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『ひきこもり国語辞典』は予想を超えた意味がある

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『ひきこもり国語辞典』は予想を超えた意味がある

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会報「ひきこもり周辺だより」(2020年7月号)掲載。
発行は遅れ気味ですが、『ひきこもり国語辞典』の準備が大詰めを迎えています。
この辞典を発行するために、手作り版(2013年発行)から進展させるいくつかの経過がありました。それらを考えてみました。

(1)書くことは、自分の行動の意味を確かめる
かつて私は教育雑誌の編集者をしていました。
小学校・中学校・高校の教員とは親しく話を交わしていたので不登校の子どもの様子を聞くことはたびたびありました。
それでも不登校と聞いてもよくわからなかったと思います(当時はまだ登校拒否ということが多かった)。
やがて不登校の場合、必ずしも学業成績が不振の子どもの問題ではないと知り、これまでとは違う深い要因があると思い始めました。
そうはいっても不登校は教育の範囲で考えられると思いました。
そのうちひきこもりが現れました。
それは教育の範囲を超えていましたが心理学や精神医学のことがわからず困りました。
そこは普通に人間として見るという私の超アバウトな性格により進んできました。 雑誌に寄せられた不登校の体験手記などを読みながら生活つづり方(作文教育)と重ねていることが多かったです。
私は生活つづり方が好きでした。
知り合いの教師にもその取り組みをしている人が多くいました。
子どもの日記をよく見る、生徒との間でノート交換をして日常のことを聞いていく、母親や父親をテーマについて作文を書く…など教師はそれぞれ工夫していました。
意外かもしれませんが、そういう教師には子どものからだに関心を持つ人が多かった気がします。
私が最初に編集手伝いをした本は川上孝一『子どもの心とからだ―レポート 恵那の教育実践』(1979年)という本です。
岐阜県のこの地域は生活つづり方教育と子どものからだの調査で有名でした。
いま思うに、生活つづり方は心理学の認知行動療法に近いと思います。
教師の多くは全くそんな意識はないのですが、毎日の生活を書き表わすことで経験したことの意味を考えるのです。
子どもたちは書きながら行動を自分で意識していくのです。
『ひきこもり国語辞典』も似たところがあり、私の周囲にいるひきこもり経験者のことばや振る舞いを記憶し、書き留めながらその意味を考え続けてきた1つの結果です。

高校の国語に「表現」という単元があります。
私が高校生のころにはなかったのですが、90年代に知り合った高校教師がそれに素晴らしい実践方法を示してくれました。
方法は「聞き書き」です。
親しい人(家族や親戚の人が多い)の話を聞くのです。
仕事や家族関係のことが多く、生徒はインタビューをしてレポートにまとめます。
これは自分のことではなく相手の経験したことです。
生徒は聞きながら、まとめながら相手を理解します。
生活つづり方に続く聞き書きが『ひきこもり国語辞典』をつくりだす私の次の学習機会になりました。
『ひきこもり国語辞典』はこの延長線上にあります。
ひきこもり経験者のエピソードが基になります。
エピソードは実に多様であり、感じ方も違います。
意識的・無意識的に言ったり・振る舞っていることがわかります。
それらを文字で表現しながら言動の意味を考えます。
個人の経験を普遍的にしすぎることはできませんが、言動の範囲で意味づけできれば、読む人にも自分の経験を意味づけできるでしょう。
体験の意識化であり、体験の意味を深めます。
少なくとも参考にできるし、これまで無意識にしていたことの意味を理解できるのです。

『ひきこもり国語辞典』は7年前に手作り冊子にしました。
手作りでしたがかなり普及しました。
あるときカウンセリングを学ぶ教材(テキスト)に使われていると聞きました。
『ひきこもり国語辞典』を市販本にするために採用語を増やし、2倍以上の約600語です。
1つひとつの語句をあらためて検討します。
そのために当事者に編集補助をお願いして、事前に読んで感想を聞く方法をとりました。
そうしたらカウンセリングを受けている感じがするというのです。
カウンセリングを学ぶ・受けるというのを見たときに『ひきこもり国語辞典』の役割にはさらに先があると思いました。
自分を理解すること・理解できることとは、自分の回復であり、自分の基盤づくりです。
成長の土台につながるのではないだろうか。
自分の理解のしかたは1つの面だけではなくいろいろな方向から可能です。
その1つという意味です。
自分の経験を角度を変えて見直しするもので、これは生活つづり方の方向に共通します。
出版社に行ってこの辞典の読者対象を問われたとき、主に支援者になると答えました。
これは手作り版『ひきこもり国語辞典』を多数販売しているSくんの感想が、「当事者よりも支援者に受けがいい」と聞いていたし、私にもうなずけたためです。
しかし、新版『ひきこもり国語辞典』は編集過程で様変わりしてきました。
当事者にとっても有益・有用になるという確信がわいてきたのです。

(2)私の辞書づくりの歴史を振り返る
私は、小中学生のころから辞書・事典づくりをしていました。
それが自分の趣味と感じたのはだいぶん経ってからです。
小学生の頃から地図を見るのが好きです。
地図の知識を整理してノートに書いていたのですが、辞書づくりの発端はそのあたりです。
辞書といっても国語辞典的なものではなく、川の長さや流域面積、山の高さ、湖の大きさ、都市人口…など地理上の情報を好みに合わせてまとめる事典的のものです。
中学時代には手づくりミニ辞典を何冊かつくり、高校時代の途中からはノート型にしました。
さらに社会人になってからは1枚ノートに変わり、その厚さは数メートル単位の分量になりました。
この1枚ノート型は梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』の影響によります。
カードをキャビネットに保管していましたが、場所をとるし、関心分野が不登校やひきこもりに移行したのでそれらのノートは捨てました(2002年ごろ)。
本にした辞典は『これからの仕事ガイド』というかなり厚手のもので(1989年)、その後継ガイド本が桐書房の『中学生・高校生の仕事ガイド』(進路情報研究会)です。
私が編集していた事典は不登校情報センターのサイト内に「中学生・高校生のための仕事ガイド」として残しています。
その後、不登校やひきこもりに集中的に関わり、その分野の情報を特集の形で何冊かまとめました。
その延長が『登校拒否関係団体全国リスト』(1992年)や『不登校・中退からのスクールガイド』(1996年)という本です。
これらは数年間に何度か改定され書名も変わりました。
辞書・事典という形をとっていませんが、特定分野の取り組みを広く集めて、1冊にまとめたものです。気分は辞書・事典と同じです。
出版する事情が難しくなった後、私はそれらの情報をサイトに移しました。
現在の不登校情報センターのサイトはそのようにして始まり(2003年作成開始)、広がっています。
現在もサイト制作の基本はその方式を引き継いでいます。
この度の『ひきこもり国語辞典』は、私的にはこれらの辞書づくりの延長ですが、またそれらを超えてもいます。
延長というのは実際に関わっている不登校・ひきこもり分野に関係することです。
これが第一に挙げられます。
超えているのは基本的にことばを軸にして、五十音順に並べて国語辞典の形式を踏まえるようにしたことです。
そこで出版編集者の辞書づくりの視点が加わりました。
これまではすべて自分が集めたり書いたりしたものがそのまま辞書・事典になりました。
何しろ私は編集者なので、これらの出版物においては著者兼編集者でした。
今回はそこに大きな違いが表われました。
集めた情報はこれまでのような学校、相談室、親の会などからのものではありません。
ひきこもり当事者という人たち個別の言動です。
そうすると見方を変えれば不登校情報センターという場における私の実践記録でもあります。
実践記録の形はとりませんが、その取り組み方法や内容をこのような形でまとめ記録したともいえるわけです。

(3)辞典として本格的に扱われる
『ひきこもり国語辞典』を時事通信出版局から出版されることは幸運なことです。
2013年作成の手作り本『ひきこもり国語辞典』をいくつかの出版社や編集者に送りました。
正式に出版したいと思ったからです。
関心を持ってくれたところもありましたが、いずれも国語辞典という企画の意味をとらえられず、出版しようというところはありませんでした。
1冊だけの辞典では売り出しにくい事情があるのでしょう。
時事通信出版局が関心を持ってくれたのは、すでに『悩ましい国語辞典』という企画的な国語辞典を出版していたこと、それが比較的よく売れていたことに関係すると理解しています。
『悩ましい国語辞典』(2015年)の著者は神永曉さんといいます。
小学館から『日本国語大辞典』という全13巻+別巻の日本最大の国語辞典が発行されており、その編集者の一人神永曉さんです。
この大辞典に収められていることばには長い間に変化することばがあります。
意味内容が変わるなどしてとらえどころがない、わからない、混乱していることばを詳しく解説した辞典です。
本格的な国語辞典でありながら、企画的でもあるわけです。
*地元の小石川図書館という小さな図書館にもおいてあり、利用したことがあります。
『悩ましい国語辞典』が企画的というのは、dictionaryでありながらencyclopedia寄りになっているという意味です。
『ひきこもり国語辞典』はまさにそのような辞典になるのです。
『ひきこもり国語辞典』は通常の国語辞典ではありませんが、企画的な読む国語辞典です。
本格的ではあるけれども、企画的でもある『悩ましい国語辞典』を発行している時事通信出版局では、
『ひきこもり国語辞典』の企画は本格的な国語辞典にまで高めようとする出版文化の渦の中に置かれたものと思います。
それだけの知見とノウハウのある場におかれたのです。
いくつかの出版社や編集者が国語辞典という企画の意味をとらえられなかったといいました。
いやとらえていたから出版しようとは思わなかったのかもしれません。
しかし、実は私自身もそこまではよくとらえていなかったわけです。
私はこの出版をもう少し軽く(正直に言えば安易に)考えていました。
それがこの渦の中で『ひきこもり国語辞典』に真剣勝負で取りかかる事態になりました。
まだその作業途中ではありますが、これが私にとって幸運であったと思う理由です。
それはひきこもり当事者にとっても、ひきこもりに支援等でかかわる人たちにとっても幸運になると予想しています。
なぜそうなるのかを次に見ていきます。

(4)当事者視点でエピソードを重視し、削り過ぎず無理な解釈を避ける
国語辞典を発行するには、準備した約600語を1つひとつ吟味する作業が必要です。
その初めの視点は、そのことばが誰の視点からのものかを問うことでした。
ひきこもりの当事者視点、当事者視点ではあるが自分のことではなく他の当事者についてのもの(周囲にいる当事者が他の当事者を見て感じたもの)、
家族や支援者などが見た当事者の様子、主体が不明な客観者視点、というものが混在しているとわかります。
1つひとつ吟味する作業とは、まずここを検討することでした。
可能な限り、ひきこもりの当事者視点に書き直します。
これは大事なことでしたし大部分は可能でした。
おかげでかなりの言葉の意図が明瞭になりました。これがこの辞典の中心内容になりました。
ただし一部にはそうするのが不都合なこともあり、その扱いは別の対処を考えました。

その次の検討は一語一語が、なぜひきこもりの言動になるのか、それを説明するのかを見ることです。
私にすれば周囲にいるひきこもりの経験者が示す言動なので、あえて説明もしなかったし、その必要性に思いが至らなかったのです。
しかし、辞書にするには、この分野をまるでわからない人たちが読者対象になることを意識しなくてはなりません。
それがなければひきこもりを理解することにつながらないからです。
そういうわけでその言動がなぜひきこもりと結びつくのかの説明がされるかどうかを調べ直しました。
これはかなり厄介な作業です。
なぜなら一つひとつの言動は必ずしも1つの意味しかないわけではないからです。
複数の意味を持つ(多義性)場合もあるし、未分化のものもあります。
またひきこもりに限定的に表現されるものばかりではありません。
内向的な人の特徴やひきこもりと親和的な性格と共通するものもあります。
それらの全体を説明することはこのような短い説明の辞書では具合の悪いことです。
それらの詳しい分析的なことを目標にしているのでもありません。
そのことばがその場で示すものを端的に解釈し説明するスタンスでなくてはなりません。
言い換えれば、言動を説明しすぎないことも必要になるわけです。
一般の人がその言動が何らかのかかわりでひきこもりと結びつくと理解できても、他方では一般化しすぎないことも要件になります。
この条件を超えると言い過ぎになり、強引な解釈になり、ひきこもりの理解からは遠ざかるからです。
これはかなり微妙な点に触れるものです。
空に浮かぶ雲を写実的に描くには、定規やコンパスによって幾何学的には描けないということです。

微妙な点はもう1つあります。
当事者の言動とは何らかのエピソードです。
会話だけのものもありますし、ことばはなく行動だけのものもあります。
多くはその両方を備えています。
そのなかには多かれ少なかれ、感情的な要素、共感であり、怒りであり、批判であり、悲しみであり…いろいろなものが混ざり合っています。
エピソードから見出しのことばを引き出していますが、元のエピソードはそうとうに簡略化しています。
内容とともにこの感情的な要素を削りすぎてはこの国語辞典は無味乾燥のものになります。
削ったものを復活させたり、変えたり、また削除したり、ここはかなり動揺したところです。
当事者視点、説明の程度、感情表現を一応済ませたところで、少し離れてみました。
なぜかというにこれはひきこもりを見ているだけではなく、ひきこもりを通して日本人を見ている、さらには人間を見ているのに気付いたからです。
ひきこもりの言動の特色を見ているのですが、これは日本人に共通する特色になるとも思えます。
そういう意味では、偏っているかもしれないけれども日本人らしさ、日本人の国民性が表現されています。
この辞典は1つの日本人論になると考えています。

(5)特別のプログラムがないなかの実践記録
この国語辞典の性格を考えるとき私として欠かせない点がもう1つあります。
不登校情報センターは意図して始まったことではないのですが、ひきこもり経験者たちの居場所になりました。
集まるように呼びかけたつもりはないですが新聞等の取材を受けているうちに、当事者に伝わり、ひきこもりの当事者等が集まりました。
そこに来た人たちが何かを感じ、互いに出会い、動き、共感し、反発し合う場になりました。
私は場の設定者であり、場づくりの方策にもこれというものはありません。
誰かが示したことでできそうなことがあれば手伝い、私が関与しなくても進められるものは推奨していました。
ときに口にしたのは「犯罪と自殺以外なら許容範囲」ということばでしょう。
何かをしようとする目標設定ではなく、どうするのかは各自で考えてください、です。
あるとき紙に書いて提示したものに、「危険なもの、大型のもの、不衛生なもの、貴重品で管理できないものの持ち込み禁止」です。
すごく当たり前のことで、それ以外は容認ということです。
対人関係づくりが大事といいましたが、これというプログラムも特別の支援策はありません。
言い換えるなら、参加者各自を信じてそれぞれが自由に振る舞える場です。
これという支援がないので放任と感じて、不満を持った人も少なからずいたはずです。
私のスタイルは自然体とか出たとこ勝負と思っていました。
できるだけ介入しない、自由な行動を見守り、共感も反感も貴重な人間関係の経験になる。
これがこの居場所の運営方針ですーそんなこと聞いたことがない、という人が大部分でしょうが、これは本当です。
なぜならひきこもりの多くの人は社会や家族や同世代にいつの間にか張り巡らされている謎の基準、約束事、常識などに拘束されているからです。
そういう約束事や理解できない拘束を外すことが必要であり、私が運営する居場所はそのような拘束のない場にしたかったからです。
国語辞典に表われる、ひきこもり当事者のいろいろな言動の多くは、このような居場所において表面化したものです。
表面化といっても、ものによっては親しい当事者間に限られたり、私との二人だけの間で表現されたものです。
私はそれらを受けとめ、記憶し、ときにはノートに書き留めてきました。
そういう意味において国語辞典は、実践記録の形をとらない教育実践記録です。

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