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Center:2009年1月ー引きこもり生活者への訪問活動(4)

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 プライベートな事情をある程度は抽象的に書かざるを得ません。それでも大枠の考え方、方法などは伝わるものと信じています。参考になれば幸いです。        〔一応、終わり〕
 
 プライベートな事情をある程度は抽象的に書かざるを得ません。それでも大枠の考え方、方法などは伝わるものと信じています。参考になれば幸いです。        〔一応、終わり〕
 
   
 
   
引きこもり生活者への訪問活動(その1)=2008年8月<br>
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引きこもり生活者への訪問活動(1)=2008年8月<br>
引きこもり生活者への訪問活動(その2)=2008年10月<br>
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引きこもり生活者への訪問活動(2)=2008年10月<br>
引きこもり生活者への訪問活動(その3)=2008年12月<br>
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引きこもり生活者への訪問活動(3)=2008年12月<br>
引きこもり生活者への訪問活動(その4)=2009年1月<br>
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[[Category:不登校情報センター・五十田猛・論文とエッセイ|2009年01月]]
 
[[Category:不登校情報センター・五十田猛・論文とエッセイ|2009年01月]]

2011年4月13日 (水) 23:07時点における版

目次

引きこもり生活者への訪問活動(その4)

~20代後半以上の人への方法を例示する~

〔『ひきコミ』2009年2月号=第63号に掲載〕

〔9〕訪問サポートの長期化

 訪問サポートが長くなることもあります。訪問サポーターの技量とキャラクター、相手との相性、関係する当事者たちのタッチできないほかの条件などを除くと、それは引きこもり生活者が主に2つの過程を経るためによるものと考えられます。それを要する時間の長さです。  第1段階は「自分を維持する(できる)力」をつくるところです。  第2段階は「人と関わる力」をつくるところです。この段階は人一般への関わりと同年代の人との関わりの2つがあります。訪問サポートの時期に先行して始まります。

(1)「自分を維持する力」をつける

 第1段階のこの「自分を維持する力をつける」取り組みが必要なのは、引きこもり生活者の状態の深さ(対人関係により育っているはずの成長の停滞)に遠因があります。  人(ときには家族にたいしても)と接するとが、自分の生存を不安にさせることになる状態と考えられます。対人恐怖症のような病的な状態のこともありますが、必ずしもそうとばかりはいえません。病的であっても過程が軽いのかもしれません。  そわそわして落ち着かない、手で髪をよくさわる(ちょっとしたパニック傾向)、ことばが少なく勢いがないのでよく聞き取れない(うまく表現できない、おどおどしている)、自分を理解してほしい・責めないでという気持ちが強く表われている、感情を鎮めている(ときには怒りを抑制している、パニックにならないようにしている)、無表情に近く話しかける手がかりを得にくい……などの姿です。

 これらも程度が強いときには、顔を会わせること自体ができないでしょう。当事者はときには相当に無理をしたり、家族の圧力、無言の強制力のなかで訪問者に会っているのかもしれません。訪問者が帰った後、どっと寝こむとか、家族に当たるのはこのようなときです(自分を責めながら家族に攻撃が向かうこともあります)。  それでもこの事後反応の程度が軽いのであれば、訪問の続行をすすめます。前に書いたように訪問時間を短くする、無理強いしないことを姿勢で示す、などの工夫をしていくうちに、この面談のストレスに耐えられるようになります。

 “面談“も工夫します。家族に同席をしてもらう、正面から相対する座り方をしないで間を置いて横に並ぶ、食べ物に費やす、音楽を一緒に聞く割合を多くする…こうしてストレスの拡散を図って慣れの時間を経験するのです。

 このような状態の人への訪問は1回で中止になることもあります。継続することもあります。継続できるのは当事者が「がまんをしている」からでしょうが、訪問者はそのことを了解し、多くを望まず求めず、ともかく短時間でも横に一緒にいるだけでもいいと受けとめてほしいところです。  訪問サポーターが「話しができない」とやりにくいと感じたり、息苦しくなったりしがちです。これは訪問サポーターが家族の要請に応えなくてはならないというプレッシャーです。肝心の引きこもり生活者にとっての意味が後回しになっています。

 家族は引きこもっている子どもと話せる関係にあると、訪問サポーターとの間でそういうストレスが生まれる事態を理解しづらいのです。家族とは事前にも途中でも了解してもらうことです。  会話がなくてもいい条件づくりや会話につなぎやすいことの導入を図るのが、向かうべき方向になります(CDを聞く、絵本や地図をみる)。シンプルに会話だけを求めると行き詰まります。  これらの工夫を積み重ねていくと、訪問の時にやや落ち着きを感じられるようになります。とりあえず「慣れる」としておきましょう。訪問サポートの進歩に見えますが、同時にこれが当事者にとっての成長にもなります。同世代に近い訪問者ならばそれは顕著ではないでしょうか。  これが「自分を維持する(できる)力」を獲得し高めていく時期の訪問です。訪問サポートの期間に、この力を得る課題を十分になし遂げることはないでしょうが、この時期が継続していけば、次の段階が自然に始まります。

(2)「人と関わる力」を得る

 多くの訪問サポートは、この「人と関わる力を得る」ための訪問からはじまります。ここで訪問差サポートの初め(2、3か月以内または10回以内)に外出に結びつかない人は、一応すべて長くなっていく可能性があると考えられます。  すでに前段階の「自分を維持する」ところから進んでいった状態でも、関わり方の内容の変化やウェートの変化として「人と関わる」ところに向かいます。前段階からの訪問活動が必要であったということは、この後段階の時間も長くなりやすいと思います。  このような訪問サポートの経過の全部を通して関わった人はたぶん私にはまだいません。訪問して意外(?)と早くフリースペースに参加をした人はいます。自分なりの方向に進んだ人もいます。しかし、20回の訪問を重ねたあと、フリースペースにやってきた人はまだいません。  いったいどれくらいの時間・回数を重ねなくてはならないのかの概略の見当もつかない人さえいます。  ただ前任者の後を受けて私が訪問を始め、その人が不登校情報センターに来るようになった人がいます。年単位の長い過程を経てきているのです。このような訪問の回数を重ねるタイプの取り組み、その内容を考えなくてはならないのです。

 長く訪問を繰り返すことも必要で、十分に意味があります。引きこもり経験者がすぐに動けるのはその人のそのときの状態によります。その条件がなければ長くなっていいのです。長くならざるを得ません。  訪問サポートが向かう中心的なテーマを、その人が自分に肯定的な感覚を持つようにする、と私は認めています。  訪問者1人と引きこもり生活者の1対1のかかわりのなかで、主に話のやり取り(質問し答える、話し始めたら聞いていく…)、ときには作っているものを見る(絵や詩作)、音楽を聴いたりテレビを見る、あるテーマで話す、とりとめもないような話が続く、それらが訪問のなかの関わり方です。  「人と関わる力」は、理屈を学ぶのではなく、実際に訪問者と関わることにより身についていきます。ある時期は細々とある時期はいい調子で重ねていくのです。

(3)3つのタイプのその後

 この関わっていく過程が引きこもり生活者の自己肯定感ををつくり高めていく初歩的な内容になります。訪問サポートが長くなるばあい、私が「初回(初期)面会における3つの型」と感じていたことが、少し形を変えながら継続していきます。それを3つの型にそって、可能な説明を試みてみます。 ①「むしろ訪問者をもてなすような心遣いを示す人」を、“要注意“としましたが、その一部が訪問中止(中断)になります。病的状態が表面化するのです。そうでない人は、主に③「面接・面談」になっていきます。 ②「自分のペースを維持しようとする人」は、自分の内側(自分のもっている裁量やそれまでの人との関係=たとえば幼なじみ、学校時代の友だち、親族など)から社会につながる要素を引き出す人がいます(親族の家業を手伝う、子ども時代から親しくしている自転車屋さんでバイトをさせてもらう)。その人の熟成を待つつもりで、訪問者はヒントになりそうな材料を提供できればいいでしょう。自分なりに動き出せたら、訪問サポートの1つの目標を遂げたことになります。  しかし引きこもり生活者の全員が比較的早期にそうなるわけでもなく、長期に繰り返す状態になる人も少なくはないのです。このタイプのなかには「面談・面接」になる人もいます。相変らずあれこれの“ながら面談“を続ける人もいます。  当事者は一方で、不安感が強まることもあります。このような状態であっても、訪問サポートは続けたほうがいいのです。  訪問サポーターが当事者と家族の関係を双方から聞いていく役割の相談役になることもあるでしょう。家族とどう見守るのか一緒に考えることもあります。家族とともに学び合うのです。

③「面接・面談の形で受け答えをする人」はいちばん多いですが、個人レベルでみると違いもあります。  このタイプに含まれる「怒りを抑制している人」は、比較的早期に動き出します。「会って話しているだけではつまらない」ような不満を口にしたら、前向きの気持ちがあるとみていいでしょう。その動きの方向がフリースペース的なところならばそこでの対応に進みます。  アルバイトを始めるなどの、一人で自分なりに進んでいく(何かに耐えていくように見える人もいます)のなら、間隔をおいたテンポで訪問サポートを継続するのがいいと思います。  たぶんこの③のタイプには、いわゆるオタク傾向の人もいます。ある分野の趣味やコレクションの指向があり、社会とのつながりより関心が常にそちらに戻る雰囲気です。ですから②のタイプに入るのかもしれません。

 創作活動(文芸、まんが、イラストなど)に入っている人もいます。ペット指向も少なからずいます。そのほか独特な指向もあります(特許、懸賞、株式投資)。一般的に否定すべきことでなければ、付き合います。むしろどう評価し、どう応援すべきなのかを考えますが、とりあえずはジャマをしないことでしょう。  これらの③タイプの人を中心に訪問サポートが長期化するのです。

(4)同世代スペースと男女差

 長期化する訪問サポートのなかで自己肯定の感覚を身につける一般的な意味を2つの点から性格付けておきます。 ①自己肯定感をこの20代後半以上で感じる本格的な場は、主に同世代によるものではないかと考えられます。その場とはフリースペースに限定はされませんが、その要素がなくて難しい気がします。数十年前までは職場のようなところでもあったのでしょうが、だんだんなくなりつつあるのかもしれません。  訪問サポートでできるのは、基本的には1対1の関係なので、先取り的なものです。それでも波長があったときには、思いがけない結果が生まれることもありそうです。 ②自己肯定感を得ていく過程は、男女差を感じます。ことばで表わすとわずかな違いです。  男性においては、「人との関係のなかで自分を理解する」こと、すなわち身近な(同世代の)数人または小グループで、自分のポジションや役割を受けとめられる状態を、実感的に獲得することです。これは友人関係が安定することでもあります。

 女性においては「人との関係のなかで自分を理解される」こと、したがって個人的に親しくなる人ができる(現われる)ことにより、自分を受けとめられる状態に到達するように思います。  ということは、女性のばあいは訪問者との二者関係で自己肯定感を獲得する過程に入ることもあるのです。それにはたぶん人格や性格の相性がかかわっています。それは男性よりも強く影響するようにみえます。

 男性のばあいは、訪問サポートの過程だけではそこまで届かないのではないでしょうか。なんらかの社会的関係(フリースペース、宿泊型の施設など)に入る力、そこでの人間関係と友人関係をつくるのがオーソドックスな道のりでしょう。  男性にしても、女性にしても、人間関係がある程度安定するには、訪問サポート期を超えた対人関係の経験を経るなかで得られます。

(5)青年期の課題

 引きこもり生活者と訪問サポートする人の関係は、人間成長における青年期の課題に向かうものと考えると理解しやすいと思えます。1対1の人間関係、サポートという枠組み、多くは訪問をする家の中など制約された、約束された環境のなかで、ことは始まります。  向かう先は引きこもりからの自立になるのでしょうが、自立をする力をつくることとは、この年齢において青年期の課題に向かうことといってもいいでしょう。  その要点は、各人が生まれてから十代までに学び、体験してきたことを、同世代のなかで交流し、振る舞いやことばでやりとりし、自分の経験や持ち味を相対化することです。それにより社会の一員として生きていける感覚を実感するのです。それができるようになれば、不安を持っていても希望も持てるのです。

 引きこもり生活者の重要な一面は、20歳前後までの数年間に、同世代の人との交流の機会を得られなかったことです。それを回復する経路をつくるのが訪問サポートの役割です。  訪問ではありませんが、相談にやってくる引きこもり経験者には医療機関で薬の服用している人もいます。カウンセリングを受けている人もいます。その人たちが「人とのつながりが欲しい」「友だちが欲しい」と訴えるのは治療や専門家とのかかわりレベルでは、まだ根本的にはよくないと感じるからです。人間という生命体のごく自然な、本能的な作用によるのです。  これをもし何らかの療法というのなら「対人関係療法」といっていいでしょう。  それが訪問サポートとしてスタートするならば、いつか発展し、形と内容を変えて一生続いていくものになるでしょう。それはいつか社会参加の状態になります。

〔10〕訪問の長期化は悪くはない

(1)安定した訪問サポート期

 訪問サポートを繰り返し、長期化することとは、引きこもり生活者の関心領域に入っていくことです。その向こうにその人の本質的に大事なものがあり、それをともに見つける行程に入ります。「人間はそのありのままの姿を真実に認められたときに、自分を肯定でき、自ら動きだす」と私は確信しており、そこに近づいていくのです。  早とちりをしないように。引きこもりが「ありのままの姿」なので、それをすばらしいと認めているわけではありません。何人かの例で、家族から自分の引きこもりを(生育過程の忘れ物を取り戻すためのものとして)肯定的にみられた、それで気分が楽になった人はいます。  その感覚のある人は自分の引きこもりを肯定し、楽になるでしょう。それは意味のあることです。とくに家族との関係が大きく改善されていると思います。しかしまだ満足ではありません。多くはそれによって動き出すところまではいきません。  そのレベルを越えたところに本格的な自己肯定感があります。そこへの旅は続きます。

(2)関心領域さがしの過程

 訪問サポーターは引きこもり生活者のもつ関心領域、小宇宙に入り始めます。日常の生活の行動やことばにその断片は表れるのですが、引きこもり生活者は、意外とそれが自分の関心の中心であるとは意識していません。  なかには時間をつぶすためにしている、体を動かすための方法と思うだけです。それどころか、それ自体を否定的に考えることもあります。このような状態は外見(家族から聞くことが多い)や会話だけではわかりづらいものです。  訪問サポートのなかでは、この状態が続いていき、何らかの糸口を探すのに多くの時間を費やします。当事者が意識していないことのなかから、関心事項をさまよいながら探していくのです。  これは大変な状況です。しかし、そのテンポの緩やかさにもかかわらず、本当の意味で当事者と訪問サポーターの共同作業です。  この共同作業・会話を通して当事者のまだ意識していない関心領域に近づいたり離れたりさまよいつつ“自分探し”が共同で続きます。  この一緒に話せる関係になる自然な雰囲気が、引きこもり生活者にとっては人間への安心感、信頼をつくっていると思えるのです。目的の本筋ではなく副産物のように見えます。さらに人間として生きていける感覚を持つようにさえなる人もいると推測します。  “自分探し”のテーマはここでは十分には得られないでしょうが、副産物のような後者のこの人間としての実在感の獲得こそ、この過程の主要な成果になるものです。

〔11〕いろいろな推測事項

 20代後半以上の人への訪問サポートの経験はまだ多くはありません(この6年間の総実数は30人ですが、たぶん20名くらいが参考になるだけでしょう)。もっと様子を確かめる、同一性や異質性の区別に不明瞭さがあるものなどことばにしづらいものが多くあります。ある確実な要素ではあるが、全体のなかでの位置付けがわからないものもあります。経験したケースの少ないものもあります。  それらのうちいくつかを現象の断片として、以下に記しておきます。

(1)訪問者の複数化

①理解しようとする人  訪問をして入る少し神経症的な不安感を持つ人に「(パソコンの技術的なことのために)私とは別の人に訪ねてきてもらいましょう。最初は私と一緒に来ます」と話しました。答えは「自分の状態を理解しようとしてくれる人ならいいです」でした。  この答えは、つぎの訪問者は2人めというよりも、初めの1人と同じことを要件に求めていると理解できます。理解しようとする人だけに来て欲しいのです。理解しようとしない人とは「自分の意思に反して自分をある方向に動かそうとする人」になると私は受けとめました。  しかし同じ理解しようとする人でも、訪問者が違えば、持ち味は1人づつ違います。それが訪問者を複数にする意味になります。

②複数化の仕方は1人づつ増やす。  訪問を重ねて、特別の事情がないかぎりは訪問のつど会える。しかしまだ引きこもりの生活状態からは抜け出せない(外出は少ない)。この状態を訪問者と安定的な関係ができているとしましょう。  このつぎのステップとして訪問サポートを複数にする、もう1人の訪問サポーターを加えることも考えられます。  複数化は1づつ増やしていくのがいいと思います。ここで取り上げる1人の人間関係ができる中心は信頼関係です(世の中には、人間関係といっても利害関係、子弟関係など性格の違う人間関係があります。それらに共通のベースになるのが信頼関係です)。  訪問者のとの関係が不十分・不安ななかで2人、3人と訪問者を増やしていくのは、バランスのとりづらい形で不安感や緊張感を高めます。それに応じられる安定性のなかで1人増やしていくのが正当ではないでしょうか。  訪問者を増やしていく理由はいくつか考えられます。訪問者側のつごうもあります。実際に私の場合を考えると、同時期に4人くらい、多くて5、6名が限度のように思います。それを補う方法としての複数化です。これは訪問者側の事情であり中心的に考えることではないので省略します。  当事者の状態または要望によるものが訪問者の複数化を考える中心点です。たとえばパソコンのある技術を教える、楽器の演奏を一緒にする、年齢の比較的近い人に来てもらう、同性(異性)を加える、同じ症状(たとえばアトピー症状)のある人の経験談ができる、などです。  このように増やしていくのに何らかの理由があるほうがいいと思いますが、いつもつごうよくそれに該当する人がいるわけではありません。

③複数化の意味と役割  前の項目では主に当事者の要望に応えるために、訪問者を増やすといいました。それとは矛盾するようなことでも予想外の好結果を生むこともあります。  パソコンを教えるつもりで訪問に加わったのだけれども、すっかり気が合って、パソコン以外の付き合いが続いた、ということも生まれます。  人には多様な面があります。人が違えばまた違う面を引き出していきます。ここを狭く考えないことです。十代の子どもへの訪問で訪問サポーターに関して親からかなり細かな注文がつけられることがあります。その人の価値観や視野のなかでしか考えられていない窮屈さを感じます。その細かさに従うと、一般的にはいい結果にならないです。子どものここを変えたいとの思いがあり、大事なことを後回しにするのです。  それならば初めから誰でもいい、というのもいただけません。与えられた条件のなかで最善を考え、そのうえで未知のもの、事前に気付かない可能性に期待するのがいいのではないでしょうか。

(2)家庭を訪れる意味

 訪問とは基本的には家庭を訪ね、そこで引きこもり生活者をはじめ家族と会うのです。相談室に来てもらって面談するのとはかなり大きな2つの違いがあります。 ①たとえば訪問したときに「もてなし型」と「散漫型」の表われ、特にもてなし型は、自宅・自室だから表面に出ることのようです。相談室の面談ではこの状態が見極められる程度には表われないでしょう。  自宅では、自然な心情がより強く表われやすいのです。自分の本拠、いつもの生活の場であることが影響しているのです。「もてなし型」や「散漫型」に表われるだけではなく、本人特性のいろんな面がよく表われているのです。  これらは家の様子なども含めて、引きこもり生活者を理解するうえで、訪問活動の優れたところです。 ②同時にそうであるがために、訪問者が注意すべきこともあります。引きこもり生活者の状態によっては、自分の生活の本拠地に入ってこられたという感情を持つ機会になることもあります。  自宅に置き心密かに大事にして扱っているものを予想外のしかたで扱われると、精神的なショックを受けた人もいます。私がある人を訪ねたとき、前に来た人の話しとして私が聞いたことです。  訪問者は、自然体で訪問をするのがいいと思いますが、心理的にも物理的にも上のような侵入者であってはいけないのです。

(3)統合失調症とアスペルガー症状

 担当した人はごく少数ですが、統合失調症とアスペルガー症候群と診断を受けている引きこもり生活者がいます。訪問で感じられた両者の特徴を概略書きとめておきます。 ①統合失調症の場合  統合失調症の診断を受けた1人は、父母と一緒に30分近く話した後、私と2人での面談になりました。合計1時間以上です。30代後半の男性で、診断を受けた病院に入院経験もあります。  この人は私の訪問の後しばらくして体調を崩し、また入院になりました。訪問はこの1日です。  もう1人は40歳を越えた男性で、私の訪問に前後して精神科を受診し、そこで統合失調症の診断を受けています。  この人も訪問の初回はむしろ積極的に自分の事情を話し、70分程度になりました。  そのあと2度ほど訪ねましたが、そのうち体調を崩したということで、訪問活動は中止になりました。  2人とも快く訪問を歓迎していたように見えますが、振り返ってみるにかなり無理をしていた(つきあってくれた)と思えるのです。自己開示の内容が多かったこと、初めてにしては面談の時間が長くなったこと、訪問の後しばらくして体調を崩したことが共通しています。 ②アスペルガー症状の場合  アスペルガー症候群の人は、30歳前後の男性2人です。1人はテレビを見ながら私の聞いたことに答えます。もう1人は尋ねたことにゆっくりと考えて、ことば少なに、しかし正確に返事をしようとしています。  この2人には、不定期になりながらも訪問は続けています。居場所的なスペースには来ない感じがします。独立独歩の道を進む雰囲気です。  アスペルガー気質の人は、自分から積極的に自己開示をせず、質問された範囲のことに無意識のうちに自分なりの公表基準をつくって答えているようです。ここは統合失調症の人とは違います。  おそらくアスペルガー気質の人は、この対応をまるで自分の性格の発露のように表わしていきます。自己開示の程度を、自分が維持できる範囲に、無意識にコントロールしているのです。  アスペルガー気質について、私は『ひきコミ』第58号の「アスペルガー気質“進化説”に追加」で観察したことをこう書きました。  「アスペルガー気質とは、神経質体質をベースにして、その向こう側にすすんだ状態」であり「周囲の雰囲気を遮断する無色透明・無機質の幕をつくってその中にいる人」。この表現と整合性はあります。 ③判断は難しい  私の経験の範囲では、訪問を継続している範囲の中でこの人は統合失調症であると判断するのは難しいです。その病理をよく知らない面もありますが、症状(状態)の独自性、ほかの症状との違いがわからないです。ここにあげた2人は医師で診断を受けている人に関する実感、印象です。  アスペルガー気質の場合はそれよりもわかりよいのですが、それも程度によります。ここで紹介した2人もまた医師の診断を受けた人についてのものです。  いずれにしても私の出合った事例は少ないので、印象の範囲のこととします。  訪問サポート活動、とくに20代後半以上の人への訪問は、これからも社会的な要請も多くなると思います。ここに記したことは私の体験に基づくものが中心です。  プライベートな事情をある程度は抽象的に書かざるを得ません。それでも大枠の考え方、方法などは伝わるものと信じています。参考になれば幸いです。        〔一応、終わり〕

引きこもり生活者への訪問活動(1)=2008年8月
引きこもり生活者への訪問活動(2)=2008年10月
引きこもり生活者への訪問活動(3)=2008年12月

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