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厳格な社会人父と家庭を守る母のもとで成長した女性

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厳格な社会人父と家庭を守る母のもとで成長した女性

〔『ひきこもり周辺だより』2017年11月号〕
先日アラフォー世代になる女性と長い電話をしました。彼女をN1さんとしましょう。
十数年前に1人の女性が亡くなりました。
N1さんはその女性N2さんと親しかったのです。
電話の中でそのN2さんについてかなり話しました。
N2さんが亡くなった原因は事故か自殺かははっきりしません。
しかし、私は同じようなものだと思っています。
酒類と薬をかなり大量に一緒に飲んだ形跡があります。
死ぬつもりはなかったけれども、死んでも構わないという精神状況ではなかったかと推測できます。
N1さんと電話をして改めてそれが裏付けられたように思います。
N1さんとN2さんはよく話をしていたそうです。
自然災害や事故などで誰かが亡くなったとき、「私が代わってもよかった」という気持ちになると語り合ったといいます。
ビルの屋上に上がったとき、一緒に飛び降りる気持ちになったこともあります。
その時はもう1人いたのでその人が止め役になりました。
死ぬつもりはなかったが、いつ死んでも構わないという気持ちは同じであったのです。

N1さんとN2さんには、その生育過程に共通性があります。
この日、N1さんが主に話したのはここです。
簡単に言えば、厳格な父親と過干渉的な母親のもとで育ったのです。
こういうとひどい家庭を思い浮かべるかもしれませんが、社会的にみればずいぶん違います。
そこにN1さんもN2さんも自分が理解されない理由が隠されているのです。
自分をしっかりと受け入れられなかった、認められなかった理由があります。
厳格な父親と聞けば違う想像をするかもしれませんが、一人の社会人としては普通です。
2人の父親を的確に言い表わす自信はありませんが、社会的には尊敬もされる人です。
N1さんの父親はある大手企業の幹部クラスの人と聞いています。
N2さんの父親も普通以上の社会人といえます。
母親が過干渉的と聞くと、何か否定的な雰囲気を感じてしまうかもしれませんが、周囲の人の印象はそうではありません。
しっかりと家庭を築いているお母さんです。
父を尊敬し、父には逆らわない母でした。
その母のめざす女性像に向かって育てられたのがN1さんとN2さんです。
その母の思いからはみ出すことは許されなかった。
そのつど自分の何かが少し削られ、少し曲げられた気持ちで過ごしてきたのです。
子ども時代にN1さんとN2さんは、この家庭状況をだれかに伝えてようとしてもうまく話せません。
娘である自分がその家庭でつらい思いをしていることなど本気にしてもらえないのです。
いい父親であり、いい母親である、と思われています。
その印象を子どもの力で覆すことはできません。
それどころが親の期待通りではない自分であり、申し訳ない気持ちも生まれてきます。

こうなるN1さんとN2さんタイプはゆたかな感性が関係すると思えます。
感覚として物事がよく見え、いろいろなことを感じやすいのではないでしょうか。
立派な父や母の元では自分を押し殺して生きてきたように思えます。
ほかの人であれば“わずかなこと”、“気にならないし・気にしないでやりすごせること”かもしれません。
しかし、感受性ゆたかな彼女らのうちには蓄積されていきます。
ある人は「父や母に絶対に口答えなんかできなかった」といいます。
私が出会った女性にはこのようなタイプは多く、典型的なひきこもりとは少し違う面があります。
対人恐怖感がある点はひきこもりとは共通し、女性型ひきこもりかもしれません。
摂食障害、不眠傾向、うつ状態のどれかを伴うことも女性の場合は顕著です。
20代以降になると、自分の生育歴を冷静に振り返られるようになります。
その時に感じる自分の過去は、大事にされてこなかった、尊重されてこなかったと思えることです。
私が彼女たちの話を聞けるようになったのは、こういう自己認識を言葉で表現できる20代の後半以降になってからです。
しかし、その状態から抜け出すことはなかなか容易ではありません。
自分の感性・感覚に根差した感情表現がすなおにできないのがネックになっているのかもしれません。
心の底からの笑いがでません。ときには空笑い、つくり笑いになります。
泣けません、いや泣きすぎてしまう人もいるように思います。
泣くという点では極端にどちらかになりやすいように思います。
怒りがあっても発散できず、自分の中に押し込んできたように思えます。
対人関係においてNO!を言えないのです。
「あなたはあなた・自分は自分」という意識ができても、それを言葉で相手に伝えられません。
相手を責めるのを避けたいし、自己否定感と相まって言葉が発せられないとみます。
相手に嫌われたくない気持ちが出てくるのです。
「いやっ!」と言えないばかりか、反対に「いいです」と答えることもあります。
この積み重ねは自分の感情を混乱させ、わからなくさせます。
相手に悪く思われたくない言動は対人関係では好意的にみられることもあります。
しかし、自分のなかでは大変です。処理しきれないものがたまりやすくなっています。
本音が話せない、本音で話せない、周りの雰囲気や相手に合わせてしまいます。
いろいろな感情のなかでいちばん強いといわれるのが愛情です。
感情抑制をつづけ配慮的な感情表現をつづけると感情の低下、さらに愛情欠乏になります。
求める愛情は強くなりますが得られる愛情を乏しく感じます。
このアンバランスのなかで愛情欲求が変形します。
私はそれが依存、依存的な振る舞いや心情になると考えるのです。
親しくできそうな出会いがあると、愛着感情が強く出やすいのですが、それは往々にして依存的です。
ある人は男性依存的になっていると自分の状態を話せる人もいました。
その人は自覚できるだけいいのかもしれません。
そういう両親から離れようとして一人暮らしや早ばやと結婚する人もいます。
そのこと自体は悪くはないでしょう。
結婚の場合はメンタルな問題を持ったままの主婦として、心の問題は継続していきます。
結婚後、甘えすぎることが多くて、上手くいかなかったと話した人もいます。
もちろん知る範囲でも、結婚を契機に自分なりの人生につくり直した人もいます。
人の通常の生育過程を通して考えれば、依存から愛情を感じ取り、依存を通して与える愛を覚え自立に向かいます。
依存の時期を通らないで自立する人などはいないのではないでしょうか。
こういう事情を感じて私は依存的な人に対しても受け入れから始めるつもりできました。
以上の事情がすべて当てはまる人はさすがに少ないと思いますが、部分的には当てはまる人はいるでしょう。
そういう人には感情の表出を意図的に心がけること(初めは不自然であっても)、話せる相手を見つけることをお勧めします。
ただ依存的になりやすいのは自覚していてほしいのです。
それも受け入れる相手はいます。
いつかどこかのタイミングで離れることになりますが、それでいいのです。
この点もいつか詳しく話したいのですが今回は適当ではないので省きます。

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