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アニメ「聲の形」

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アニメ「聲の形」

『聲の形』は「障害者いじめの話」「感動ポルノ」か?
レッテルを外して人を見ることは難しい。
■『聲の形』あらすじ
聴覚障害者の小学生・西宮硝子がうまく発音できないことをマネして周囲の中でウケを取ったり、彼女の補聴器をおもちゃにして遊んだりしていたクラスメイトの石田将也。
彼は担任からその行為を糾弾され、硝子が転校したことをきっかけに、悪ガキの中心的存在から一転し、ついこの前までつるんでいた男子たちに教科書を池に捨てられたり、無視されたりするようになる。
高校に入るころにはすっかり自信をなくし、自分が生きる価値のない人間だと思い、自殺を試みるも母親に気づかれ未遂に終わる。
そして硝子に改めて謝罪をしに行ったことから、かつての級友たちと再会しはじめ、絡まったまま放置されていた関係の糸が再び紡がれていく。
大今良時のマンガ『聲の形』を劇場用アニメーション化した山田尚子監督の同名作品のあらすじはこうだ。
外形だけ見てこの作品を「いじめっ子が自分がいじめられる立場になったことから改心して、いじめていた障害者に赦しを得る話」だと思っている人は多い。
たとえば批評家の藤田直哉氏も、筆者と行ったある対談の中で、この作品の登場人物を「被害者(西宮、佐原)、加害者であり被害者である者(石田)、加害者(植野、川井、島田)」と区分し、彼らが「過去の行為に対して、再会してどう向き合うか」という話だと評した。
■『聲の形』で描かれるのは「いじめ」の「加害者/被害者」に一括できる関係か?
しかし筆者には、この映画が被害者/加害者、善/悪の二分法でレッテルを貼るような演出手法を用いているようには思えない。
そもそも「いじめ」という言葉は、作中では教師や親(大人)は使っているが、小学生時代の当事者たちはまったく使っていない(高校生になってからは使う者もいる)。
小学校時代の将也は硝子との関係を「いじめる/いじめられる」という言葉に集約できるものだとは認識していないのだ。
硝子に至っては一貫して自分に接してくる人間に対して(一般的には彼女を「いじめている」と形容されるであろう人間に対してさえ)「ごめんなさい」と謝り、自分が悪いのだと思っている。
また、「あいつ、ださくね」と服装をクラスメイトの女子・植野からくさされて小学校時代に不登校になった佐原という女の子は、くさした側の植野のセンスに実は憧れがあり、彼女から離れるどころか服飾デザインを学ぶ同じ学校に通っている。
かように、単純な「被害者か、加害者か」というレッテル、二分法に集約できないような、ねじれた関係を『聲の形』は描いていく。
『聲の形』は原作も映画も、誰が善で誰が悪かといった書き割り的な決めつけをせず、それぞれにいいところもあれば、弱いところもあり、問題もある、という描き方をする。
したがって、『聲の形』を「いじめられた側」の「聴覚障害者」というある意味で特権的なスティグマを持つ硝子が「いじめた側」の人間たちと和解し、赦していく「感動ポルノ」(障害者があたかも聖人のように必死に生きる姿を描いて感動させようとするストーリーテリングを批判的に形容した用語)であると評する意見に、筆者は与しない。
■過剰なまでに内面化された自罰が問いかけるもの
硝子や硝子転校後の将也は、自らに降りかかってくる嘲りや無視、言葉の暴力を「すべて自分が悪い」と抱え込んでしまう。
よく「いじめられる側、被害者側にも問題がある」という意見によって被害者は二重に傷ついている、そういう意見を許してはいけない、という話が出るが、硝子や将也はむしろ「やられる側が(も)悪い」という考えを、率先して、過度に内面化している。
DV(家庭内暴力)の被害者には「暴力を受ける原因は自分にある」と思う(思い込まされてしまう)人が少なくないが、硝子たちにはそれに似た認知のゆがみ、思考の偏りがある。
そしてそれが関係をこじれさせる一因となっていることを、同作は示す。
障害者やいじめの加害者兼被害者を聖人や悔悛者として描きたかったのであれば、こうした異様さ、内面の弱さを描く必要はなかっただろう。
硝子や将也のことをいったん離れて考えてみてほしい。
自らが罪深く、あやまちを犯す存在であり、ゆえに悪事や災厄を引き寄せてしまうのだと自覚して生きることは、一般的には(あるいは信仰においては)決して悪いことだとは思われていないはずだ。
しかし、硝子や将也を見ていて気づくのは、自罰的に自己を認知して生きることは、必ずしも美徳とは言えない、ということだ。
■レッテルや自罰が、個別具体的な人間と向き合うことを困難にする
植野は、硝子や将也は「すべて自分が悪い」と抱え込むことによって個別具体的な、生身の人間関係や出来事に向き合うことを避けている、と突きつける。
言いかえれば、罪人である、悪人である、凡夫であると自らにレッテルを貼ることを免罪符にして思考停止をするな、自分がダメでどうしようもないと最初から決めつけて生きるのは現実から目を閉ざすラクな道、「逃げ」である、ということだ。
筆者には、『聲の形』は「障害者いじめの話」といった表層的に語られやすいことよりも、もっとずっと重い問題を扱っているようにおもえる。
人は、たとえいわゆる「健常者」であっても、物事を見ているようで見ていないし、聞こえているようで聞いていない。
自分や他人にレッテルを貼り、二分法的な世界に押し込められて/押し込めて生きているのだ。
私も、あなたも。
飯田一史 ライター
出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。
マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。
単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。
構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。
青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com
〔8/1(土)飯田一史 ライター〕

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