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孤立結構、分断おおいに結構

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孤立結構、分断おおいに結構

(会報「ひきこもり居場所だより」2023年6月号)
3月末の内閣府「こども・若者の意識と生活に関する調査」によれば全国のひきこもりは推計146万人。この数字をあなたはどう捉えますか?
「多すぎる。これ以上手をこまねいているわけにはいかない。早急に対策を取るべきだ」とか「これまで潜在的に存在していたものが浮き彫りになってきただけで、しかもこれでも氷山の一角にすぎないだろう」とかいったいろいろな見方があるでしょう。
ここで私の率直な意見を述べさせてもらうと、「あまりにも少なすぎる」。一応ことわっておきますが、数字が信用できない、実際にはもっと多いはずだということを言いたいわけではありません。単純に少なすぎてがっかりしているのです。
この件を取り上げようと思ったのは5月23日の読売新聞の社説を読んだのがきっかけになっています。見出しには「本人や家族を孤立させぬよう」とあります。文章をざっと読むと、「ひきこもりは自己責任で片付けられがちだが、社会的損失は大きい。外部との接触に慣れてもらうには地域の居場所づくりが重要である。国や自治体、民間が協力して社会復帰へのきっかけづくりに取り組んでほしい」というようなことが書かれていました。
そして、先日の雲で行われた親の会でも比較的高齢のひきこもりをいかに孤立させないようにするかということが話題に上りました。ひきこもり問題を語る際にはどうも「孤立」という言葉がキーワードになることが多いようです。孤立を防ぐことこそが肝要である、と言われれば実際もっともなことではあるので私はあえてそれを否定することもないかと思い黙ってきました。ですが今回あえて本音をぶちまけたいと思います。
私はもっともっと孤立する人が増えてほしい。ひきこもりの人数は今の10倍くらいに増えてほしい。この数字ではまだまだ社会を変える原動力足り得ない。

いったん話は変わりますが、最近ニュースを見ているとよく見かけるワードに「分断」というものもあります。私がこの言葉を意識し始めたのは2020年の大統領選挙の報道を目にしてからです。「トランプ氏の過激な言動がアメリカ国民の対立を煽り、社会を分断している」というような論調で語られることが多かったと記憶しています。
私が思うに社会の分断は潜在的なものとして既にアメリカ国内にはびこっていて、トランプ氏はそれを顕在化させることで社会に不満を持っていた人たちの支持を集めたに過ぎず、彼が表れなくともいずれ別の形で社会の分断が明らかになっていたのではないかと思っています。
まあそれは話の本筋ではないので置いておくとして、メディアではそのようにしてトランプ氏を叩くための武器として社会の「分断」という言葉を使っていたように思われます。日本においても社会の「分断」という言葉は決して好ましいものではない、むしろ現代社会の深刻な問題として取り上げられることが多いようです。

そしてもうひとつ、最近ニュースでよく見かけるワードといえば「多様性」でしょう。特にLGBT・性的マイノリティーについて語られる際に頻出する単語です。私はこの言葉を金科玉条のように掲げる人が反吐が出るほど大嫌いです。この言葉を掲げる人たちには寛容さが欠如しているからです。「多様性」という言葉を掲げるのならLGBTを認めないとかちょっと怖いとかいう人に対する寛容さを持っていて然るべきです。
「残念だけど、まあそういう人もいるだろうし、いていいよね」というのが本来あるべき姿であると思います。自分と違う意見を認めるその寛容さこそ最も大切なものなのに、「LGBTの権利は認められなければならない!認めないのは差別だ!」とレッテルを貼って異論を封殺するというのは「多様性」とは目指すものが逆になってしまっています。
それは全体主義・ファシズムでしかありません。
それではLGBTを認めるかどうかのベクトルが逆を向いただけで中国のような言論の自由のない社会と何ら変わらないでしょう。私は皆が生きやすい社会になってほしいと願っているし、そのために微力ながら貢献できたら良いなと思っています。でも彼らは私の目指すところとは対局の位置にいるじゃないですか。理解をしてもらうためには対話を続ける根気強さと長い時間が必要であるのに、これでは理解を深めるどころか敵を増やすだけのことです。私は敵を作るだけの思想に与する気はありません。
一方LGBT当事者については特に肯定も否定もしません。なんというか、その人の社会的な属性ってそんなに大事なことなんでしょうか? 健常者か障害者か、会社員か無職か、若者か年寄か、日本人か外国人か、男か女かはたまたそれ以外か、そんな属性が何になるんです? 私が相手を認めるかどうかは自分の目でその人を見て判断すれば良いことです。
実際には個人の心情の問題とは別に実社会におけるルールをどうするかという問題もありますが、それは利害関係にある人同士でよく話し合ってくれれば良いかなと。

「孤立」「分断」「多様性」、これら3つの言葉は私の中ではそれぞれに繋がっています。孤立結構、分断おおいに結構。乱暴に言ってしまえば人びとの間に無数の「分断」を生じさせることでそれぞれを「孤立」化させていくのが私の考える「多様性」のある社会の姿です。
どうも世間では話者に都合の良い現象は「多様性」という言葉を使って肯定し、都合の悪いことは「分断」という言葉を使って否定することが多いようですが、私にはそれらは表裏一体のものとして映ります。それぞれの個を認め合い、真に「多様性」のある社会を目指していくということは同時に同じだけの「分断」を生み出していくのです。
今はその過渡期であるために社会が真っ二つに割れたような状態になっているに過ぎません。これをみっつ、よっつ、もっともっと「分断」していきましょう。そうして分かれていけばそれらの言葉の持つ意味それ自体が変質することになるでしょう。
「孤立」という言葉の意味するところは現状では「絶望」と従兄弟分の関係にありますが、それが当たり前になってくれば何のことはない日常の状態に過ぎなくなります。そして人は人と繋がらなければならない、それができない人間は社会不適合者であるという強迫観念から解放されます。そういった制約が取っ払われれば普通に表を歩けるようになる人はたくさんいると思います。

もちろん一人ひとりがそれぞれに好き勝手していては社会は成り立たないわけですが、要するに私の求めるものは個を認め合いながらも結ばれる緩やかな連帯なのです。
強固な連帯というのは表面的には上手くいっているように見えても、実際にはそれを維持するために所属する一人ひとりに大きな労力を要求します。
負担に耐えかねた人はそこから大きく弾かれてしまいます。それをひきこもりといいます。
また、そこまでには至らずとも歯を食いしばって弾かれまいと耐えている人たちもいます。
でもそろそろその負担が大きすぎることに皆が気付いても良い頃ではないかと思っているのですが、ひきこもり146万人という現状ではまだその日は遠いようです。

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