、しかも外から見ると 強い孤独感を味わっています。
しかし、当事者はそれが日常的な感覚になっていて、孤独感を意識しない人さえいます。
外見の表情の乏しさ、落ち込み状況、うつっぽい表情の心の内は孤独である、といっていいでしょう。
感情抑制の中心は怒りの抑制です。
嬉しいとか楽しいことの表現は周囲の人(たとえば家族)からも受け入れやすいのではじめから意図的な抑制はしません。
しかし、怒りは強く抑制されることがあります。
家族こそが抑圧する特別の人たちといっていいものです。

一方、当人は周囲の雰囲気を敏感に察知するタイプですから、自分の側から抑制を図っていきます。
怒りとは、悪いこと、いけないこと、顕してはいけないことと意識されます。
「感情的になってはいけない」というときの感情はとくに怒りをさしています。
このことを強く意識し、まるで本来身についたように、先天的な性格のように怒りの表現を抑制します。
自然な怒りを抑制していくのが身につくと、それにひきづられるように(?)喜びや楽しいという感情表現も少なくなっていきます。
哀しいという感情は消えなくて「私には喜怒哀楽の哀しかありません」という人も出てきます。
怒りの感情を抑制する(当初は抑制させられた)、それを続けると結局は感情全体を抑制するようになるのです。
無表情、無感情というのは、その一つの到達点なのです。
怒りを抑制したから、怒りが消失したわけではありません。
怒りを何らかの形で表現しなければ、からだの中に(おそらくは脳と神経系を中心に)蓄積されていきます。
普通にはストレスがたまる、と表現することでしょう。
その蓄積された怒りは、何らかの形で出ます。
怒りをうまく発散できない、怒りの抑制に成功した人に表われるのは、対人恐怖です。
対人恐怖が多少ゆる いのが対人不安でしょう。
対人恐怖はまた人間不信なのです。
消化器系の症状やアレルギー的症状としてその蓄積された感情が別の形で出る人もいます。
怒りを蓄積しない方法として、気分転換による発散、運動(ボクササイズのようなもの)をすすめます。
人によってはタオルを濡らして床をたたくような方法もいいでしょう。
子どもの家庭内暴力も、実はこのような面から考えられます。
暴力とは抑制され、蓄積された怒りの表現です。
子どもに聞いてみるとあまり支障のない物を投げたり壊したりするところから始まります。
それで効果がないとだんだんとエスカレートしていきます。
少なくとも、この要素を欠いた子どもの家庭内暴力の理解は不十分なものです。
怒りをからだの中にためない方法をあれこれ書いていますが、何よりも、怒りを感じる環境を改善するのが基本であることはいうまでもありません。
家族にとって、あるいは周囲の人にとっては、感情抑制を開放する環境づくりが必要だという意味になります。
子どもが怒りを感じていることを親が不当に思ったり、親が気付かないことも多いのです。
そういう家族のなかで育った子どもが、怒りを体内に蓄えていくのです。
このように怒りの感情を抑制した人は、ときには理性的な人、いい子と見られることもあります。
“いい子が危ない”といわれるのはこの点をさしています。
しかし、怒りを抑制し、意志(理性)によってバランスを欠いて進もうとすると、人間が壊されていく事態が同時に進行していきます。
ある人は、徐々に心を病んでいき、またある人は切迫していった末に突然に切れた状態に入っていくのです。
意志(理性)は感情(とくに怒り)に勝ちすぎてはいけないのです。
感情を尊重し、それが破局的なまでに進まない状態で表現させる許容、度量を必要としています。
意志が勝ちすぎると、それは感情の「固い人」となり、対人関係づくりの面でも難しくなってしまいます。
脱引きこもり期における感情表現の中心に「意識して笑う、楽しむ」ことを挙げたのは、脱引きこもり期から社会参加に向かうエネルギーを補給するものです。
家族や周囲の人が応援するのは、そのような環境づくりの面です。
人によっては、いわゆる空笑いであったり、わざとらしい笑いから始めるしかないでしょう。
それでも私はそれを勧めます。
周囲にいる人にとっては、そういう“無理をして笑っている”状態は一瞬にしてわかります。
ですから、その状態では対人関係の向上に多くを望むことはできません。
それは、本人の心の病理状態を表しているからです。
このような精神的な病理状態のなかでは、対人関係づくりは困難を抱えたままの努力になります。
他方、人によってはこの感情表出を始める時期が“怒りを出しやすい”形になることがあります。
感情抑制からの開 放が“怒り”のところから始まるのです。
しばらく以前から注目されている境界性パーソナリティ障害(BPD)は、その特別の形であると私は考えています。
BPDを含めて、このような形で、子ども側が感情抑制から開放される道を私は“最悪ではない”と思います。
感情抑制が継続するしかないことが最悪なのです。
私はBPDと言われる人も含めて“意識して笑う”ことを勧めます。
感情表現、とくに笑いが自然な感情として多くなるにつれて、波及効果として感情表現がラクになり、“怒り”のコントロールも徐々に改善していくからです。

(4)安心できる人の役割

この感情面の開放(または改善)は、徐々に進むものです。
その進行過程においては、しばしば「安心できる人」との出会いは、分水嶺の役割を果たすことがあります。
私がこの「安心できる人」との出会いを最初 にもってこなかったのは、この出会いが偶然の要素に左右される可能性が大きいからです。
そういう人との出会いがなければ、引きこもり状態から抜け出せない、脱引きこもり期に入っても前に進めない事態を主に「出会えない」不運に帰してしまうことにもなります。
そうではない、自分で先行してできることがある、そのために感情面をまず取り上げたのです。
そういうことを念頭にこの「安心できる人」との出会いの意味を考えます。
この位置を「対人関係(コミュニケーション)」の中においていますが、その影響は、この枠を超えていると考えていいでしょう。
「安心できる人」とはだれでしょう。
その候補者には家族がいますが、それは家族のところで別に考えることにしましょう。
家族であっても、ここに述べることはある程度あてはまるはずです。
相談員やカウンセラー、あるいは医師にそうなる人もいます。
同世代の人で友達になりそうな人、恋愛関係になる人もいるでしょう。 これらのうち比較的多いのが、カウンセラーと同世代の友人関係になる人です。
安心できる人とは、引きこもり当事者が会っていてラクになれる人です。
それは、自然な感情でつきあってくれる雰囲気、せかされるとか攻められる感じがしない人です。
あるいは当事者の何かを受け入れてくれる人、認めてくれる人です。
ここでは、この「安心できる人」を2つの場合に分けていきます。
1つはカウンセラー、あるいはある分野の年長者などに当たる人ですが、一般化して相談相手として考えていきましょう。
もう1つの同世代の人はフリースペースという出会いの場の問題として描いてみましょう。

(5)相談相手になる人の要件

相談相手とは、当事者の感情・感覚として気楽に(気を遣わずに)話せる人です。
初対面ではそうできないかもしれませんが、初対面で、この人とは気を遣わずに話せそうになるという雰囲気は感じることが多いのではないでしょうか。
心理カウンセラーなどの職業的な人は、引きこもりや対人不安のある人に対しては、“受け入れ”を優先します。 拒否的な態度で臨まれることは少ないのです。
それでもその人の本質が受容的であるのか、職業的(あるいは営業的)にそうしているのかは、当事者にはわかってしまうような気がします。
カウンセラー的でない(?)医師は、その点でわかりやすいのではないかと思います。
あえて受容的な姿勢ではない。
それでいてその医師が受容的なのかそうでないのかが、明瞭に出るからです。
ところで医師は多くの情報を集めて、患者の状態を診断し、それに基づく治療方針を立てて治療行為に入ろうとします。
その治療行為の中心は投薬です。
その患者に関わる多くの情報の集め方が、重要なのです。
ある医師が、あなたができるだけ正確なことを話してくれなければ私は正しい診断ができない、正しい診断が出来なければ、治療が進んでいかない。
だからあなたはできるだけ詳しく正確に話してください。
医師は、患者にこのような職業的に対処をします。
大病院ではこれも分業化されています。
情報集めのためには患者が想定しない形で、患者の情報(履歴や病歴)を集めようとすることもあります。
医師のこの考え方は、大きな欠落部分があります。
患者と医師の関係もまた人間関係なのです。
信頼関係づくりが前提になります。
医師が患者に一方的に「私を信頼しなさい」というのは、信頼の一般原則に反しています。
あなた病む人、わたし治す人ではないのです。
治すのは患者自身であり、医師はその援助者なのです。
この根本から外れているのです。

たとえば、統合失調症の患者は、相手の医師が自分の病質を理解できないとわかると、それに合わせて自分の病状を演技してしまうという話を聞いたことがあります。
一般に心に問題を抱える人は、相手に応じて自分の心の問題の表出をコントロールしてしまいます。
その演技しコントロールされた病状によって医師が診断をしてしまっては、本質的な問題に突き進まないと思います。
同じことは心理カウンセラーにもいえることです。
教師のばあいは、基本的には集団を対象とし、そのなかでの個別指導の形になります。
不登校生や中退者を受け入れている多くの学校では、まず受け入れる(信頼を得る)ことに力を注ぎます。
その後で、生徒集団全体としても個人的にも、成長に見合った課題を提起します。
それらを通して、個人としても集団としても自立をめざして進むのです。
ここには生徒同士の関係が常にあります。
症状のある生徒にとってはある程度の負荷をもつことですが、病理の改善がある水準に達すると互いに勇気を与えあう最大のエネルギー源になります。
教師には、この判断のできる力量を求めたいと思います。
このあたりはフリースペースと一部共通します。
教師はまず受け入れ、信頼を得ることから始めるのが普通です。
この点は心理カウンセラーと似ています。
心理カウンセラーと異なるのは、教科指導や生徒同士の関わり(生活指導や行事)が生徒との関わりの多くの部分を占め、それらと併行して個別の生徒の心の問題に向かうことです。
生徒にたいしてその成長・発達の視点から応援していく形になります。
このほかいろんな人が相談相手になります。
クリニックの看護師や受付の人などは半ば職業的ですが、釣りの好きな少年が釣り名人的な人を師匠のように慕うのは、その人の人柄が作用して相談相手になるものです。
農家の人、喫茶店の店主など、職業的ではなくても相談相手になりうる“人生の先輩”的な人はいろいろな形でいるように思います。

(6)相談相手を観察していく

この相談相手に対して、当事者はなにをする人、何を求める人になるのでしょうか。
初めのうちは、その相談相手(の候補者)を観察対象にするしかありません。
この人は自分を受け入れそうなのか、受け入れにどの程度の奥行きがある人なのか。
多くの当事者は、ここでの多くの情報入手に努めるように思います。
それは、書類審査というようなものではなく、目の前にした人物の雰囲気による総合的な情報判断です。
少なくともここを合格しない人は、次の相談相手へのステップを上げられない気がします。
目の前にいる相談相手が「自分の問題をどの程度わかるのか」「自分を混乱させ、迷宮深くに追いこむタイプかどうか」を判断されるものです。
すなわち危険の察知を働かせます。
当事者の感覚はとくに鋭く警戒感が強まり、ときには行きすぎの状態になる人もいます。
「危険度が少ない」と感じたときに、関わり始めるのではないでしょうか。
職業的ではない相談相手の候補は、このような意識は持たないはずです。
それで自然に関われる人であれば人間関係ができます。
医師、心理カウンセラー、教師、その他の支援者のばあいは多少は意識するはずですが、当事者が二度と会いに来なくなったときには、何となく来なくなった当事者側のせいにしたがるものです。
その理由づけはどうにでもできます。
原則として当事者側のせいにしたくないものです。
私はある本のなかで「私の力量不足のためにクライアントが来なくなった」と書いてあるのを見たことがありますが、この人は相当に力量のある人だと思いました。
そして力量が低いことはそれほど悪いことだとは思いません。
むしろ人間性の方が相談相手としてふさわしいかどうかを左右するのです。
当事者にとっては、症状の進行している人ほど相談相手として求める合格条件は厳しくなります。
この合格条件のレベルが高い、細かくなっているほど自分の症状は進行していると考えていいと思います。
受け入れを強く求めている状態になっているのです。
こう見ていくと相談相手を決める観察期間は、当事者にとっては同時に自分自身を自己評価できる機会でもあります。
そういう観察がめんどうだと思う人、それどころではない、ともかく誰でもいいから何らかの支えをしてくれる人を求めるという人は、何となく行きやすい人のところに行けばいいと思います。
いずれにしても相談相手を絶対視することはないし、事実、絶対的なものではありません。
カウンセラー(ドクター)ショッピングの有用性はここにあります。
当事者として、相談相手になろうとする人に何を求めているのでしょうか。
相手が心理カウンセラーであれ、医師であれ、教師であれ、その他の支援者であれ、とくに限定的に何かを求めていないレベルから問題をみましょう。
言葉をかえると「あなたには私の問題がわかるのですか」「私はただ苦しんでいるだけです」「私に何かをしてくれるんですか」「私には何もしないでください。それで私を助けてくれませんか」・・・というような、とらえがたい形で向き合うところから考えましょう。
それでも私は、当事者は意識の外で相談相手を求めているように思います。
介入なき援助というあたりがおおよそのところを衝いている気がします。
心理カウンセラーを前にして、「私には何もしないで、それでいて私を助けてほしい」というような気持ちになる人は、それまでの経験のなかで、自分の感情を粗末に扱われたことがある人だと思います。
自己維持のために感情を抑制し、意志をおさえつけてきたのです。
これではいけない、いやこうでなくては生きていけない・・・と動揺と葛藤をくり返し、苦しんだ経験のある人です。
そういう人こそ「安心のできる人」を真実に求めているのです。

(7)感情表出をこころがけよう

「安心できる人」に出会った当事者は何をするのでしょうか。
それとの関連で相談相手には何を求めるのでしょうか。
一言でいえば「感情の表出」の機会にすることです。
それは人さまざまな形をとります。
私の出会った人たちのなかでは、感情の表出(表現)自体が困難である人、感情のコントロール(むしろバランス)がうまくとれなくなっている人もいます。
それらの人が対人関係のあれこれを語るようになっていくなかで感情に気づいていく過程が多くなるように思います。
この感情を受け止めよう、感情の表出を助けようとしない相談相手は、ここでいう相談相手とは違います(投薬でしか対処できない医師は本来の相談相手にはなりません)。
ただ、引きこもり当事者の意識には、自分の問題は感情表現とか感情抑制ではなく、それとは別の問題だと考えたり、意識する人もいます。
たとえば、対人関係、親との関係、友人のいじめ、教師の威圧的な言動・・・などです。
受験失敗、仕事につけない、身についた技術や資格がないという対人関係以外の事情を意識する人もいます。
こう考える(感じる)から、意志の力で事態を改善していこうとするのです。
そういう問題意識であっても「安心できる人」と関わっていけるのであれば、それはよいことだと思います。
このような別の問題として意識されることの本質をたどっていくと、 感情表出になるというのが私の判断になるのです。
そこでその点をさらに追求していきます。
その感情表出とか感情問題の大事さ、第一に優先すべきことであるというのは、このペーパーの初めに書きました。
重複した説明はさけます。
問題は、その相談相手という「安心できる人」には、ある程度頼って、自分の感情抑制を解き放します。
その過程が一つの修業です。 感情抑圧は、一般には人との関係で生じます。
大事故、自然災害でも感情消失などの感情問題が生じることは知られていますが、引きこもりに関わることの大部分は身近な人との関係で生まれます。
父、母、祖父母、兄弟姉妹、学校の仲間、担任教師などの人です。
特に父母との関係は顕著です。
これらの人との対人関係を、エピソードや個人体験として相談相手に話していく、その過程でそのときどきの感情を掘り起こしていく作業をするのです。
その作業とは、残念感、失敗感、ある人への怒り、喜怒哀楽のバランスの悪さ、優柔不断さなどを、そのときどきのエピソードとともに、ある人との関係が日常生活として語られることです。
グリーフワーク(嘆きの作業)というようです。
グリーフワークには同世代の人たちとつながりができた人の間でのささいなことが気になり、とがめ、反発心をひきおこしたり、混乱したり、うつになったり、腹立たしく思えたりすることも入ります。
これらの事情を相談相手と話していくなかで、自分の心の中にしこりとして残るのを弱め、古くからある気がかりなことを解きほぐしていくのです。
ですから、これは、感情の表出・表現であるとともに、感情のコントロール・バランスを図ることであり、対人関係を自分の中に受けとめていく機会を重ねることになるのです。
相談相手として広く考えましたが、心理カウンセラーとおいてみれば、イメージしやすい人もいるでしょう。
これらの人は自分の成長の援助者、伴走者であって、成長の主体は自分自身であることがわかるはずです。

(8)フリースペースの対人関係

次にフリースペースを考えていきます。
引きこもり等の対人関係を苦手とする人が、対人関係を少しずつ楽にしていく人の集まる場がフリースペースです。
フリースペースは各地にあり、その様子はとても違っています。
私がここで扱うフリースペースは広義のもので、自助会(セルフヘルプグループ)とか当事者の会もほぼ同じ範囲のものです。
グループカウンセリングやディケアにおいても重複する要素があるはずです。
その考え方、方法、運営もさまざまであり、同じところであってもそこに集まる人たちにとっては1回1回違っているように思います。
これら全体に共通することは、それぞれが自分の感情(自分を閉ざさざるをえなかった根本的な理由)を少しずつ解きほぐしながら、自分の意志や感情を表現していく経験を積み重ねていく場になることです。
ともかく感情的あるいは感覚的に「打たれ弱い」人たちが、まずは打たれる(否定される)ことの少ない状態で、自分の体験を語る形で、感情表出と自己開示を始めます。
他の人の話を聞くなかで共鳴・同調や反発や比較検討・・・を経験します。
これらを重ねるなかで、一方では自分を表現する訓練を、他方では人の話を聞いていく訓練をします。
そこでは単純な自己肯定と自己否定、あるいは他者肯定と他者否定から、徐々に相対的な自己評価や相対的な人間評価ができる道ができていきます。
これが心の発達、心の成長というものです。

フリースペースにおいては、この過程が順調に進むと保証されているのではありません。
いろいろな要素によってかき乱され、ささいな感情的な衝突が目に見えない形で行き交い、ときには言動の衝突につながることもあります。
そこで「(お互いに理解し合おうという人が集まる)こんな場にも、衝突があったり、いやな気持ちになるのか」と感じる人も生まれます。
私はそういう事態が生まれるから、そのフリースペースや自助会がだめだとは思いません。
あらゆることが約束ごとで禁止されている場よりも「場の教育力」が高いこともあるとさえ感じます。
問題は、そこにいる個人と集団的な場の落差がだれにでも合うわけではないことです。
個人レベルで合う、合わないの問題も出てきます。
「場の教育力」を一直線の高い低いではなく、さまざまな奥行きをもち、いろいろな面の役割をもつフリースペースとして評価していいのです。
そういう評価のしかたを受け入れられるようになることが一つの前進です。
そう感じられなければ、そこで自分なりの工夫を試みることになります。
引きこもり経験者にとってのフリースペースとは、自分の体験を話し、他者の経験をよく聞くこと、自分のこれまでの体験を見直し、より広い場面で位置づけできる機会にする場です。
それは自分の経験の相対化といえるし、社会における自分の位置を暫定的に定める場、自分の精神的な居場所を見つけることになります。
別の言い方をすれば、それは人間の精神的な発達を促し、社会的な人間を成長させることです。
社会性とは、自分のことや周囲の事情を、おおよそ適切な範囲で相対化して考えられる力です。
それを言動に表現できるようになるのが、社会的な人間として成長したといえるのです。
これらは思春期の課題を、引きこもり経験者がそれぞれの到達年齢のところで身につけていく過程です。
フリースペースは友人づくり、対人関係づくりのほかに人間の成長につながる多くの可能性もあります。
恋愛関係に入る人がいる、趣味や特技を表現したり、職業上の知識や技術を高める、外部世界との結びつきの手がかりを得る・・・などはそのなかでのかなり重要なものです。
しかし、一人の人にとってはそれらを全部獲得するのではなく、そのどれかを手に入れ、自分の力にしていくことができるだけです。
この人間成長の場において、私は男女差が生まれやすいと感じています。
女性は感情面の受け入れと安定を得て前に進もうとします。
男性は社会とのつながりをしっかりさせて、自分をそこに結びつけようとする傾向があります。
それはともに、人間への不信感を緩和させ「人間への安心感」を積み重ねる過程になっているのです。

2006年9月ー社会へのアプローチの時期ー脱引きこもり期(その2)
2007年1月ー対人関係の諸相ー社会へのアプローチの時期(その3)

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