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LITALICO

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〔2018年9/12(水) NIKKEI STYLE(ライター 加藤藍子)〕 <br>
 
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2021年6月19日 (土) 21:23時点における版

  

LITALICO

同級生いじめ自殺からの選択 教師の仕事に違和感、コンサル経由でたどりついた先
LITALICO執行役員の深沢厚太氏
東大出身、元マッキンゼー・アンド・カンパニーのコンサルタントという経歴を経て、障害者支援を手掛けるLITALICO(りたりこ)で、発達障害や学習障害を持つ子どもに対する学習・教育支援事業に取り組む執行役員の深沢厚太氏。
高校時代、同級生の死をきっかけに抱いた教育への志を、常に再確認することでキャリアを切り開いてきた。
意志を貫くことを、可能にしたものは何だったのか。
■毛嫌いされながらも伝えた熱意
大学時代の教育実習で、憧れていた教師の道に違和感を覚えた深沢氏。
新卒で飛び込んだのはコンサルティング業界だった。
経営コンサルといえばスマートなイメージが強いが、自ら手を挙げて数多く取り組んだのは工場など現場の生産性改善にかかわるプロジェクトだ。
「例えば製薬企業の工場であれば、薬のタブレットを作り、パッケージングし、さらにそれを収める箱を作り、詰めて出荷へ――という一連のラインがある。
各工程に掛けるコスト・時間を削減する方策を考え、現場のスタッフへ提案するのが仕事です。
流れてくる箱の位置の微調整など、無駄の削減を秒単位で積み重ねることで、大きな生産性向上につながります。地道な仕事ですよね」
“何となく続けてきたこと”を変える。経営層は改革に乗り気でも、現場のスタッフには「ピンときていないことも多い」。
作業服を着て現場に入ると、初めは毛嫌いされた。
それでも、一緒に食事をしたり、他愛のない雑談を重ねたりしながら、相手の懐に入り込んでいった。
「関係ない話をしているときに相手から、『あのライン、もうちょっとこうすりゃいいんだけどな』というアイデアがこぼれてくることがあるんですよ。
そこを『今、めっちゃいいこと言いましたよ!』とすかさず拾う(笑)。
それでも相手の反応は薄いことも多いんですが、実際にやってみて、成果が上がるとだんだん前向きになってくる。
1人が変われば、2人が変わる。赤字工場が息を吹き返していく。
それは自分がやりたかった、教える側と教えられる側の区別がない、対等な“教育”の在り方に通じるところがあった。
とてもやりがいがありました」
一方的に主張を押し付けるのではなく、相手の意見を引き出す。
小さな成功を積み重ねながら、徐々に周囲を巻き込んでいく。
コンサルで培ったスキルを教育の現場で試したいという思いが強まり、マッキンゼーを退職して取り組んだのが教育NPOの設立だ。
■名刺さえ受け取ってもらえない日々
特別免許制度を活用し、社会人を教壇に送り込むNPO法人Teach For Japan。
立ち上げ当初の常勤スタッフは、代表と深沢氏の2人のみ。
教育現場での実績も、大企業社員の肩書もなく、回る先々で話を聞いてもらえないことが続いた。
「名刺さえ受け取ってもらえないことも珍しくなかった」
「活動実績がない団体を学校現場に入れることはできない、と。
それならまずは、学外で実績をつくるしかないと考えました。
公共スペースを活用し、貧困世帯の子どもたちに大学生が授業を教える“寺子屋”活動をスタート。
ちょうど東日本大震災が起きた直後、同じ枠組みで被災地から東京へ避難してきた子どもたちを“寺子屋”で支援したことがきっかけで、少しずつ世の中に活動を知ってもらえるようになりました」
ゼロから始まった組織の共感の輪は広がり続け、ボランティアスタッフの数も100人規模まで膨らんだ。
「ミッションに向けて、やるべきだと思うことを素直に実践する。
僕は僕の実力だけで勝負するしかないんだ、と気負っていた部分も初めはありましたが、思いが伝わればいろいろな人が力を貸してくれるということは意外な発見でした」
■社会課題の解決を仕事にするということ
しかし、活動が軌道に乗る一方で、NPO活動で生計を立てていくことの難しさにも直面していた。
「寄付は集まるようになっても、それはあくまで活動のためのもの。
月収数万円の生活を1年ほど続ける中で、社会課題の解決に人や資金が集まりにくい日本の現状に、疑問を持つようになりました」
2年間の海外留学を経て、再びマッキンゼーで働きながら「社会的なインパクトと、持続可能性という意味での経済的なインパクトを両立できる場所」を探していたとき、出会ったのがLITALICOだった。
株式会社として、資金、テクノロジーなどの資源を効率よく投下できる。
事業開発の自由度が高まれば、新たな人材も巻き込める。
2015年8月、知人に紹介された同社の長谷川敦弥社長の言葉を聞いたときのことを、深沢氏は「ガーンと打たれるような衝撃があった」と振り返る。
語られたビジョンは「障害のない社会」をつくりたい、というものだった。
例えば、今の社会に眼鏡やコンタクトレンズがなかったら、「障害者」としてカテゴライズされる人は増える。
障害は人ではなく、社会の側にあるもの。
だからこそ、そこに技術やサービスが介在することで皆が「居場所」のある社会になる、と。
それは、まさに高校時代、教育の道を志す原点となった「苦しさを抱える人の居場所をつくりたい」という思いにつながるものだった。
2016年3月に入社。早々に取り組んだ「発達障害に関する知識のある教師を増やす」署名活動は、国の方針の転換につながった。
具体的には、少子化で教員定数を減じる傾向にある中、発達障害のある子らが学ぶ「通級指導」の教員配置に限り「以後10年間で段階的に増やす」ことになったのだ。
■変わる教育環境にどう臨むか
「保護者数十人に現状や要望をヒアリングした上で、署名3万人を目標に活動を展開しました。
経験から言って、思いは訴えるだけでは伝わらない。
相手に分かりやすく対案を提示すること。そしてこれは個人の問題ではなく、社会全体の問題なのだというエビデンス(根拠)を明らかにすること。
さまざまな関係者に意見を聞き、皆で作り上げていったのが成功の背景にあったと思います」
こうした活動や、「LITALICOジュニア」事業を通して保護者と交流を重ねる中で、深沢氏は決意を新たにしている。
「相談できる場所が少ないぶん、LITALICOが頼みの綱としての役割を果たしている。
現状、展開する教室数が利用希望者数に追い付いていないことで、保護者からクレームが寄せられることもあります。
でも、丁寧に話を聞いていくと、それも期待の裏返しであることが多い。
一人ひとりの声を受けとめながら、よりよいサービスにしていきたい」
発達障害に限らず、子どもたちを取り巻く状況は交流サイト(SNS)などの浸透で大きく変わったとみる。
「20年ほど前であれば、学校にいるときの自分と、帰宅した後の家にいるときの自分は切り離すことができました。
でも、ツイッターや写真共有アプリのインスタグラムなどによって、人間関係も含め“学校”と“家”の自分を区別しにくくなっているのが現在の子どもたちです。
あるいは、少し間違ったことを言ったら過剰に世間からたたかれるなど、同調圧力が社会全体で強くなっているような気がします」
そうした認識を踏まえ、拡充に取り掛かっているのが「子どもを中心にした包括的な支援」だ。
教室を展開する中で得た同社の支援スキルや知見を、保育園・幼稚園、学校を訪問することによって、日々子どもと関わる教員などへ伝えていく。
また、ペアレントトレーニングとして、保護者が子どもの成長段階に合わせた接し方を、講習を通して学ぶプログラムも開始している。
「LITALICOの指導教室内だけでなく、保育園・幼稚園、学校、家庭など、いつでもどこでも適切なサポートが受けられるようにしたい。
一人ひとりに寄り添い、認めて伸ばすという教育を、これからも実践していきます」
道は、自分の後ろにしかできない。キャリアの語源は、車の「轍(わだち)」だといわれる。
それでも“道標(みちしるべ)”としてのビジョンを持つことの重要性を、深沢氏の働き方は教えてくれる。
※前編「修学旅行でいじめ自殺、ショックで『不登校部屋』へ 私がコンサル選んだワケ」は記事下の【関連記事】からお読みいただけます 〔2018年10/21(日) NIKKEI STYLE(ライター 加藤藍子)〕

修学旅行でいじめ自殺、ショックで「不登校部屋」へ 私がコンサルになったワケ
省庁や自治体による雇用者数の水増しが明らかになり、障害者雇用のあり方があらためて問われている。
LITALICO(りたりこ)は「障害のない社会をつくる」をビジョンに掲げ、教育から就労支援まで、幅広いサービスを提供し、課題に向き合ってきた。
執行役員の深沢厚太氏は東大卒業後、大手コンサルティングファームに就職し、NPO設立、海外留学などを経て2016年、同社へ転身した。
高校時代から一貫して「教育」とは何かを問い続けてきた、ぶれない思いの原点に迫る。<br ■子どもと家族の居場所をつくる
LITALICOは2005年に設立。障害者の就労支援からスタートし、多様な社会課題の解決を目指して事業を広げ、10年余りで東証1部上場を果たした。
深沢氏は発達障害や学習障害の子どもに対する学習・教育支援を行う「LITALICOジュニア」の責任者を務める。
同事業の中心は、子どもの特性に合わせた教材を駆使しながらマンツーマンやグループでのソーシャルスキルトレーニングや学習支援を行うというもの。
全国に約100拠点を展開する。
発達障害児の支援の難しさは、その子どもが困っていること、苦しんでいることの見えにくさにある。
周囲の理解が不十分な環境では、物ごとの認識やコミュニケーション上の特性について「暴れん坊」「親のしつけの問題」といった言葉で片づけられてしまいがちだ。
「常に、子どもたちや家族の皆さんに居場所と思ってもらえる存在でありたい」と語る深沢氏。
そう力を込めるのは、居場所を無くした人間が、ときにどこまで追い詰められてしまうのか、身をもって知った経験を持つからだ。
■修学旅行で経験した悲劇
高校生のとき、修学旅行中にそれは起こった。
旅程も半ばに差し掛かったある日、大型バスで高層ビル内のレストランへ移動。
同級生とそろって食事をしていると、周囲がどこからともなくザワザワとどよめき始めた。
「誰か飛び降りたらしい」「え、どういうこと?」――。
断片的な情報が飛び交い「初めは様子が分からなかった」。
少し経ってから、飛び降りたのは隣のクラスの男子生徒だったことが分かった。
男子生徒はそのまま、帰らぬ人となった。
「かろうじて名前と顔が一致する程度の面識しかありませんでしたが、とてもショックで。事情を知る友人に理由を聞いたところ、彼はクラスでいじめに遭っていたのだということが分かりました。
自分と同じように入学して学校生活を送ってきた彼が、どうしてその道を選ばなければならなかったのか。
彼の気持ちをたどりたい一心で、不登校の生徒が出入りする校内の教室に顔を出すようになったんです」
■仲間との出会い
その部屋は、いじめや精神面などさまざまな事情でクラスになじめない生徒たちのために設けられたものだった。
サッカー部に所属し、同級生からはどちらかといえば活発な性格として知られていた深沢氏だったが、意外にもその部屋に“居場所”を見いだすことになる。
「初めこそ『なんだ、こいつ。不登校でもないのに』という目で見られたし、僕の方も偏見がなかったと言えばウソになる。
でも、何度か出入りするうちに、1対1の人間として分かり合えるようになっていきました」
「社会や教室で与えられる一律の物差しになじめなくても、自分は自分らしくいていい。
僕自身、懸命に周囲の空気を読んではいましたが、いわゆるスクールカーストといわれるような独特の学校の人間関係に、息苦しさを感じていた部分があったのだと思います」
そこで友情を築いた仲間たちは、高校卒業後も定期的に連絡を取り合う仲になった。
共に輪に加わったある教師からも大きな影響を受けたという。
「クラスの担任ではなく、倫理の授業を受け持っていた先生でしたが、その教育姿勢を心から尊敬しました。
僕は高校卒業後、大学進学といういわゆる普通の進路を選びましたが、フリーターをやっている仲間もいたんです。
けれど先生は、一人ひとりの進んでいる道を否定したり、裁いたりすることを絶対にしませんでした。
その代わり、口癖のように『どうしてそう考えるのか』と問いかけてくれた。
そして僕たちが答えると『そうか、そうか』とただ受け止めてくれたのを覚えています」
自分は、他人と違っていい。そう認めてもらえる場所だった。
それと同時に、自ら命を絶ってしまった彼も「ここに来ていたら、助かったのではないか」と感じた。
自分が触媒になって、そんな場を増やしていく道もあるのかもしれない――。
ぼんやりと、教師という道を思い描くようになったのはその頃のことだ。
教育の魅力は相手にも自分にも変化を起こせることだと語る
■「教壇に立つ資格があると思えない」
しかし、結果的に教師にはならなかった。
大学卒業後は、マッキンゼー・アンド・カンパニーの経営コンサルタントという道を選択する。
深沢氏は、当時の心の動きを次のように振り返る。
「大学4年のとき、教育実習で初めて教壇に立ちました。
ところが、単純に全く面白くなかった。
決められた教科の内容をティーチングすることには関心が持てなかったんですね。
教壇の上から数十人の生徒を見下ろしたとき、自分がそこに立つ資格があるとも思えなかった。
20代もそこそこ、人生経験も乏しい僕が、彼ら一人ひとりと向き合うことはできないのではないか。
であれば、教師にはなるべきじゃないな、と」
とことん自己分析をするのは前出の恩師の影響が大きいが、大学時代にイギリスへ留学した際、寮で相部屋になったスウェーデン人学生からも刺激を受けた。
「彼は僕に、大学で経済を学びたいこと、そしてその理由は、将来銀行員になって国の発展に貢献したいからであるということを、理路整然と説明してみせたんです。
漠然と教育に携わりたいと考えながらも、将来に対して明確なビジョンを持てていない自分が恥ずかしくなった」
長らく新卒一括採用の慣習が続く日本では、まずは初めに就職した先で一定期間、経験を積むべきだとする“石の上にも三年”の意識がいまだに根強い。
しかし、深沢氏にその発想はなかった。
ビジョンにまっすぐでいたい。当時感じたその思いは、今もキャリアを貫く芯になっている。
■自分にとっての“教育”を実践できる場所
教育の何が魅力か。改めて自分に問い掛けたとき、「目の前の相手と向き合うこと。それによって、相手にも自分にも変化を起こせること」という原点を確認できた。
その上で視野を広げてみれば、自身の考える教育とは、必ずしも教室の中で行うものではないことに気付いた。
「就職活動にあたり、いろいろな業界の情報を集める中で、コンサルティングも人を変える仕事だと考えるに至りました。
例えば、自分のアクションによって経営層が変われば、その先にいる何百人、何千人もの社員の行動や思考に影響を及ぼすことになる。
安易な考えと思われるかもしれませんが、当時の僕にとっては、自分の中で筋が通った実感があったんです」
マッキンゼーの採用面接で、真正面からその思いをぶつけた。
「君、変わってるね」。初めはそう首をかしげていた採用担当者も、熱心な深沢氏の決意表明に、だんだんと顔色を変えた。
「いいじゃない。コンサルタントとして経験を積んでみたら」
教育への志を胸の片隅で燃やし続けながらも、「それまで思い描いたこともなかった」業界でキャリアの一歩を踏み出した深沢氏。
その経験が、理想を形にするスキルの習得につながっていく。
※続きは記事下の【関連記事】からお読みいただけます
〔2018年10/14(日) NIKKEI STYLE(ライター 加藤藍子)〕

同級生いじめ自殺からの選択 教師の仕事に違和感、コンサル経由でたどりついた先
LITALICO執行役員の深沢厚太氏
東大出身、元マッキンゼー・アンド・カンパニーのコンサルタントという経歴を経て、障害者支援を手掛けるLITALICO(りたりこ)で、発達障害や学習障害を持つ子どもに対する学習・教育支援事業に取り組む執行役員の深沢厚太氏。
高校時代、同級生の死をきっかけに抱いた教育への志を、常に再確認することでキャリアを切り開いてきた。
意志を貫くことを、可能にしたものは何だったのか。
※前編「修学旅行でいじめ自殺、ショックで『不登校部屋』へ 私がコンサル選んだワケ」は記事下の【関連記事】からお読みいただけます
■毛嫌いされながらも伝えた熱意
大学時代の教育実習で、憧れていた教師の道に違和感を覚えた深沢氏。
新卒で飛び込んだのはコンサルティング業界だった。
経営コンサルといえばスマートなイメージが強いが、自ら手を挙げて数多く取り組んだのは工場など現場の生産性改善にかかわるプロジェクトだ。
「例えば製薬企業の工場であれば、薬のタブレットを作り、パッケージングし、さらにそれを収める箱を作り、詰めて出荷へ――という一連のラインがある。
各工程に掛けるコスト・時間を削減する方策を考え、現場のスタッフへ提案するのが仕事です。
流れてくる箱の位置の微調整など、無駄の削減を秒単位で積み重ねることで、大きな生産性向上につながります。
地道な仕事ですよね」
“何となく続けてきたこと”を変える。
経営層は改革に乗り気でも、現場のスタッフには「ピンときていないことも多い」。
作業服を着て現場に入ると、初めは毛嫌いされた。
それでも、一緒に食事をしたり、他愛のない雑談を重ねたりしながら、相手の懐に入り込んでいった。
「関係ない話をしているときに相手から、『あのライン、もうちょっとこうすりゃいいんだけどな』というアイデアがこぼれてくることがあるんですよ。
そこを『今、めっちゃいいこと言いましたよ!』とすかさず拾う(笑)。
それでも相手の反応は薄いことも多いんですが、実際にやってみて、成果が上がるとだんだん前向きになってくる。
1人が変われば、2人が変わる。赤字工場が息を吹き返していく。
それは自分がやりたかった、教える側と教えられる側の区別がない、対等な“教育”の在り方に通じるところがあった。
とてもやりがいがありました」
一方的に主張を押し付けるのではなく、相手の意見を引き出す。
小さな成功を積み重ねながら、徐々に周囲を巻き込んでいく。
コンサルで培ったスキルを教育の現場で試したいという思いが強まり、マッキンゼーを退職して取り組んだのが教育NPOの設立だ。
■名刺さえ受け取ってもらえない日々
特別免許制度を活用し、社会人を教壇に送り込むNPO法人Teach For Japan。
立ち上げ当初の常勤スタッフは、代表と深沢氏の2人のみ。
教育現場での実績も、大企業社員の肩書もなく、回る先々で話を聞いてもらえないことが続いた。
「名刺さえ受け取ってもらえないことも珍しくなかった」
「活動実績がない団体を学校現場に入れることはできない、と。
それならまずは、学外で実績をつくるしかないと考えました。
公共スペースを活用し、貧困世帯の子どもたちに大学生が授業を教える“寺子屋”活動をスタート。
ちょうど東日本大震災が起きた直後、同じ枠組みで被災地から東京へ避難してきた子どもたちを“寺子屋”で支援したことがきっかけで、少しずつ世の中に活動を知ってもらえるようになりました」
ゼロから始まった組織の共感の輪は広がり続け、ボランティアスタッフの数も100人規模まで膨らんだ。
「ミッションに向けて、やるべきだと思うことを素直に実践する。
僕は僕の実力だけで勝負するしかないんだ、と気負っていた部分も初めはありましたが、思いが伝わればいろいろな人が力を貸してくれるということは意外な発見でした」
社会課題の解決を仕事にするということ
しかし、活動が軌道に乗る一方で、NPO活動で生計を立てていくことの難しさにも直面していた。
「寄付は集まるようになっても、それはあくまで活動のためのもの。
月収数万円の生活を1年ほど続ける中で、社会課題の解決に人や資金が集まりにくい日本の現状に、疑問を持つようになりました」
2年間の海外留学を経て、再びマッキンゼーで働きながら「社会的なインパクトと、持続可能性という意味での経済的なインパクトを両立できる場所」を探していたとき、出会ったのがLITALICOだった。
株式会社として、資金、テクノロジーなどの資源を効率よく投下できる。
事業開発の自由度が高まれば、新たな人材も巻き込める。
2015年8月、知人に紹介された同社の長谷川敦弥社長の言葉を聞いたときのことを、深沢氏は「ガーンと打たれるような衝撃があった」と振り返る。
語られたビジョンは「障害のない社会」をつくりたい、というものだった。
例えば、今の社会に眼鏡やコンタクトレンズがなかったら、「障害者」としてカテゴライズされる人は増える。
障害は人ではなく、社会の側にあるもの。
だからこそ、そこに技術やサービスが介在することで皆が「居場所」のある社会になる、と。
それは、まさに高校時代、教育の道を志す原点となった「苦しさを抱える人の居場所をつくりたい」という思いにつながるものだった。
2016年3月に入社。
早々に取り組んだ「発達障害に関する知識のある教師を増やす」署名活動は、国の方針の転換につながった。
具体的には、少子化で教員定数を減じる傾向にある中、発達障害のある子らが学ぶ「通級指導」の教員配置に限り「以後10年間で段階的に増やす」ことになったのだ。
■変わる教育環境にどう臨むか
「保護者数十人に現状や要望をヒアリングした上で、署名3万人を目標に活動を展開しました。
経験から言って、思いは訴えるだけでは伝わらない。
相手に分かりやすく対案を提示すること。
そしてこれは個人の問題ではなく、社会全体の問題なのだというエビデンス(根拠)を明らかにすること。
さまざまな関係者に意見を聞き、皆で作り上げていったのが成功の背景にあったと思います」
こうした活動や、「LITALICOジュニア」事業を通して保護者と交流を重ねる中で、深沢氏は決意を新たにしている。
「相談できる場所が少ないぶん、LITALICOが頼みの綱としての役割を果たしている。
現状、展開する教室数が利用希望者数に追い付いていないことで、保護者からクレームが寄せられることもあります。
でも、丁寧に話を聞いていくと、それも期待の裏返しであることが多い。
一人ひとりの声を受けとめながら、よりよいサービスにしていきたい」
発達障害に限らず、子どもたちを取り巻く状況は交流サイト(SNS)などの浸透で大きく変わったとみる。
「20年ほど前であれば、学校にいるときの自分と、帰宅した後の家にいるときの自分は切り離すことができました。
でも、ツイッターや写真共有アプリのインスタグラムなどによって、人間関係も含め“学校”と“家”の自分を区別しにくくなっているのが現在の子どもたちです。
あるいは、少し間違ったことを言ったら過剰に世間からたたかれるなど、同調圧力が社会全体で強くなっているような気がします」
そうした認識を踏まえ、拡充に取り掛かっているのが「子どもを中心にした包括的な支援」だ。
教室を展開する中で得た同社の支援スキルや知見を、保育園・幼稚園、学校を訪問することによって、日々子どもと関わる教員などへ伝えていく。
また、ペアレントトレーニングとして、保護者が子どもの成長段階に合わせた接し方を、講習を通して学ぶプログラムも開始している。
「LITALICOの指導教室内だけでなく、保育園・幼稚園、学校、家庭など、いつでもどこでも適切なサポートが受けられるようにしたい。
一人ひとりに寄り添い、認めて伸ばすという教育を、これからも実践していきます」
道は、自分の後ろにしかできない。
キャリアの語源は、車の「轍(わだち)」だといわれる。
それでも“道標(みちしるべ)”としてのビジョンを持つことの重要性を、深沢氏の働き方は教えてくれる。
※前編「修学旅行でいじめ自殺、ショックで『不登校部屋』へ 私がコンサル選んだワケ」は記事下の【関連記事】からお読みいただけます
〔2018年9/20(木)NIKKEI STYLE(ライター 加藤藍子)〕

修学旅行でいじめ自殺、ショックで「不登校部屋」へ 私がコンサルになったワケ
省庁や自治体による雇用者数の水増しが明らかになり、障害者雇用のあり方があらためて問われている。
LITALICO(りたりこ)は「障害のない社会をつくる」をビジョンに掲げ、教育から就労支援まで、幅広いサービスを提供し、課題に向き合ってきた。
執行役員の深沢厚太氏は東大卒業後、大手コンサルティングファームに就職し、NPO設立、海外留学などを経て2016年、同社へ転身した。
高校時代から一貫して「教育」とは何かを問い続けてきた、ぶれない思いの原点に迫る。
LITALICO執行役員の深沢厚太氏
■子どもと家族の居場所をつくる
LITALICOは2005年に設立。
障害者の就労支援からスタートし、多様な社会課題の解決を目指して事業を広げ、10年余りで東証1部上場を果たした。
深沢氏は発達障害や学習障害の子どもに対する学習・教育支援を行う「LITALICOジュニア」の責任者を務める。
同事業の中心は、子どもの特性に合わせた教材を駆使しながらマンツーマンやグループでのソーシャルスキルトレーニングや学習支援を行うというもの。
全国に約100拠点を展開する。
発達障害児の支援の難しさは、その子どもが困っていること、苦しんでいることの見えにくさにある。
周囲の理解が不十分な環境では、物ごとの認識やコミュニケーション上の特性について「暴れん坊」「親のしつけの問題」といった言葉で片づけられてしまいがちだ。
「常に、子どもたちや家族の皆さんに居場所と思ってもらえる存在でありたい」と語る深沢氏。
そう力を込めるのは、居場所を無くした人間が、ときにどこまで追い詰められてしまうのか、身をもって知った経験を持つからだ。
■修学旅行で経験した悲劇
高校生のとき、修学旅行中にそれは起こった。
旅程も半ばに差し掛かったある日、大型バスで高層ビル内のレストランへ移動。
同級生とそろって食事をしていると、周囲がどこからともなくザワザワとどよめき始めた。
「誰か飛び降りたらしい」「え、どういうこと?」――。
断片的な情報が飛び交い「初めは様子が分からなかった」。
少し経ってから、飛び降りたのは隣のクラスの男子生徒だったことが分かった。
男子生徒はそのまま、帰らぬ人となった。
「かろうじて名前と顔が一致する程度の面識しかありませんでしたが、とてもショックで。事情を知る友人に理由を聞いたところ、彼はクラスでいじめに遭っていたのだということが分かりました。自分と同じように入学して学校生活を送ってきた彼が、どうしてその道を選ばなければならなかったのか。彼の気持ちをたどりたい一心で、不登校の生徒が出入りする校内の教室に顔を出すようになったんです」
■仲間との出会い
その部屋は、いじめや精神面などさまざまな事情でクラスになじめない生徒たちのために設けられたものだった。
サッカー部に所属し、同級生からはどちらかといえば活発な性格として知られていた深沢氏だったが、意外にもその部屋に“居場所”を見いだすことになる。
「初めこそ『なんだ、こいつ。不登校でもないのに』という目で見られたし、僕の方も偏見がなかったと言えばウソになる。でも、何度か出入りするうちに、1対1の人間として分かり合えるようになっていきました」
「社会や教室で与えられる一律の物差しになじめなくても、自分は自分らしくいていい。僕自身、懸命に周囲の空気を読んではいましたが、いわゆるスクールカーストといわれるような独特の学校の人間関係に、息苦しさを感じていた部分があったのだと思います」
そこで友情を築いた仲間たちは、高校卒業後も定期的に連絡を取り合う仲になった。
共に輪に加わったある教師からも大きな影響を受けたという。
「クラスの担任ではなく、倫理の授業を受け持っていた先生でしたが、その教育姿勢を心から尊敬しました。僕は高校卒業後、大学進学といういわゆる普通の進路を選びましたが、フリーターをやっている仲間もいたんです。けれど先生は、一人ひとりの進んでいる道を否定したり、裁いたりすることを絶対にしませんでした。その代わり、口癖のように『どうしてそう考えるのか』と問いかけてくれた。そして僕たちが答えると『そうか、そうか』とただ受け止めてくれたのを覚えています」
自分は、他人と違っていい。そう認めてもらえる場所だった。
それと同時に、自ら命を絶ってしまった彼も「ここに来ていたら、助かったのではないか」と感じた。
自分が触媒になって、そんな場を増やしていく道もあるのかもしれない――。
ぼんやりと、教師という道を思い描くようになったのはその頃のことだ。
教育の魅力は相手にも自分にも変化を起こせることだと語る
■「教壇に立つ資格があると思えない」
しかし、結果的に教師にはならなかった。
大学卒業後は、マッキンゼー・アンド・カンパニーの経営コンサルタントという道を選択する。
深沢氏は、当時の心の動きを次のように振り返る。
「大学4年のとき、教育実習で初めて教壇に立ちました。ところが、単純に全く面白くなかった。決められた教科の内容をティーチングすることには関心が持てなかったんですね。教壇の上から数十人の生徒を見下ろしたとき、自分がそこに立つ資格があるとも思えなかった。20代もそこそこ、人生経験も乏しい僕が、彼ら一人ひとりと向き合うことはできないのではないか。であれば、教師にはなるべきじゃないな、と」
とことん自己分析をするのは前出の恩師の影響が大きいが、大学時代にイギリスへ留学した際、寮で相部屋になったスウェーデン人学生からも刺激を受けた。
「彼は僕に、大学で経済を学びたいこと、そしてその理由は、将来銀行員になって国の発展に貢献したいからであるということを、理路整然と説明してみせたんです。漠然と教育に携わりたいと考えながらも、将来に対して明確なビジョンを持てていない自分が恥ずかしくなった」
長らく新卒一括採用の慣習が続く日本では、まずは初めに就職した先で一定期間、経験を積むべきだとする“石の上にも三年”の意識がいまだに根強い。
しかし、深沢氏にその発想はなかった。
ビジョンにまっすぐでいたい。当時感じたその思いは、今もキャリアを貫く芯になっている。
■自分にとっての“教育”を実践できる場所
教育の何が魅力か。改めて自分に問い掛けたとき、「目の前の相手と向き合うこと。それによって、相手にも自分にも変化を起こせること」という原点を確認できた。
その上で視野を広げてみれば、自身の考える教育とは、必ずしも教室の中で行うものではないことに気付いた。
「就職活動にあたり、いろいろな業界の情報を集める中で、コンサルティングも人を変える仕事だと考えるに至りました。例えば、自分のアクションによって経営層が変われば、その先にいる何百人、何千人もの社員の行動や思考に影響を及ぼすことになる。安易な考えと思われるかもしれませんが、当時の僕にとっては、自分の中で筋が通った実感があったんです」
マッキンゼーの採用面接で、真正面からその思いをぶつけた。
「君、変わってるね」。初めはそう首をかしげていた採用担当者も、熱心な深沢氏の決意表明に、だんだんと顔色を変えた。
「いいじゃない。コンサルタントとして経験を積んでみたら」
教育への志を胸の片隅で燃やし続けながらも、「それまで思い描いたこともなかった」業界でキャリアの一歩を踏み出した深沢氏。
その経験が、理想を形にするスキルの習得につながっていく。
〔2018年9/12(水) NIKKEI STYLE(ライター 加藤藍子)〕

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