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Center:2007年1月ー対人関係の諸相ー社会へのアプローチの時期(その3)

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目次

対人関係づくりの諸相 社会へのアプローチの時期――脱ひきこもり期(その3)

〔『ひきコミ』第41号=2007年2月号に掲載〕

「社会へのアプローチの時期――脱ひきこもり期」として、『ひきコミ』第36号に書き、(なお未完)としておきました。
未完部分の「対人関係(コミュニケーション、社会性)」については、より本格的に記述しなくてはなりません。
それを発表するためのいくつかの準備をしているのですが、あれこれに時間をとられて全体をまとめられないまま時間がすぎています。
この部分はかなり大量になるので、全体構成を待っていたのでは、いつのことになるかわからないくらいのものです。
全体構想のないまま準備中の対人関係に関する部分を、今回は“出展”することにしました。
3編のエッセイです。

〔1〕対人関係づくりの初歩と前提

引きこもりを経験した人たちによる“同じ体験をした人同士が互いに理解し合える場”としてフリースペースを紹介することがあります。
これは真実ではありますが、真実の全体ではありません。
引きこもり経験者には、強弱さまざまな虐待を受けた人がもっている人間への警戒感や、人を前にしたときの緊張・萎縮が表れることも多く、
それらは心の深いところでの人間への不信から出てくるものです。
これは一般的には相手がだれであってもある程度は避けられないことです。
支援者といわれる人に対しても、カウンセラーや医師に対しても、そして同じ引きこもり経験者に対しても同じです。

人間は見知らぬ人に対しては、いくぶんはこのような警戒心――もう少しゆるやかな言い方をすると未知なものへの不安感をもつものです。
これは個体維持本能の作用ともいえるものでしょう。
引きこもり経験者は、これらをもう少し濃縮させて、体の記憶として刻み込んでいる感じがします。
フリースペースにおける引きこもり経験者同士の関係では、そこに来た人が互いに理解し合える関係になるのかどうかは、
何ら保障されているのではありません。
それでもある部分は言わなくてもわかってもらえるところはあります。
それがどの部分であるのかは個人差があるにしてものです。
まず自分を認めてくれる(受け入れてくれる)相手を求めます。
反対に自分の方から相手を受け入れようとする反応をする人は少ないのが当然です。
そういう方向に関心は向かないのは避けられないことです。
それができれば対人関係をできる力はすでにある程度は持っていることになります。
自分を認める、受け入れてくれる態度を示した相手に対して、何らかの好意的な反応を示すことができるだけです。
しかもそれも相手によります。
感情的・生理的に回避したい人にはそうなりません。
これも人間全般にいえる反応のしかたですが、引きこもり経験者においてはそれが凝縮されているのです。

受け入れる相手の“ストライクゾーンが狭い”と思えることです。
自分を受け入れようとはしていない人、距離をおこうとする人に対しては、ときには無関心を装ったり、本当に無関心になります。
それを言動で表すことはまずありません。
どこかで相手を傷つけないでおこうとする気持ちが働いているからです。
そうであってもこの姿勢は相手にはほとんどすぐに伝わります。
それはある種の陰性反応ですが、それが誰にでも目に付く形では表面化することはないのです。
静かで反応の少ない状態に見えるし、確かに静かで反応はかすかなのです。
それでも引きこもり経験者のなかでは、お互いに伝え合うだけのものは伝わっているように思います。
引きこもり経験者同士の人間関係づくり、仲よくなることはさらに時間がかかります。
仲よくならなくてもいいと思う人にはなるべく傷つけないようにしながら、対人関係づくりを図る、それがこの時間がかかる理由の1つです。
この仲よくなる過程がまた、人間同士が親しくなるとはどういうことなのかをより深く伝えてくれます。
ただそれはとても複雑で多岐にわたる要素の複合体であって、私にはとても言葉では表現できるものではありません。

自分を認める、受けとめてくれる人に対して近づいていく、それが最初のステップです。
そして当然のことですが、それがそのまま親しい関係になっていくこととは同じではありません。
近づいていくのは親近感を持つことですが、そうならないこともあります。
いずれの場合も、その関係づくりには、本人が持っている要素、それはその時点での人間力といってもいいかもしれませんが、
そのいくつかが影響します。
そのなかで私には見過ごすことのできないものをこの過程から感じ取ることができます。

最も重要なことは、人間に対する安心感の有無、その程度のように思います。
警戒心が強い、おどおどしたり落ち着きがない…そういう状態の人は、初対面でつまずきます。
その程度は相手との相性にもよります。
その経過がどのようなものになるかによって、それが通常の人間関係や知人・友人関係になるのかが、おおよそ決まります。
ただそれは長期的に見ると、固定的なものではなく、何からのきっかけで変わるものです。
つまりあるきっかけで親しくなることもあれば、断絶状態になることもあります。
これも一般社会の人間関係ではありうることです。
そのきっかけの程度が、意外とささやかなものであって、その意味でやや色濃く表われるのです。
この人間に対する安心感の有無や程度は、いろいろな原因によるのですが、共通する重要な要素もあります。
それが人間として生まれた直後の経験です。
といっても自分の乳児時代を語った人は誰もいません。
いろいろな人の体験を聴き、その原因が幼児期に遡っていくことは確信できます。
しかし幼児のころすでに、それ以前の原因によってその幼児時代の不安感や動揺性は表れているのです。
となるとそれは乳児期や、それ以前(つまり先天的要素)のところに原因を求めなくてはならないのです。
この先天的・遺伝的要素、乳児期体験、幼児期体験の継続が一直線になっているではありません。
それぞれの時期には、その継続性を変えていくいろいろな要素が加わります。
きょうだい、家族、近所の子どもや人たち、保育所や病院の人などが比較的によく関わるはずです。
そういう一直線の原因、結果を変更する要素にもかかわらず、
何かの原因として継続していると感じられるものが幼児期体験の中に考えられるのです。

乳児とは何でしょうか。
それは母親の体外に出た胎児です。
完全な庇護を受けなくては何もできないのが人間の乳児です。
これが他の動物とは違う点です。
この乳児期に、完全な庇護ではなくても、ある程度の庇護のもとで、母と子の親密な関係ができた人は、
その後の人間関係づくりの重要な要素を身につけています。
それは人間として生きていく安心感という力です。
人間という種属に存在の身を委ねてもいいというものでしょう。
これがその後、引きこもり経験をもっていても、対人関係づくりを比較的可能にしているように見えます。
この乳児期における母子関係の不完全さは人間への安心感を育てません。
母子関係の成長が不安定である人といってもいいでしょう。
そういう人間は周囲の人に多くのことを求めてしまいやすいように思います。
ある人にべったりくっついて離れないような言動、依存的性質になって表れます。
そういう言動は逆効果であり、相手を拘束していくものです。
そうすると自分を受け入れてくれるはずの人から突き離されることになりやすいのです。
その典型的な乳児期の不十分な体験が虐待によるものです。
虐待というほど明確ではなくても、事あるごとに制止・拒否の中心におかれて育った子も似た状態を示します。
たとえば、幼児期に外遊びの中で友達とけんかになって帰ったときを考えましょう。
「大丈夫! いまから戻ってやり返してきなさい」というような自分にはできそうもないことを言われたらどうでしょうか。
しかも自分の悲しみや苦しみを「大丈夫!」の言葉でさえぎられたようなことも、この制止・拒否の体験に入ります。
小学生や中学生時代に、ひどいいじめを受けた人も、この人間への安心感を失わさせられています。
ある人は既に幼児期からのものかもしれません。
また学齢期のいじめによってそれまでできていた人間への安心感(これはその時点での人格の一部)を壊されてしまったと思えます。
ひどいいじめは、その人の人生に長く影響すると認めなくてはなりません。

このような人間への安心感がない引きこもり経験者は、新たな人間関係づくりを自分の自然状態によって得ることに苦労します。
意識や知識の力で工夫し、乗り越えようと努力していきます。
心理療法の一つといわれるSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)というのは、私の理解ではそのようなものです。
それは必要に迫られて必死の思いで工夫していくもののように思います。
とてもエネルギーの消費をともなうものです。

この一例を笑いで話した人がいます。
その人の話した趣旨を紹介しましょう。
感情で笑うのではなく知識で笑うのです。
ここは笑うはずだ、笑った方がいいと思うから笑うのです。
それは演技としての笑いなのですが、演技レベルも上達します。
周囲の人たちがもはや演技とはわからないほど笑いのタイミングや表現が適切になっていきます。
しかし自分はそれが知識として演技として 笑っていることを自覚していて、苦しくもあり、疲れもするのです。
おおよそこのような趣旨でした。
私は苦しいことだけれども十分に意味のある努力だと思います。
1つはそれによって対人関係がつくりやすくなるからです。
自分の努力によるだけではなく、対人関係ができることで相手からも自分の努力を支えてくれたり、
助けてくれる機会がふえることになります。
それが人間関係をより広く、より負担の軽いものにしてくれる可能性が生まれます。
もう1つは、この対人関係がつくれることによる成果を含め、より自然な感情に基づく、
本物の笑いに近づいていくと信じているからです。
本物の笑いに近づく点はまだ確証が得られる話を聞いたことはありません。
たぶん笑いだけでなく、悲しみや怒りやいろいろな感情表現が全体として自然に身につくことの一部になっていくのだと思います。
悲しみや怒りは、演技を超えていきやすいものです。
これらの意味を含めて、乳児期の体験の不備を補う試みをすることで、徐々に人間関係はできるようになると思います。

〔2〕話し相手に求める条件と背景

「ストライクゾーンが狭い」とは、引きこもり経験者のある人が、話し相手を求めるときに、
相手に求める条件が狭くなっていることを比喩的に表したものです。
これには、相手に求めるものが多く(それは感覚的・生理的なものが多くて、なかなか言葉にはしづらいもののようです)、
しかも自分を(できるだけ自分にとって好ましい方向で)受け入れてほしいという気持ちが働く結果です。
これは理知的な成分ではないので、それを考えなくてはならないからといって、たやすくできるものではありません。

相手の求めるものとは、何よりもその人が発する雰囲気です。
外見や容姿に関わることもあります。
男女差はかなり大きいと思います。
一般的に相手に求めることは安定していること、それでいてある種の活力を感じさせるという点は共通しているように思います。
引きこもり経験者に限らず、一般の人でもこの傾向を認めることができます。
その絶対度が高い、といえるかもしれません。
その雰囲気のなかに、ある種の危険性(あるいは攻撃性)を感じないことも重要です。
生理的に危険性の回避が作用しているのかもしれません。
何らかの特技、しかも現実的な特徴をもつことを要求することもあるように思います。
この危険性の察知に関しては、なにをもって危険性を感じるのかの点で個人差が大きかったり、
その後の関わり方の中で変化していく面が感じられます。
危険性と活発性(活力)は一律ではなく多様ですが、じつは全体的には近い関係にあることがわかります。
問題は自分の中にそれを受けとめられる力があるかどうかです。
こういう背景のなかで、自分との話し相手になる人を選ぶことになります。
その手順の中に一面性が感じられます。
いや、案外その一面的な方法は当たっていると思うこともあります。

私には、人間を理解していくことと平行して、その相手との親交を深めていくのがいわば一般的過程のように思います。
ところが、結論をはじめに出してしまうやり方をとっているように思うことがあります。
私はそれを一面性と感じるのです。
まず幅広くつきあっていくのがいいのです。
たぶんそのところで拒否に出会うのでしょう。
近づきすぎるのです。
相手に合わせようとしているのかもしれません。
相手を気遣いすぎることになるのかもしれません。
近づきすぎるの反対が遠ざける、遠ざかるです。
それとは別に生理的にダメというのもあります。
これらは要するに両極端の反応をしているわけです。
幅広くつきあっていくというのは、近すぎず遠ざかりもしない、中間の対人関係になります。
ここが苦手です。
対人関係づくりの多くは、中間的な幅広くつきあっていくところから始まります。
日常のときどきに接触を重ねるなかで、自然とその人と自分との関係が特別の苦痛もなくできるようになる。
そういうある時間のなかで、相手のよさや相手の容認する範囲や拒否する一線がわかってきます。
それらがおそらく多くの人が人間関係づくり、親交を重ねていくコースだと思います。

引きこもり経験者は、最初の部分でまず結論を出し、次のコースに入っていけない(いかない)ために、
人間関係ができなくなっている、と思えるのです。
そしてこの親交を重ねていくコースは、まさに対人関係の修行の様相を呈するのではないでしょうか。
さて、私はこの最初のところで結論を出す(とくにこの人とは別に友人にならなくてもいいという結論)のを、一面的であるといいました。
その一方で 「案外その方法は当たっていると思うこともあります」とも書きました。
当事者はその人を直接に目の前に見ることで、私よりもはるかに多くのものが見えているのかもしれない、と思うことがあるからです。
それはとくに危険性の察知です。
社会的に危険という人物はそうめったにいるわけではありませんが、そういう人を嗅ぎわける能力があると思うことがあります。
一般には、自分にとっての危険性あるいは攻撃性を表す可能性の察知です。
ここを雰囲気として感じているから、安全性を確保するために、むしろ安全性確保の範囲が異様に幅広く設定される形で、
対人関係づくりの初歩に対処しているのかもしれません。
このこともいろいろな点から説明したり、解釈することが可能です。
人間への安心感、対人関係による社会性(依存的な体験履歴)の不足、先天的に繊細な感性の持ち主である、発達障害的である…などと。
子ども(幼児)はそういう危険性察知能力が高いものです。
それをそのまま引き継いでいるのが引きこもり経験者である、といえるのかもしれません。
そしてこれらには個人差はあるのですが、ある1つのことのさまざまな側面を身にまとっていると私には思えるのです。
危険性というのは、その程度によっては容易に感知ができるものです。
この自分の精神的な力が低いところにいるから、危険性の察知能力は高くなっているのでしょう。
自然の条理であるとも考えられます。

〔3〕フリースペースの利用

引きこもり経験者同士の人間関係のなかで、とくにフリースペースにおいて発生する事情を紹介します。
それは精神的な自立がお互いに不安定な人同士の人間関係になる点です。
相手に対して、無意識のうちに受け入れを求める気持ちになっていることです。
依存的になりながら理解し合える関係を求める。
ややバランスに欠ける気持ちが表れます。
「自分は依存的ではない。依存的にはならない」と密かに決心している人にとっては、
周囲の依存的になりやすい人に対する反発心もわきおこってきます。
この感情もフリースペースにおける雰囲気をいくぶん不穏なものにしています。
その状況は毎回毎回流動的ですが、しばしば表れるものです。
理解されていない相手、受け入れられていない相手との関係は、すぐには改善できません。
ある程度の時間、お互いに知り合っていく過程の積み重ねが必要です。
そのことは頭ではわかっています。
しかし、感情的にはその人に対してニュートラルなものではなく、回避、非難さらには敵対的な感覚をもちやすくなります。
一般に社会性(自立性)のある人同士だと、特別に親しくはないからといって敵対的に感じられるものではありません。
社会性の不足、対人関係の乏しさが「味方でなければ敵」という感情、感覚が、心の不安感や人間不信を源泉として、
表面に浮上してくる感じがするのです。
引きこもり経験者のなかには、初対面や一時的な対人関係はなんとかできる、やりすごすことはできる人もいます。
しかしその人との関係が継続していき、親しくなる方向に進むと苦しくなる人もいます。
これは親密になる条件が狭く(人間だれでもその面ではある程度は狭い)、
しかし、そのときに親密でないままニュートラルな人間関係をつづけることが負担になることも関係しています。
自分も相手も受け入れ、受け入れられている状態でなければ回避気分が生じ、排除する(される)感情が強まり、
さらには敵対的なものに移っていく感じです。

この点は引きこもり経験者ではかなり共通にみられます。
おそらく人間一般に共通することなのですが、それが凝縮されている状況といっていいでしょう。
この前提の条件の1つには「受け入れている」かどうかを察知する感覚の鋭さが関係しています。
相手から発生する雰囲気、言葉遣いのわずかな端々から嗅ぎ取っていく嗅覚の鋭さともいえるものです。
これを自意識過剰による過剰反応とみることも可能です。
しかし私はもう1 つの奥の理由があると考えています。
人間の発する感情は複雑であり、ほとんどが複合的なものです。
感情全体のなかには友好的なもの、協調的なもの、警戒や不安感などが同時に含まれているのです。
そのなかで自分に向けられた非協調的なものをより強く感じ、それを相手が自分に向けた本質的なものと感じるバランスの悪さを感じます。
これは「自分を守る」という個体維持本能と深く結びついたものです。
安全なものよりも危険かもしれない要素に、より強く反応するのが本能の役割です。
自分を維持するために、周囲の不安要素を細かく察知・点検しようとするのです。
それは子どもや幼児のところで普通に見られるものです。
だから引きこもり経験者のこの反応は、過剰反応というだけでは片付けられないのです。
非友好的とみられる相手の多くは、一方的にそれを発しているわけではありません。
その相手もまた、対人関係の面で警戒心を交えた雰囲気を発しており、それはその人にとっては、むしろ避けられないことです。
もし「あなたは私を受け入れようとはしていません」と言われたとしたら、むしろ意外に思うことでしょう。
しかし自分でそのときの気持ちを振り返ってみると、たしかに不安や警戒心があったことを認めることができるので、
それなりに得心してしまいます。
ところが、その程度の不安や警戒心は普通のことであって、
多くの人にとってはそれが問題になるものとは考えられないわずかなレベルのものです。

引きこもり経験者のところではそれがかなり大きなものに思えるのです。
このような事情から、引きこもり経験者(当事者)ではないでも穏やかなタイプの人とその関係が楽に感じることもあります。
自分の雰囲気を細かく察知し、点検して対応しないからです。
年齢が離れた高齢者や、子どもとの接触が気分的に楽なものと似た状況でしょう。
しかし同世代に近い当事者以外の人の中では、別の強い抵抗感や自己否定感が生じてしまうことも多くなります。
対人関係づくりの初期においては、入っていきづらくなります。
引きこもり経験者の集まるフリースペースは、このようにいろいろな問題をもち、条件があります。
それだからこそ引きこもり経験者の初期の対人関係づくり、その修業の場としては有効です。
そこで親しい人を見つける(見つかる)を修養として勧めるのです。
天国や極楽ではありませんが、修行の場になるでしょう。

Center:2006年8月ー社会へのアプローチの時期ー脱引きこもり期(その1)
Center:2006年9月ー社会へのアプローチの時期ー脱引きこもり期(その2)

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