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Center:2008年5月ー味覚と色覚異常に関するとっぴな仮説

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味覚と色覚異常に関するとっぴな仮説

(アスペルガー症候群の補足)  ある母親からの相談で、30代の息子の様子をきくと、必ずしも引きこもりとはいえません。テレビゲームを続け、本気で働き出すようには見えないけ れども友人関係はあり、外出も少なくない。どうやらアスペルガー的自閉傾向の雰囲気です。本人に会ってはいないのでそう仮定して次の算段を考えています。 その話のなかで、「食べ物の好き嫌いが多いこと」と色弱であることが、私の何かを刺激します。今回はこれをテーマに、少しとっぴなところまで考えてみました。

(1)子ども時代の「味覚による防衛」本能が残る人

食べ物の好き嫌いについては、すでに書いたことがあります。「食べ物に好き嫌いがある(その中心は、嫌いで食べられない物がある)というのは、引き こもりの人に比較的多いと思います。・・・彼(女)たちは味覚が敏感である、そのために食べられない物があるというのが私の得た結論です」(『不登校・引 きこもり・ニート支援団体ガイド』の「序に代えて」7ページ、2005年秋)。 今回書くのは、食べ物の好き嫌いが示すものはそれを越えた可能性を感じたからです。 子どもに野菜嫌いが多いことはよく知られています。成長とともに野菜も食べられ、周囲の人は「何でも食べられるようになった」と評します。しかし、なかなかそうならない人がいます。それは味覚の鋭い人たちのなかにいるのです。 私は子どもに野菜嫌いが多くいるのは、天与の自己防衛策によると考えるようになったのです。野菜の側にも生物として自己防衛策が働いています。茎や根や葉に、その色彩や形状のなかに自己防衛策をひそませています。 最近のニュースでオーストラリアの旱魃(かんばつ)を知りました。コアラの大好きな植物(ユーカリ)が枯れそうだといいます。植物のなかにコアラに 有害なものが増えて、コアラの死や病気が広がっているというのです。これは植物が旱魃で絶滅から逃れるため、水不足のときの防衛策が働いているのです。植 物は、自己防衛としてそれを食する動物に栄養とともに毒素も与えているのです。 人の子どもにひきよせてこの事態を考えてみると、同じ原理 が働いています。子どもは食べ物(植物・野菜)の反撃を受けたとき、対抗する力(抵抗力) が弱いのです。そうであるために野菜を多く食べないように、身体反応をします。予防として舌という関門で、消化できない要素を取捨選択していると考えられ ます。子どもはこのチェックが厳しい、そうすることで消化できない、害になる要素が入らないようにしているのです。それが子どもの野菜嫌いと映るのではな いかと思います。 子どもは成長し、体力も消化力も向上し、抵抗力を高めます。食べ物を通して体内に入る少々の毒素も消化し、栄養分に加工できるようになります。辛味も、苦味も、すっぱさも“味つけ”の1つに変えてしまうのです。 ところが引きこもりの人(またはアスペルガー症候群の人)のなかには、成人してもそうならない、なりづらい人が相当いるように思います。

(2)体の成長面でも子ども性を残している――それにどう付き合い、生かすか

 「アスペルガー的な自閉傾向の理解(試論)」(『ひきコミ』第55号)のなかで、アスペルガー的な人を子ども期の様子を残したまま成長した人として描きました。 成人になったアスペルガー症候群の人は、単純に精神的または心の成長の部分だけが子ども性を残しているわけではないのです。体の成長の部分もまた、 子ども性を残している、それが味覚にもあらわれていると考えるのです。成人の「食べ物の好き嫌いが多い人」のなかには、味覚において子ども性の維持をして いる人が多いと考えるし、アスペルガー的自閉の人には「食べ物の好き嫌い」の多い人がいると予想するのです。 じつは私がそうです。私は子 どものころから野菜大嫌いでしたし、好き嫌いの多い人間です。成人した後も、同じ鍋を囲む会食は苦手になります。その鍋 の中で食べられる物は限られ、「偏食家」と見られるのを避けてきたように思います。食事を共同でするのは、人間として重要なコミュニケーションの場です が、そこから遠ざかる理由になっています。 これと対人関係の自閉傾向が重なって(というよりはそれは結局は同一のことです)、独りでいるこ とが好きな人間になります。独りで過ごす時間を工夫 します。これらはどちらかが先でどちらが後なのかはわかりませんが、総合としてそうなるように思います。どこか1か所を消す(矯正する)とかすれば、どう にかなるものではなさそうです。うっかりそんなことをすれば、全体を破壊するのかもしれません。 当事者にとってはその点を細かく強く意識していくと、一直線に自閉に向かい、人とのまじわりを拒否することになるのかもしれません。それは自分で自分を閉じ込め、自分を拘束していきます。 それをさけるために自分なりの気づきと創意工夫、そして努力をたいせつにするという意味で「自分を生かす」方法を探す必要があると付け加えておきましょう。

(3)「奇型は病気(障害)であるが、変形は異常ではない」

次に色弱の話にいきます。じつは私も色弱です。小学校のころ色覚検査があり、それで判明しました。まさかこれがアスペルガー的自閉傾向と関連がある とは考えていなかったのですが、いまなら何らかのつながりがあると確信します。以前にも不登校情報センターに関わる人のなかで色弱という人がいて、今度の 人の話をきいてどうやら色覚異常といわれる人の割合が高いと考えるようになったのです。 私は先の「序に代えて」のなかで、引きこもり経験者の五感が敏感である点を書きました。同時に敏感であるとともに鈍感であるという両方のかたよりがあることを前号の「試論」で書きました。これら全体が一つのことに向かっているように思えるのです。  「序に代えて」ではこう書きました。  「視覚(目)と聴覚(耳)・・・の感覚が優れている例は、嗅覚や味覚のような形で把握することができません。それは視力がよい、聴力がよい、とい うのとは少し違うと思うからです。視力が低くても視覚が優れている、聴力が低くても聴覚が優れているという現象があるのです」(8ページ)。 これを書いた時点では、視覚には色覚も含まれていることには考えが及ばなかったのです。視覚とは視力をさすのではなかったのです。たぶん聴覚も単純に聴力をさすものではないのでしょう。 色弱とは色覚異常の軽度のものをさし、より重度のものが色盲です。これは味覚とは次の点で違います。  「野菜嫌い」に表われる子どもの味覚は、非常に多くの子どもに表われ、しかも成長とともに多数は「野菜嫌い」がなくなります。味覚は成長とともに変化するのです。 一方、色覚異常は、非常に少ない人が先天的にもち、成人とともにそれがなくなるのとは違うように思います。 アスペルガー的自閉の人の味覚は成人後まで続く人が多く、色覚異常は、先天的にアスペルガー的な人により多い割合で発生し成人後もつづいていると考えられるのです。 視力が全盲かこれに近い人は障害者になります。色覚異常は(全色盲の人に関してはわかりませんが)、障害とはいえ、私の経験でいえば日常的には障害 を忘れていますし、何ら支障はありません。しかし進学や就職で不当な制限があり、社会問題になっているそうです。生物的には障害レベルは低いけれども、人 間の意図(社会関係)で障害になっているだけです。 話が少し脱線しそうなので戻しましょう。「奇型は病気(障害)であるが変形は異常ではない」という基準があります。色弱が色覚異常であるというのは、目と付属器官に奇形があるという意味です。その意味では障害です。 おそらくアスペルガー的自閉傾向の人のなかでは、このような色覚異常の人がある程度は高い割合でいると推測します。私には色弱は非常に程度が低い障害ですが、それが先天的にあることのなかに何らかの意味を感じます。 味覚の鋭さは、何らかの積極的な意味をもつように思えます。 しかし色覚異常にはそのようなものはさし当たり見当たりません。同様なことは他にもあります。私はじつは箸(はし)の持ち方が小さいころから変わっ ていました。それがアスペルガー症候群の1つの表われであると知りました。この箸の持ち方のおかしさにどんな意味があるのかはわかりません。まだ意味のわ からないものもいろいろあるのでしょう。

(4)引きこもりやアスペルガー的な人は、人間の移行期(進化)の先駆けの人

私はアスペルガー的自閉が障害または「異常」ということでは終わらない、別の可能性を秘めていると感じます。それは、障害、あるいは不都合の程度が、こと視覚に関するかぎり、そして味覚に関してもさほど問題ではないかもしれないからです。 それは治すとか補助器具をつけるだけが改善策ではないと感じるからです。状態(程度や種類)によっては、そういう対策もありうるとは思います。それらの有効性も認めていいでしょう。しかしそれらが全体を示しているとはいえない、それで「終わらない」と考えるのです。 それはたぶん人間の(もしかしたら人類)の進化に関係しています。その方面の知識はないので恰好な例は出せません。 とっ ぴな例をあげます。クジラ(鯨)をあげましょう。鯨は元は陸上の哺乳動物で、ある時期に海中生活をするようになりました。そこにはある程度移行 期があります。数十年か数百年かわかりませんが、その間に海中生活に適した身体組織をつくり出しました。陸上生活時代の器官にかわり新しい器官をつくり出 し適応していったのです。単純な突然変異ではなく少なくとも目的(鯨自体が意識していたとは思いませんが)のある変化をとげました(この意味で私は進化論 における今西錦司説に同調的です)。 この移行途上の鯨は、中途半端で抵抗力も適応力も弱い、新種の哺乳類だったと思います。だんだんと適応しやすい器官を備えていったのです。 私は、引きこもりやアスペルガー的自閉の人間は、このような移行期(進化)の途上にある人間ではないかと考えるのです。といっても鯨ほどの大変化で はありません。やはり同じ人間ですが、それでも進化のある目的に向かう人間です。それは従来の人体からみればいくつかの細かな違いがあります。それは新し い人間生活、社会的文化的状況に適合を図ろうとする人間のような気もするのです。たぶん誰一人としてそれを意図的な目的としている人はいないでしょう が・・・。目的はDNAの中に秘められているのです。

(5)現代社会が進化を促している

急激に「精神的な成人期」が遅くなった現代社会が、引きこもりやアスペルガー的な人を多く出現させ、人間の進化を促した 私がこのとっぴな説を考える理由が一つあります。少なくとも日本人のばあい、この数十年のあいだに、子どもから大人になる年齢が大きく変わりました (いまも変わりつつある途上です)。戦後のある時期までは18歳ぐらいで大部分の人が大人になりました。それが最近は30歳前後で大人になる人が相当に多 くなっているという印象をもちます。 私だけでなく、多くの人がそう感じているように思います。なにをもって「大人」とするのかはそうたやすくは説明できませんが、それはひとまずおきましょう。 日本人の平均寿命が大幅に延びたとはいえ、「大人」になる年齢がこの数十年の間に18歳から30歳前後になるというのは平均寿命が延びた理由では説 明できない大きな変化です。少なくともこれを生物学的に説明した例を私はまだ読んだことがありません。“進化”説は、これへの回答を用意するのではないか というのが理由です。 引きこもり経験者のなかに、30代の人や20代後半の人から「私はいまが思春期です」とか「私の精神年齢は十代で す」という人も少なくありません。 また「女性になりたくない」「男性になりたくない」人は30代に入ってもいますし、たぶん20代でも少なからずいます。かつては十代に多くいたのですが、 いまは十代の人のなかではもっと違った言い方をする人が生まれているような気もします。 これは「大人」になるのが遅くなっている、逆に子ども時代が延長していることと軌を一にした状態を示すことばです。 大人になるのが遅くなるというのは正しいとか間違っているという種類の問題ではないでしょう。少なくとも一般的に高等生物ほど成熟に時間を要すことは知られています。そこに“進化”という概念(もしかしたら大仰な言い方)を持ち込むと、うまく説明できる気がするのです。 この説明のために今回とりあげた色覚異常や味覚異常(?)はこの数十年間に急に登場してのではありません。同様にアスペルガー症候群というのは、概念としては20世紀のものですが、相当に古い時代から人間の一定割合でいたように思います。 それらが、この子ども時代が長期化する(それだけの社会的歴史的条件のある)この時代に、新しいタイプの人間を目的とする進化の力が作動しているのかもしれません。 そういう移行期において、それを体で表現する人は、どこか中途半端で、身体的にも異端的で、弱点を抱えた存在として表われるしかないのです。その一 つの現れとして味覚異常や色覚異常が、この時期になって役割をはたしつつある。それが全体としてアスペルガー症候群といわれる人たちの出現ではないかと 思ったのです。 アスペルガー的自閉の人に対して「治す」よりも「自分を生かす」ことをすすめるのは、その面からも間違っていないと思います。カウンセリングにおいて「自分を受けいれる」というのも、この点で理解のしかたとしてはいい容れ物になっています。

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