カスタム検索(不登校情報センターの全サイト内から検索)

 
Clip to Evernote  Twitterボタン  AtomFeed  このエントリーをはてなブックマークに追加  


プロローグ

提供: 不登校ウィキ・WikiFutoko | 不登校情報センター
移動: 案内, 検索


プロローグ

『ひきこもりの社会経済的な背景事情』
社会参加の前で戸惑い・立ち止まざるを得ない人たち

学齢期を終えて(成人になって)社会の一員として生活するのに困惑している人にひきこもりの人がいます。いったん社会に入ってからひきこもりになる人も少なからずいます。私は長い間、彼ら彼女らに囲まれて生活を重ねてきました。ひきこもり支援は今では多くの支援者が生まれ、自治体や国の重要な施策になりました。 私も広義にみればその支援者の1人といえるでしょうが、また別の面の関心もありました。その背景を歴史的に見たいと考えてきたのです。そういう歴史的な背景から見れば、若い世代が既存の社会の入る条件がとりわけ難しくなっているのが現在です。その困難がとりわけ大きいと思えるのが、ひきこもりとその周辺グループにいる人たちです。社会に関わる、特に仕事によって社会参加に進む精神的・社会的な困惑はひきこもりにおいて際立ちます。しかし彼ら彼女らだけではないのはこれらの歴史的な背景を見れば明らかではないでしょうか。 ひきこもり経験者がかかわる就労移行事業所、ハローワークを含む就労紹介サービス、職業訓練施設、福祉サービス施設への期待と役割が大きくなっているのはこれらの社会状況を示します。これらにかかる社会的負担、政府・自治体を含む社会の負担とは、かつては個々の家族が(個別状況にマッチするけれども一般化はできない)担ってきていたものです。 その時期の社会的負担の合計は今日とははるかに規模も小さく、内容も今日とは比べものになりません。それでも相当に役割を果たしていたのは、それなりの理由があったというべきです。これらを『ひきこもり国語辞典』の中に見ることができます。

〇 徴兵制:「社会とはある年齢になれば何かの仕事に就くことを迫る制度です。私にはこの社会自体が兵役を課す徴兵制みたいなものです。ひきこもり対策として本物の徴兵制をつくるのは不要です」 〇 三日が限度:「登録制の仕事で週三日働けるようになりました。働いたら最低一日の休養が必要です。心身の負担を避けるために連続して働けません。だから働くのは週三日が限度で四日は無理です」

〇 ひきこもり間就労:「ひきこもり生活が基本でその合間に働いています。働く合間にひきこもるのとは反対です。働くのは月に五日から十五日ぐらいで、複数の人が時間指定でシフトを組む働き方はダメです。自分ひとりだけで完結する仕事でないとできません。派遣会社に登録し、できそうな仕事の連絡がきたとき仕事に行きます。この働き方でなんとかしのいでいます」 〇 短期アルバイト:「初めてのアルバイト体験は二週間の期限限定です。一週間過ぎたら本当にへとへとです。アルバイトでは失敗しないように、怒られないように、迷惑をかけないように上司や同僚に神経を遣います。仕事よりも、誰かに対する気遣いの方がはるかに疲れます。これが短期アルバイトにする理由です」

こう語るひきこもり経験者たちは怠けているわけではありません。少なくとも幼少期以降にそうなるだけの何かがあったと推測できます。それについては後の項目「子ども期」のところで話します。そういう背景事情を抜きにした対応策が空振りや上滑りになるのはむしろ当然ではないでしょうか。

障害者への就労支援策、職業訓練学校での対応、ハローワークでの対応にさえもその努力が垣間見られることはあります。ただ私の見る限りでは、その手の支援が届くのは比較的程度の軽い層に限られます。比喩的に言えば上層の1割か大目に見て2割の人です。ひきこもりの中心層に対しては十分に手が届いていません。 ひきこもりの中心はこれまでの支援策に近づかない、手を付けようとしない、期待していない人が圧倒的に多いのです。支援する側には来ないことにはどうにもできない感覚があるでしょう。しかし、社会の動きとしてみれば、それは放置であり、社会的な無責任になり、いずれ巡り巡って社会がその負担をするしかなくなります。そこは歴史における消し去りたい部分に記録されるでしょう。そこを見据えたいと思うのです。

この解決には放置されている、あるいは放任を望んでいる側の事情に目を向けなくてはなりません。家族関係の変遷で見てきたことは、そうなった重要な要素が家族関係の、各家族・家庭では意識されない大きな流れがあったことを明らかにするためでした。鷲田清一『悲鳴を上げる身体』(PHP新書、1998)の一節にこうあります。 「近代社会では、ひとは他人との関係の結び方を、まずは家庭と学校という二つの場で学ぶ。養育・教育というのは、共同生活のルールを教えることではある。が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールが成り立つための前提がなんであるかを理解させることであろう。 社会において規則がなりたつのは、相手が同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。他人へのそういう根源的な<信頼>がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる」(70p)。 親子のすれ違いは、世代間の違いでもあります。生活のベースが違ってきているのに、同じルールを適応させようとする親世代側にあると思えるのです。 これを家族関係だけに負わせるわけにはいきません。ベースの一部には子どもは少年期にある程度の対人関係の力をえておくことが必要ですが、子ども世界が消失しているのでは社会がそれを用意するしかありません。それを期待されている、特に思春期の学校教育に、十分に目が向けられていなかったという弱点があります。子ども期の消失や学校に関わる点は章を改めます。



阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996)―この本は小論の後半に参考にさせてもらう予定ですが―の中に次の引用がありました。 《「家」は、家族とは全く異なる社会制度である。家族は自然発生的な集団であるが、「家」は、あくまでも特定の歴史的条件のもとで成立する制度なのであり、14世紀から16世紀にかけて成立したといわれる。「家」は家業と家産をもつ「生活の拠点」であり、「社会活動の一つの単位」であり、なによりも、「家」の永続が、「家」を構成する人々の最大の願いであったところに、大きな特徴がある(尾藤正英『江戸時代とは何か』)》。孫引きである点はご容赦願いたい。日本社会の中世の大変動が「家」制度発生になっている点は改めて注目できます。

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
地域
不登校情報センター
イベント情報
学校・教育団体
相談・支援・公共機関
学校・支援団体の解説
情報・広告の掲載
体験者・当事者
ショップ
タグの索引
仕事ガイド
ページの説明と構造
ツールボックス