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宗教性は本能に基づく道徳律ではないか

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宗教性は本能に基づく道徳律ではないか

「言語に規則があるのは、人間が規則的に言語を作ったためではなく、言語が自然法則に従っているためだと私は考える」。
酒井邦嘉さんは控え目に、しかし、しりぞく気配を全く見せないで主張します(はじめに)。
さらに「言語獲得は、発生と同じような遺伝的プログラムによって決定されることのなる」(304p)といいます。
『言語の脳科学—脳はどのようにことばを生みだすか』(中央新書2002)。
私はこのような確信はありませんが、人間のもつ正義感・倫理観は人間のもつ生命維持という本能の自然法則に従っていると考えたいです。
言語の方は、自然法則に従うのはわかるけれども、人間の正義感・倫理観はそうではないという意見が聞こえてきそうです。
確かにいろいろな攪乱(かくらん)要因にあって、人間の倫理観は弱められ、ゆがめられ、ついには互いの倫理観が衝突し合う場合によく出合います。
そういう事情は確かにありますので、それが自然法則に従うとは言えない、というのも一理あると考えます。
しかし、相反するそれぞれの人には固有の倫理観はあります。
それは生命の維持、人類の存続にかかわって不可避的に生まれるもの、そこが基点です。
その上で、自分本人、家族や親族、地域的結びつきや互いの親しさに応じて、すなわち自分からの距離に応じて、この自然法則である倫理観は少しずつ姿かたちを違えて表わす、というのが私の見解です。
そのために宗教間の衝突や国家間の戦争が起きるのです。
私の考えがよく表われるのは小さな子どもです。何の悪意もありませんが、自己保存には強い表現をし、しかも対立的(利害がぶつかること)にならない周りの子どもに対しては友好的になります。
これはごく自然に発生しているものであって、決して高い倫理観によるものとは思いません。
私が展開するのはここからです。
人間の倫理観は、生命維持という本能に基づくものであり、それは社会単位においては宗教性として表われるのです。
ここで宗教が表われるのはとんでもない?――いや宗教ではなく宗教性です。
日本人の宗教性は、どうも世界的に見ても特別のようです。
たしかに熱心に宗教教団に属して宗教に篤い人もいます。
しかし、大多数(?)の日本人の宗教心は薄いといわれています。
いやそうではなく心の奥に神道の精神があるとか、自然教であるとか主張されていますが、案外それらの論拠は十分ではありません。
少なくとも諸外国との対比では十分に説明していないと思うのです。
新渡戸稲造さんがそれに代わり『武士道』(1899年)で日本人の道徳律の基準を著わしました。
別にその本がなくても、日本人には宗教性、いや自然にもつ倫理観がありました。
私はその倫理観、正義感を生み出しているものが、人間の、日本人が自然法則によって発揮している倫理観であり、道徳律だと思うのです。
酒井邦嘉さんとは違い、私はどこかでこの主張を撤退してもいいとは思うわけですが、
日本人の宗教性を考える上で、思想性、イデオロギー色の平坦さを表わしやすいところがあると考えているのです。

日本には一神教であるキリスト教やイスラムは広がっていません。
普及活動がうまくなかった(?)、その内実は知りませんが布教者が特に不熱心だったわけではないでしょう。
要するに一神教タイプは日本人の国民性とうまく合わなかったのだと思います。
日本人は、伝統社会に自然に生まれた精神性を、やがて神道と称される「宗教」の中におきました。
それは自然の教えとしての受け入れであり、儀式や社会的習俗の形に収めました。その信仰心ははなはだあやしいものです(?)。
古代に外国から仏教が入りましたが、結局一人の中に異なる宗教が両立してしまいました。
クリスマスを祝う(?)ほどであって、その宗教心は諸外国のモノとは違います。
両立というよりも国民のなかではそれぞれの主張を譲り合わせているのです。その譲り方が日本的です。
仏教には一神教的な絶対的存在はないので、これまでの八百万(やおよろず)の神の一つに加えられました。溶け合ったといっていいでしょう。
歴史のなかでは、独自の宗教哲学的な精神文化を生まれはしましたが、現在に至るまで日常的な日本人の精神生活に仏教が支配的な役割をもったことはありません。
ましてキリスト教やイスラムが日本人の精神生活に重大な要素となっているとはいえないでしょう。
日本人が自然法則にしたがって信仰心を表現している、すなわち無意識の自然教であるというのは、これである程度は説明したことにはならないでしょうか。
他方、日本人は科学Scienceを比較的すんなりと受け入れてきました。
ダーウィンの進化論は19世紀のヨーロッパのキリスト教世界に、大きな波紋を広げ、受け入れに抵抗を受けました。
いや現在でもアメリカのいくつかの州では学校教育においてダーウィン進化論を教えてはならないことになっています。
このような宗教心―私に言わせれば特定宗教集団による利敵行為―に日本で科学の導入がじゃまをされたことはないでしょう(例外はあるはずですが)。
実は科学scienceは、一神教が見つけ出したものです。
神God、創造主the Creatorは、この世界をどのようにつくったのかという探求が、科学へのスタートだからです。
これはまた別の話なのでここまでにしましょう。
そして、このような日本人の宗教性が、日本人の心情、日本人のものの考え方、受けとめ方、表現のしかた、それらが関わっていることもひきこもりを考える材料になります。
このペーパーは、いわばこれら宗教性と日本人の心の持ち方の「まえがき」にあたります。
(2022年2月)

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