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子どもの連れ去り

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子どもの連れ去り

子どもはオブジェ~小さな大人でもなく、権利の主体でもなく
■「また子どもが後回しか」
僕はもう25年も子ども・若者への支援をしている。
不登校から始まり、ひきこもりに拡大し、やがて発達障害の問題が現れ、現在は虐待サバイバーや高校生出産の問題にまで関わっている。
今僕は56才なのだが、ちなみに20代は編集者だった。
今風に言うとミニ出版社を友人と「起業」し、なんとか食べていけるようにはなっていた。
そのミニ出版社は「社会派」だったので不登校問題もさかんに取材・執筆したが、そんな取材活動のなかで出会った子どもたちにインパクトを受け
(某フリースクールやボランティア活動のなかで出会った不登校の子どもたちの、
影のある佇まい、哲学風に言うと「サバルタン」そのものの沈黙)、「数年程度、支援の体験をしてみよう」と甘い気持ちで入った業界だった。
僕の20代の頃に「子どもの権利条約」を日本は批准し、その流れのなかで僕は「子どもの権利」について学んでいった。
世の中では、「登校拒否」の問題が顕在化しており、その言葉のもと「子どもの権利」が著しく侵害されていることから、それは「不登校」という言葉に改められた頃だった。
そうして支援者になったまま25年が過ぎてしまったが、これまでいつも思うのは、 「また子どもが後回しか」 ということだ。
たとえば不登校であれば親や学校の思いと利害、たとえば虐待であれば親がもつ「しつけ」という強固な価値、
そして「一時保護」下での子どもたちの過酷な日常、また離婚問題であれば「連れ去り」行為に表面化する子どもの意思の不在。
これらの問題のすべてに、子どもの意思は入っていない。
子どもの権利条約を批准して25年が経つというのに、その「権利」はまだまだ尊重されていない。
子どもはいつも「後回し」にされる。
■「連れ去り」か「置き去り」か
離婚問題での子どもの「連れ去り」については、たとえば3年前にあった控訴審に関するこんな記事がある
(親権裁判、逆転敗訴の父「私が先に連れ去れば良かったのか」苦悩語る、母側は安堵の声)。
この記事の一節に以下のような下りがある。
また、母側代理人の萩原得誉弁護士は、父親側が主張する、「連れ去り」について、育児はほぼ母親が行なっていたことから、置いていけば「置き去り」になる、と母親の思いを代弁した。
出典:親権裁判、逆転敗訴の父「私が先に連れ去れば良かったのか」苦悩語る、母側は安堵の声
ここで言及される、「連れ去り」とは一方の親(多くは母)が子を引き連れて家を出ることであり、
今年になっても連れ去られた親たちが訴訟を起こすなど大きな社会問題として注目されている(夫婦の別居で「子の連れ去りが横行」「国は規制を怠った」当事者が集団提訴)。
その連れ去りを問題視された母側は、これは連れ去りではなく「置き去り」を忌避した結果の行為だと説明する。
事実上、育児のほとんどを母である自分が行なっていたことから、夫婦関係の悪化から自分一人が家を出たのでは、この子の生活が心配だ。
そうした置き去り状態を避けるため、いっしょに家を出るしかなかったという弁明なのだろう。
だが注意してほしいのは、「連れ去り」だろうが「置き去り」だろうが、これらの行為の主体・主語subject は母親/親だということだ。
この場合の子どもは、いわば「目的語」であり(あの「SVO」ですね)、決して主語ではないということだ。
目的語は「対象」ということであり、英語ではオブジェクトobject、フランス語ではオブジェobjet、となる。
■「小さな大人」でもなく「権利の主体」でもなく
P.アリエスが『子どもの誕生』(〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活)で示したように、
産業革命まで「子ども」は存在せず、それは労働力としての「小さな大人」だった。
産業革命後、近代社会が到来し、「権利」=「人権」概念が生まれ、小さな人は「子ども」としてあらたに捉えられ、
その権利が尊重されるべきであるという思想が生まれ、現在に至るまでその確立が模索されている。
その象徴が「子どもの権利条約」なのだと思う(子どもの権利条約)。
だから僕は若い頃、その条約の歴史と思想に惹かれて取材したり執筆したりした。
すでに絶版になってしまったが『子どもが決める時代』という単行本を編集したりもした。
「小さな大人」を超え、やっと獲得したあり方が「子ども」であり、「子どもの権利」なのだと若い頃は信じていた。
が、25年に渡る支援者の時間がすぎ、どうやらこの国は、子どもと現在呼ばれる人間のあり方は、近代的「権利の主体」でもなく、
アンシャンレジーム的「小さな大人」でもなく、それ以前か価値のオーダーが異なるのかはわからないものの、まったく別の意味として存在しているのだと結論づけた。
それが、オブジェ、だということだ。
美術館にある多くのオブジェたちと同じように、大人サイドにとってその小さな人たち(現在「子ども」と呼ばれる人々)は、
連れ去ったり置き去りにしたりできる、ひとつの対象物なのだ。
また、学校という「規律権力」施設(M.フーコー)に閉じ込めておく存在であり、「一時保護」という名の自由を奪う施設に閉じ込めていてもいい存在だ
(【ルポ】子どもたちが「神かくし」状態になっている一時保護の実態)。
なによりも、その小さな人の意思に関係なく、大人の思い(「この子がかわいそう」
「継続する監護権をもつ親が有利」等)によって日常が左右されてしまう、その声が圧殺されても問題のない存在だ。
つまりそれはやはり、 「サバルタン」(G.C.スピヴァク) ということになる。
田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表
〔2020年3/20(金)田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表〕

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