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個人が埋没しない社会的条件の成長

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個人が埋没しない社会的条件の成長

会報『ひきこもり周辺だより』2023年9月号の一部更新
マズローの法則により説明するなら、1960年代を挟む高度経済成長期を経て「ゆたかな社会」になった日本では、大半の若い世代は、食うのに困らなくなり(生理的欲求の充足)、「承認欲求」を求めるようになりました。
乳幼児期にはマズローの法則の第1段階=生理的欲求により行動をします。成長とともに生きていくうえで求めるものが変わります。
経済社会がゆたかになるにつれ、重視して求めるものが成長した世代間で違ってきたのです。
社会的背景の違いは地域や各家庭でも違います。感じ方には個人差がありますし、表われ方にも個人差もあります。
多くの場合、新しい表現は子ども世代から表われるものです。
世代間の違いは70年代には子どものからだのおかしさとして、1980年代になると思春期を迎えた子どもの不登校として表面化したのです。
これは事実ではありマズローの法則による求めるものの違いと矛盾はしていません。
しかし、なぜそうなってきたかの説明を十分にしてはいません。
経済社会の変化と子どもの表現のしかたの変化は自動的につながるのではなく、いくつかの中間過程の説明が必要です。

中間過程を考える視点の1つは社会性です。
『ひきこもり国語辞典』のはじめに私は書きました。
「男はつらいよ」の寅さんは「人並み以上のカラダと人並みに近いアタマを持つ」として、観客の笑いをとったのを例に、ひきこもりは「人並み以上の感性と人並みに近い社会性を持つ」としました。
「人並みに近い社会性」とは社会性が不十分の意味です。
社会性という力は、どのように身につけるのか。中学生のころ私は母から「タケミは社会科はできるが、社会性はない」と父が言っていた話を聞いたことがあります。
社会科は私の得意科目でした。父はそれを認めたのですが、対して社会性には欠けると評したのです。適格な評価と認めねばなりません。
社会性は学科や知識として学ぶものではなく、人との関わりのなかで会得するものです。それは接点のある相手の状態を感知する能力、体質や気質とか性格にもかかわるのでしょう。
そうする能力が人の社会との結びつきになります。周囲の人との結びつきの状態や程度が社会性になるのです。
後年、私は自身がアスペルガー的気質であると悟りました。
それで全部を説明できるわけではありませんが、自身の社会性の不十分さの理由をいくらかは説明できると思いました。
私と同様に、ひきこもり経験者の多くの特徴は成人後も(子ども時代からも)社会性が「人並みに近い」=単的に言えば人並み以下になります。
子ども時代からの人付き合いが苦手、戸惑いや失敗の経験は「人並みに近い社会性」レベルにしたのです。
なぜそうなったのでしょうか? 
1つは個人の気質や体質という先天的な要素です。ただそれだけではなさそうです。

これと関係するのが第2のテーマです。
この30年以上の間に発達障害と目される人が増えました。
この10年余の間には、感覚過敏と目される人も増えました。
LGBT(性的少数者)を自認する人が増えていることも関係するかもしれません。
こういう人たち(アスペルガー気質を自認する私も含む)は、昔からいました。
しかし、それが目に見える程度に増えているのは、そういう人が増えただけではないと思います。
増えたのではなく昔から社会には一定数はいましたが、それが表面化するのは不利であった。社会がゆたかに変わるなかで表現しやすくなった。
昔は人として生存のために抑制されていた状態が緩くなった、と考えられるのではないか。
そう理解しなければ、生物としてのこの急激な変化はおかしいくらいではないですか。

これは社会における情報量が関係すると思います。
ゆたかな社会の人間の生活圏では、情報量が多くなりました。
90年代に発行されたある本に、現代人は江戸時代の人に比べて1万倍以上の情報世界の中で生活していると書かれているのを読んだ記憶があります(該当文献を探し中)。
これに根拠があるとすれば、人間の情報処理能力が何かの形で関係します。
社会がゆたかに発展した段階では、情報量が多くなり、微妙な違いや変化の与える影響が大きくなりました。
それに細かく反応する人がいる一方で、他方ではそれらを遮断することにより平穏を得ようとする人も増えてきたと思います。
まず遮断するタイプ(アスペルガー気質など)が表面化し、続いて細かく反応するタイプが注目されてきたのです。
いずれのばあいも各人の体質等が関係する。そういう仮説を立ててみるのです。
こういう条件は高度経済成長が始まるころから少しずつ増大し、子どものからだがおかしいといわれ始めた時期には潜在的に並行して進んでいたと思えるのです。
そのさらに底流には人との接触に抵抗感を持つ人が子どもの中から増えつつあったのです。

これらの事情が世代間の違いとして表面化したのではないでしょうか。
旧世代(60年以前に生まれた人)の主流をなす多くの人たちは、社会で生きていくためにはこの主流に合わせることを要求され、その雰囲気の中で成長しました。
この時期には違和感をもつ子どももそれを吸収し、身につけ、「社会に適応してきた」のです。
しかし、ゆたかな社会ではその心理的な抑制は突破され、本来の特性をそのままに表出する人が増えてきた。
この表出方法の違いが世代間格差というわけです。
といってもこのさまざまな形で違いを見せる人は、現在のところそれぞれが人口の10%内外であると発表されています。

世代間の違いが親は特別の圧迫をかけているつもりはないのに、子どもにはストレスになりました。
それは善意に満ちた子育てであり、躾(しつけ)でした。
私がひきこもり経験者の親から多くの相談を受ける中で感じた部分です。
世代間の大事にする内容が違ってきたことに、親子のすれ違いを見るのです。
親は間違いないと信じるほど強く子どもに求めます。そのぶん子どもには強い打撃になります。
親のやり方を無条件に肯定はできないことは明らかですが、全体を間違い子育てで非難がましく言うのも行き過ぎだと思いました。
その善意と熱意に基づく子育てや家庭教育を一方的に攻められないのはここです。
これで親子のすれ違い全部を説明できるとは思いません。
毒親もいます。それも本性毒親と思い違い毒親に分けて考えたいほどです。
子どもに表われる不登校やひきこもりや発達障害や、過敏性や性的少数者などの事情をすべて異常・障害・病気と考える人は以前からいました。今もいます。
実際に極端な言動で、社会生活がきわめて困難になる人や他害自傷に向かう人もいます。
それらの人に社会的支援や医療的・心理的対応を必要とします。
それでも私には何か納得しがたいときはあります。
「直す」という言葉にときどき「壊す」という雰囲気を感じたりもするのです。
大きな急激な社会の移行期においては誰もがうまく事態に対応するわけではありません。
その過程にはいろいろなエピソードがあります。その枠内にうまく乗れなかった人として関わり受け入れてほしいものと思います。
そうでなければ人間は生物としてうまく存続できないのではないでしょうか。

ここまでの説明により心理学的方向からも経済社会的事情からも少しずつ近づいたと考えます。
これはマズローの法則における各段階がどういう心の力学の作用によるかの説明にもなるでしょう。
思春期においては共通して社会的な要件が高まります。
思春期は女性が早く始まり、男性との比較では、他者からの承認欲求が先行します。
男性は女性と比べるとより社会的な承認欲求が強いのが特徴になると思えます。
この男女差には個人差があり絶対的なものではありません。
これらは生理的欲求がかなえられるのをベースにしてより高い目標に向かうのです。
以上のことが仮説であったとしても、私にはより納得できる気がするのです。
 

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