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体験記・高村ぴの・アルバイト体験記/対人恐怖との葛藤(3)

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アルバイト体験記・対人恐怖との葛藤(その3)

著者:高村ぴの(女性・栃木県) 


 対人恐怖、不安神経の心の病といじめという傷心のトラウマを引きずりながらも今も続けている接客業……。そこで私は、さまざまな人間を見て、出会ってきた。

 店長のフォローなしでまともにお客様と接するようになってきたのが、入店してから3ヶ月ほど経過した頃であった。

 不安だったレジ操作も覚えたての頃は、ミス連発で店長に怒鳴られてばかりでいた。しだいに慣れ始め、ある程度店内の商品の位置や状況も把握できるようになった。店長が、用事で店を留守にしても一人で店番もなんとかこなせるようにまでなった。

 やがて店の最後の精算までも任されるようになった。店は、比較的に小さかった。夕方になってスーパーに買い物に来るお客様がほとんど。ふだん暇なので、一人でも十分、店の中は切り盛りできた。

 だが、やはり一人で店番を任されることになった当初は、不安で泣き出しそうだった。それでもそれを断るわけにもいかなかった。

 店長は、他にも店を持っていたので毎日忙しそうであったし、いつもそそっかしく店に来ていたのを見ていた。全く無知で入店当初、まだ15歳だった若い中学卒業したての私のような子供を雇ってくれた恩にも応えたかった。それも忘れてはいけないと母や祖母にも言い聞かされ、私もそう思っていたから真面目に何でもよく聞き一生懸命に働いた。

 だが店長がいないということは、何かお客様に聞かれてもフォローしてくれる人はいない。トラブルがあってもすぐには、駆けつけてくれる人がいないという不安から体調や気分がさらに悪くなりレジにも立っていられない状況だった。

 「わからないならわからないとはっきりいう、何かあったらすぐに店長へ連絡する」とだけ言い残し、店長は、私が店に出勤してくるなり慌ただしく出かけてしまった。またパートの人とも入れ替わりで5時で帰ってしまう。本当に一人ぼっちで店を任される羽目になり責任重大だった。

 商品を持って店内を見ているお客様を見かけるたびに心臓が高鳴った。今、もしここで私が倒れたら、店はどうなるのかと不安との闘いであった。

 母や祖母も閉店時間までいてくれないために、頼れるのは自分だけであった。今でもなかなか大きな声では言えず、どもってしまう「いらっしゃいませ、ありがとうございました」の声があきらかに震えているのを一人でいるとより感じ、さらに不安をかき立てた。とにかくレジ付近の商品を整理したり清掃したりとやたら動いて気を紛らわしていた。

 一人でレジをやるようになるとさまざまなお客様と遭遇した。まず最初に驚いたのが、代金を小皿にぶすくれた顔で投げる客様で、いつものことながらつり銭を渡す手が、そういう時は、いっそう震えた。

 また衣料品の知識もないために、例えばこの製品は伸縮するのか、染色は何を使っているのかといった店長にしか答えられないような難しい質問をしてくるお客様もいた。

 「わからないです」と言えばあっさり承知してくれるお客様もいたが、バイトの教育がなっていないだの若いから何もわからない、と嫌味を言って買わずに帰ってしまう客様もいた。

 また私は、対人恐怖のためにお客様が、目の前にいると手が震えるのが辛かった。接客を始めて2年ほど経過した頃になって少しずつそれは収まった。目の前にいるお客様を人として異常に意識し過ぎると手が震え出した。

 包装を依頼されたときや買った商品を袋に入れてあげるときなどは、何枚も袋を破ってしまったり包装にも時間がかかったりして、手こずってしまった。そのためにもたついている、とろいとお客様に罵られたりひどいときには、商品をいらないと言われたり、お客様に包装を手伝わせてしまった失敗がある。

 また関係のないことまで干渉するお客様もいた。店の中が、汚い、値札が床に落ちていると値札を切って商品を万引きされたんじゃないかとわざわざ言いにきて騒ぎ出すお客様もいて、店長が注意するようなことさえも言われた。若いから多少頼りなく見られてしまっていたのかもしれない。

 実際に忠告されなかったが、当時、私に対するお客様からの苦情の電話が、店長のもとに殺到していたと思う。そう感じるような根拠と確信があった。

 私の後から入った二十代のパートの女性には、私とはそんなに年も変わらないのに初めから口うるさくなかった。もちろんその女性も接客経験なしであるのに普段とてもあの気難しい店長が、十年近く働いているパートのおばさんと同等に気軽に接していた。

 しかし、私に対しては、店が閉店し辞めることになるまでずっと厳しかった。ときどき私はその店長の接し方の差に対しいびられていると感じたことさえあった。しかし、接客ができていないことを誰よりも自分が、一番よくわかっていたので厳しくされたり特別そう扱われても仕方がないと諦めていた。

 「注意」と「いびり」の見境がつかずパートのおばさんともトラブルを起した。入店当初から辞めるまでずっと優しくしてくれたおばさんとはなかったが、そのもう一人の方のパートのおばさんとは、とにかくトラブルを起こしいくどとなく張り合った。

 気に障ることを言われると勝手に店を放棄し帰ろうとし、店長になだめられて泣きながら店番を一人でしたことも何度もある。包装ができずに腕を叩かれたり頼まれた仕事が、別の仕事があってできなかった翌日には、あいさつしても無視をされたり、ムスッとした顔が気に入らない、いい年して親の送り迎えをしてもらっていると関係のないことまで言われ続けた。

 あきらかにいびりと思えることもあったが、勤務時間が、一緒ではないことをましだと考えていたので気にしないようにした。バイトをしながら通信制の高校とも両立しなければならなくなってからの私は、より妥協することが多くなった。

 平日は、夕方の出勤時間まで学校のレポート勉強、週末の休暇には、高校でスクーリング、そのような日常の慌ただしさでいつのまにか心の病にも傷にも甘んじる間がなくなっていた。ストレスもあるのかないのかわからないほど度を越していた。

 しかし、接客は辛く苦い経験ばかりではなかった。逆にこれらの出来事も今の私にとってプラスに働いている。人は、常にどうしても傷つかなければ生きていけないということをいつの間にかこの頃から知り始めてきた。それが大きい妥協の一つであった。

 接客を始めるようになってから一人で出かけることすらできなかった買い物も自然に抵抗なくできるようになり、他人の目も異常過ぎるほど意識しなくなっていった。

 高校を退学したが、通信制の高校で学び始めるようになってからは一見、毎日、学校帰りにバイトする普通の高校生と変わらないとも思っていた。

 制服を着て買い物にくる自分と同世代ぐらいの高校生を見ると、劣等感となぜ自分ばかりが苦しまなければいけないのか……と惨めな気持ちに押しつぶされそうになっていた。

 高校を退学してからバイトを始める前まで家に引きこもっていた頃の私は、自分と同年代の子と道で擦れ違うたびに隠れたりうつむいてばかりいた。

 私は、その人たちとは次元の違う人間なんだと妙な被害妄想があったが、バイトを始めてからそれもいつの間にかなくなっていった。

 対人恐怖や人間不信、劣等感は接客で治るというわけではないが、あきらかに何か少し変わることができた。

 初めてのバイト生活は、傷つくことが、ほとんど多かったが、その経験も今では、プラスに働くこともある。人は、みんな同じ人ばかりはいないということ、そして何より物事に対して妥協を覚えるようになったことが、私を大きく成長させた。

 生きていく上で必要最低限、捨てなければならないもの、我慢しなければ得られないものもある。

 それからようやく、現実に目を向けられるようになった。時に落胆や逃避するようなことが、自分のすぐ目の前にあるか、ないかというが決まってしまう。

 私の場合、それは人並みに社会へ出て働いていける土台と自信が、あるかないかということであった。要は、どれだけ仕事や人との交流を通して強くなって成長できたかということである。

 また接客で、人間不信嫌いは癒せなくても、私の中で忘れえぬ傷心を抱いた一方で、一生の宝物となるごくまれなことだが、時には自分の自信につながる出会いや言葉にも実際にであることができた……。だから私は、今もここにいる……。
(つづく)

体験記・高村ぴの・アルバイト体験記/対人恐怖との葛藤(1)
体験記・高村ぴの・アルバイト体験記/対人恐怖との葛藤(2)
⇒体験記・高村ぴの・アルバイト体験記/対人恐怖との葛藤(3)
体験記・高村ぴの・アルバイト体験記/対人恐怖との葛藤(4)
体験記・高村ぴの・アルバイト体験記/対人恐怖との葛藤(5)

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