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子どものころ朝鮮戦争がありました

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子どものころ朝鮮戦争がありました、その牧歌的な記憶

投稿日時: 2014年8月13日  *10年前に書いたことです。

《戦争体験をいくつかの新聞が集めています。1945年生まれなのでその体験がありません。
ただ日本が直接に参戦していない朝鮮戦争の影響は地方により少しはあるかもしれません。これを投稿してみようと思いました。
10年前に書いたことがあります。断片的で不明なところも多いです。
メモ程度でもいいので追加してもらえるところを書いてください。時間があれば電話をするかもしれません。
あいまいな記憶ですが、地名に関係することの記憶が残っているようです。》
1945年8月5日生まれの私には戦争体験はありません。ただ朝鮮戦争の影がこんな形であります。子ども時代の記憶を紹介します。

丘の畑からは日本海が大きく広がって見えました。イモほりはまだ始まっていなかったで、9月の終わりか10月の初めだったと思います。
その年の夏は浜辺にある岩場にもぐってはじめてサザエを獲っています。
まだ深くもぐれなくて浅い岩場で探せるようになりました。計算するとぼくが小学3年生ときです。
「あれはなんだ?」と最初に気付いたのは2歳年長のトシちゃんだったと記憶しています。
いつもの遊び仲間数人が丘の畑から遠くの沖合を見ました。船とは違う大きな塊が左から右に(西から東に)流れているのが見えました。
少しずつ陸に近づいている感じなのです。
しばらく沖合を見ていたのですが、仲間と一緒に畑をくだり、浜に向かいました。
浜は2Kmにおよぶ細長い砂浜が延び、その途中に岩場が何か所かありました。西端に集落があります。
畑から下ったあたりまでは覚えているのですが、その後の記憶は途切れています。
沖合に見えた塊の動きはゆっくりしたもので…待ちくたびれて帰ったためではないかと……。

学校に行くとその話しが出たのですが、詳しいことを知る者はいません。
漁村になっている集落の家に戻ってしばらくすると近所がざわめいています。外に出ました。
自宅の裏がすぐに浜辺になっており、そこに大勢が集まっています。
ヘリコプターが平坦な砂浜に降りようとしているらしいのですが、数十メートルの高さのところで止まって降りられないでいます。
そこからはかなり離れているのですが、ヘリコプターは翼をビュンビュンと旋回させ、浜辺の砂が飛び散ってきます。
このまま降りたらけが人でも出るからでしょう。
誰かが「人が大勢いるから降りられないんだ。昨日は降りたのに…」と言っていました。
そこでまたぼくの記憶は途切れています。子どもらしい物見高い関心が少ないのかもしれません。

数日したある日の夜、2人のアメリカ兵が家に来ていました。
ぼくと弟の2人を目にして、父を相手に何か話したようなのです。兵士の1人は通訳かもしれません。
弟は小学校の1年生でした(記憶ではなく計算によります)。
兵士から何か話しかけられたあと、ぼくたち2人は何かをもらったように思いますが、何だったのかはすっかり忘れています。
父は、中学校のPTAの会長をしていたこともあるし、村会議員のこともありました。
この五十猛村は1956年秋に大田市に合併したのですが、当時は議員であったかもしれません。
父のところにアメリカ兵が来ていたのは、推測ですがこれらのことに関係するはずです。
沖合の海から近づいてきたのは鋼鉄製の大きな桟橋(*訂正)でした。日本海の対岸にある朝鮮から流れてきたのです。
朝鮮戦争の時にアメリカ軍が作り、何かの原因で流れ出したのです。
戦争が終わったのは1953年7月、桟橋流出はその年(*訂正)の秋のことで、ぼくが8歳のときです。
流れ着いた桟橋は夏に初めてサザエを採った岩場にぶつかり、そこに乗り上げた状態で止まりました。
冬になってすごい風が吹雪を撒き散らしている中を、その桟橋を見に行きました。強風の中で大きな波を受けてしぶきを飛ばしていた光景には圧倒されました。
赤さびた色をした桟橋の高さは2mもあって、想像を超える大きなものでした。
翌年の夏にこの岩場にもぐったとき様相は一変していました。桟橋は片付けられていました。
岩場はバッサリと削られて平坦になり、サザエの棲み家はなくなっていたのです。
岩魚もあまり見えません。桟橋がこの岩場にぶつかった結果です。

ぼくが小学生に入学したころは小学校と中学校は同じ敷地にあり廊下でつながっていました。
中学校に入学したときは別のところに新しくつくられていました。
畑が広がっていた所と近くの丘の部分を平坦な広い敷地にし、そこに建設されたのです。
父はこの中学校建設運動で中心的な役割をした1人だと思います。
あの桟橋は、結局この中学校の横につくられた講堂兼体育館になったのです。
父はこの発案に関わっていたと思います。体育館は中学校建設の延長だったのでしょう。
ぼくが中学校に入学したときにはこの体育館はすでにできていました。
桟橋は所有するアメリカ軍からもらい受けたのか、海岸〝破壊〟の損害賠償だったのか、ともかくこれは体育館建設の重要な財源になったことは確かです。
その後、大田市内の中学校は統合され、この中学校は五十猛小学校として使われています。
これがぼくの体験した朝鮮戦争の記憶です。なんとも牧歌的なのはやむをえません。

〔*9月の追加 ブログ「五十猛命」(五十猛歴史研究会)に、この文章をコメントとして投稿しました。
そうしたらいくつかの訂正個所が見つかりました。桟橋ではなく浮きドッグであったこと、1956年のことであったことが確認できました。
記憶とは3年もずれがあるのには驚きました。

◎父が「ジンセン」というのを何度か言ったのを覚えています。どういう場面であったかわかりません。
たぶん韓国の仁川であり、朝鮮戦争時の仁川上陸と関係すると思います。何かわかりますか?

◎関係はないですが、母が神戸のドイツ人神父の下で看護婦をしていたこと、田舎の家に「瀞八丁」と「バルパライソ沖」という絵が飾ってあり、ドイツ人神父の描いたもの(?)とか、神戸の森川という人と縁があること、断片的に覚えています。これらの事情が分かれば教えてください。

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