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家族・家屋の変化と世代間のギャップ

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家族・家屋の変化と世代間のギャップ

ひきこもりの社会的・歴史的な基盤 (試論の素描 4)

社会経済の面、特に就労環境の変化からひきこもりの要因を推測する章は、難しいというよりも関心が持てない人も多いようです。これから述べる家族関係なら少しは身近なものに感じられるのかもしれません。自分の過ごした家族の記憶があるので、家族にもいろいろというのはともかく、歴史があって変化してきたといわれてもピンとこない向きもあるでしょう。自分の家族がどのような特色をもつのか、現在の日本の家族関係は重大な曲がり角にあるとはいったい何なのか。今回はそのあたりです。

ひきこもり経験者から相談などで話すと家族に関係することは多いです。いやな体験、悩み、難しさ、不満など家族・家庭に関することです。『ひきこもり国語辞典』のなかにもかなり高い割合で見られます。
立場は違いますが親の相談などにも家庭内の問題はあります。ただ「これでよかったとは思はないですが…」「どうすればいいのでしょうか…」などの反省や戸惑いの気持ちが多いのが特徴です。こうした相談をしてくる親の大半は、一生懸命であり誠実であることです。そうではなくひきこもったのは子どもの事情であり、親や家族が出る幕ではないとする子どもの独立性を肯定しているように見える人もいます。親が相談する問題ではなくあくまでも子どもの問題とするのですが、自分を含む家族・家庭にも関係するし、こちらにより深い原因がある場合もあります。『ひきこもり国語辞典』の中にある子ども側から挙げられた例です。

〇鬼門:「うまくいかない場所、苦手なことを鬼門といいます。私にとって疫病神がやってくるところが家族です。その意味で家族が鬼門です」
〇知的な親:「親が妙に賢いと理屈でものを言います。筋は通っているので受け入れます。しかし、その理屈に流されていくと自分を失います。子どもの感覚や気持ちを受けとめて、理屈で「ノー」のところも見てほしいです。子どもは理屈で育てるよりも愛情をもって受け止めてほしいのです」

これはひきこもり経験者の言葉ですが、ここに見えにくい家族の問題が潜んでいるように思えるのです。それは「建前」に基づき、子どもが社会に生きるための「期待」を表わすものでしょう。それをたどっていくと、親側が理解している世間像とか、そこにどのように入るのかコースが見えてきます。そこから外れないように、そのコースにうまく乗れるように「建前」や「期待」が子どもに向けられるのです。
ここに親子間・家族間のズレ、文化的なギャップが含まれていると思うのです。私も親世代の1人ですから、曲がりなりにも(相当におかしいといわれますが)親世代の感じはわかるつもりです。典型的な家父長的な家族関係を基準とする人はもはや例外的にしか見当たりません。しかしその残像と言える現実はあります。そのあたりをかつての人はどのように説明していたのかを見ていきましょう。

和辻哲郎さんの有名な『風土』(岩波文庫、1935)は自然条件が人びとの家族関係や精神文化に影響すると考えていたようです。自然との関係から精神生活を見るといっても、地球物理学などの自然科学の視点ではなく、あえて言えば自然地理学の範囲の気象学、あるいは生物の植生に関係する人文地理学に近いと思えます。自然観察の事実を積み上げて論理を広げるものではなく、1979年発行本の解説で井上光貞さんは「天才的な詩人的直観による」と書いています。
『風土』では、人間存在の構想契機として、人々が住む風土をモンスーン、砂漠、牧場の3類型を上げます。和辻さんは日本をモンスーン型風土とします。そして「家族的な生活の共同に最も強く重心を置いたのは、モンスーン的な家族である」(169p)と、気候的な環境条件から日本的な家族が生まれていると指摘したうえで、その特徴を、次のように描きます。
《「家」は家族の全体性を示す。…現在の家族はこの歴史的な「家」を担っているのであり、従って過去未来にわたる「家」の全体性に責任を負わねばならぬ。「家名」は家長をも犠牲にし得る。だから家に属する人は、親子・夫婦であるのみならず祖先に対する後裔(こうえい)であり後裔に対する祖先である。家族の全体性が個々の成員よりも先であることは、この「家」において最も明白に示されている。》(170p)
家父長的とされる家族制度が子どもなど家族の成員にとって大きな束縛になっていますが、その家長もまた家名に束縛されるのです。そうでなければ世間(家の外の社会)の中で生存し続けがたい条件があったと読み取れます。
《親のために、また家名のために、人はその一生を犠牲にする。しかもその犠牲は当人にとって人生の最も高い意義として感ぜられていた…。「家名」のために勇敢であった武士たちは皆そうであった。家の全体性は常に個人よりも重いのである。
…しかし資本主義を取り入れた日本人は「家」において個人を見ず、個人の集合において家を見るようになったであろうか。我々はしかりとは答えることができぬ。》(171-173p) 家族の一個人ではなく家族全体で自然と世間(社会)に対して立ち向かっていた。その意味で家族の全体性が優先し、そこに属する個人の存在は後回しになった。今日から見れば不条理な理解も悲劇もあります。私はそこに時代的な制約をもちながら日本人が生きながらえるために家族をこのように整え、闘いに備えたと感じるのです。
このような伝統的な、ある時期には家父長制とされる家制度の下での精神性を新渡戸稲造『武士道』(1899)や、山本周五郎(1903-1967)の時代小説・大衆小説にも見ることができます。そこに表われる家族は理想化され美化されていることは確かでしょう。それは歴史的な条件がないなかでの出来事です。和辻さんは資本主義を取り入れた日本(1935年の著作で、高度経済成長期のかなり前の作品)にもそれは継続しているというのです。
このような家族の考え方は個人的な特色を持ちながらも、特に親世代にはいろいろな形で続いています。それが新しく生まれた子ども世代とのすれ違いや衝突を引き起こすことになります。いわば旧家族像の残像と新しく生まれた個人を生かす家族像との違いです。

和辻さんのいう日本の家族や家制度は、いつごろできたのでしょうか。西谷正浩『中世は核家族だったのか』(吉川弘文館、2021)が貴重な発表をしています。鎌倉時代以降の中世は、日本社会の大転換期であり、農業という経済社会の確立とそれに相当する家族関係が成立したというのです。20世紀後半の高度経済成長をはさむ現在がそれに続く大転換期であるという点を理解したうえで見てください。
次の要約が西谷さんの中世以来日本の総括的な家族像と認められます。
「中世民衆の家族構造は、単婚の核家族で、分割相続を基本とした。結婚した若い夫婦は、親の援助をえやすい出身家族の近隣に住むことが多い。中世前期の民衆家族は、核家族世帯と、核家族世帯を統合した親族組織からなる、二重構造を形成していた。後者の拡大された家族は、①それが存在しない単独世帯のみの状態から、②区画溝をもたない屋敷地に二、三世帯が居住する地点をへて、③明確に区画された屋敷地に複数の核家族が屋敷地共住集団を形作る段階までに位置づけられる。おおよそ、①と②が小百姓層、③が名主層にあたる」(104p)。 そして「名主層の者は、屋敷内に親類・下人を住まわせ、妻子・眷属(けんぞく)をひきいて農事にあたったという。屋敷内に住む親類・下人は、脇在家ともよばれた。逃亡家族のなかには、脇在家として名主屋敷内に同居し、恩人である名主家の経営を支えるものもいたに違いない」(64p)とあります。
庶民である小百姓の多くは核家族ですが、名主屋敷内など居住地が互いに近く、核家族の複合型ではないかと私には理解できます。西谷さんはこれを屋敷地共住集団、親族的な協同組織を形成していたと見ます(90p)。分割相続の過程はかなり平等ですが、この親族的な協同組織から本家や分家の関係が生まれると予測できます。この基本部分は昭和の前半にも通用すると思われます。


しかし、このような複数家族を含む大家族は変革を迫られました。その家制度を空間的・物理的に変更させたのは1960年代の高度経済成長期です。それに先行して1945年の帝国日本の敗北による西欧民主主義制度の導入によってある程度は助走を始めていました。そこに高度経済成長が導入されたのです。
家族の状態に対して何が降りかかってきたのでしょうか。第1章の日本の経済社会の変動で述べた事情です。高度経済成長期には、若者を中心とする工業地域(主に都市)への人口移動がありました。その直接の結果は家族の分離です。父母世代は田舎に残り、子ども世代の多くが工業地域に移りました。盆と正月の数日に家族がそろう状態です。これは多少の変化がありますが、今も続く状態です。しかし、都市に移動した人びとの定住と田舎に残された親世代の減少と高齢化の結果、都市と農山村の差は歴史上かつてないほどのレベルに広がりました。
都市に働きに出た子どもは田舎に帰らずに、都市地域で結婚しそこで新たな家族を築きます(私の家族は全員が田舎を離れ、時間とともに各地に散らばりました)。家父長的な大家族の解体が進みました。見合い結婚は少なくなり、個人の自由意思による恋愛結婚が普通の状態になりました。これらは個人が、特に女性が独立した社会的な存在に進む基盤としては進歩の面があります。家族内によく表われた嫁姑問題という衝突トラブルの機会は少なくなりました。この動きは個人の自由意思を優先した婚姻関係・家族関係になると、肯定的にみられてきました。多世代型の大家族制(核家族の複合型ですがいくぶんは変化していたはずです)は減少してきました。

そうはいってもこのような家族関係が、家族に対する考え方や期待するものがすぐに変わるわけではありません。ひきこもり経験者のなかにはいろいろな事例があります。いくつか見ればうかがい知ることができるでしょう。

〇押し付け:「母の躾は細かくて完璧でした。話し方、座り方、食べるとき、衣服の選び方から着方などなど、私のやり方が少しでも気になると注意し、変えられました。過干渉だと思います。ときには身を削られる思いがしたこともあります。躾が丁寧すぎてお躾(押しつけ)だったのです」
〇父親:「社会の掟、約束事、世間体を示す原理主義者になりやすい立場の人。家族内の独裁者。家ではいろいろと弱点を示すけれども、外面がよく、周りに対してはいい親をしたがります。その落差は驚くほどですが、当人はそれに気づいておらず一個の統一体を続けられる不思議な存在です」

こういう親子間の経験を重ねる中で、次のような極端な状態もあります。
〇断絶:「生まれてからずっと同じ家に住んでいます。アイツ(父)も同じ家にいます。顔はあわせないようにしていますが、ときには顔を合わせます。声を掛け合うことがなくもう二〇年以上になります。父と子なのに、けんかや衝突を超えた冷たい断絶です。このままではよくないのですが、自分からは譲れません」 〇毒母:「子どものころは味方で、大人になると敵だと思うようになった存在が母です。自分の不自由さや苦しさは母との関係にあると分かりました。占い師から「家の中に敵がいますね」と言われて、納得しました」

『ひきこもり国語辞典』のなかには親子関係など家族に関係することは実にいろいろ出てきます。その中には親世代と子ども世代の社会の様子が違うことによる点が多いと思います。経験のなかにはハラスメントや虐待に近いこともあると思いますが、多くは世代の違いによる受けとめ方や理解の仕方の違い、何を大事にしていくのかの違いによるものです。

西谷正浩・前掲書『中世は核家族だったのか』が述べた中には家屋(住居)に関することがあります。中世に「農業における小農経営が成立した。日本農業の転換期であった」(5p)、これに照応したのが中世における新しい家族システムの核家族です。しかし素人の私が読む限りにおいて、それは核家族がいくつか集合している家(いえ)という複合体のように思えます。それは家屋の状況が関係するのです。
「家(いえ)を生み出した中世は、おそらく日本史上最大の家族の変貌を経験した時代であった。そして現在もまた、中世に匹敵する家族の転換期を迎えている」(2p)と指摘し、「規範的な家族のかたちが家から核家族に転じ、さらに核家族から次のステージに移りつつあるのだ。ただし、将来、近現代的な家族制度に代わる家族像がどうなるのか、オルタナティブはまだ見つかっていない」(1p)というのは紹介しています。
西谷さんは、中世に核家族が誕生したと主張し、書名にもそこを採用しました。その点は間違いないと思えるのですが、上の記述を見ると家(いえ)の役割、住居条件も見ています。目を向けるもう1点は住居(家屋)です。
西谷さんのこの著作を通してそれを表現するなら、中世に生まれた核家族は、家という中に含まれる共同的な核家族、しばしば大きな屋敷内の同居する核家族体、核家族の集合体といえるのではないかと思います。それが20世紀後半以降の今日から振り返るとは家父長制的な家制度の基盤になったと思えるのです。

住宅条件も和辻さんの『風土』で取り上げます。「人間の間柄としての家の構造はそのまま家屋としての家の構造に反映している」(173p)といいます。
《「家」はその内部において「隔てなき結合」を表現する。どの部屋も隔ての意志の表現としての錠前や締りによって他から区別せらるることがない。すなわち個々の部屋の区別は消滅している。たとい襖(ふすま)や障子(しょうじ)で仕切られているとしても、それはただ相互の信頼において仕切られるのみであって、それをあけることを拒む意志は現わされてはおらぬ。だから隔てなき結合においてしかも仕切りを必要とすることが他方では隔てなき結合の含んでいる激情性を現わしているのである。》(173-174p)
この日本的な家屋の特殊性をヨーロッパの住宅と比較し別の面を見ます。
《ヨーロッパの家の内部は個々独立の部屋に仕切られ、その間は厚い壁と頑丈な戸によって隔てられている。…これは原理的に言って個々相隔てる構造といわねばならぬ。(174p)…日本人は外形的にはヨーロッパの生活を学んだかも知れない。しかし、家に規定せられて個人主義的・社交的なる公共生活を営み得ない点において、ほとんど全くヨーロッパ化していないと言ってよいのである。》(175)

高度経済成長期における急激な都市への人口移動は、新たに都市住民になる人たちの住居条件をかなり変えました。特に団地・アパート・マンションという集合住宅においてはかつての日本家屋の構造は維持できなくなっています。それでも固定的な壁ではなく襖や障子が取り入れられて作られる住宅も残るし、戸建て住宅においてはその割合はより多いと思われます。それでも時とともに(それはおそらくそこに住み人の意識の変化によって)徐々に固定的な壁とドアと各部屋に鍵のある家が多くなったと思います。

私は過去20年間に70人ほどのひきこもりとそれに準じる人、その家族の自宅訪問をしてきました。家屋の状況を調べる意図はなかったので、その点の記憶は明瞭ではありませんが若干の感想を入れましょう。訪問先は古くからの住宅街も新興開発地域の住宅もあります。一戸建て住宅、集合住宅(アパート、マンション、団地)などです。 襖や障子で自分の部屋が仕切られていた場合もありますが、ドアで仕切られていることもありました。部屋の区切りにはドアはあっても鍵がない場合は多かったと思います。自分で自室の鍵を取り付けた人もいました。同じ日本家屋の状況とは言え、年月とともに徐々に各部屋の独立性は高くなっている印象を受けます。それでも自宅と自室との境界は画然としていないことが多く、家の内と外との区別ほど明瞭ではないでしょう。
自分の部屋が独立していない状況が『ひきこもり国語辞典』にも表われています。
〇居間:「家族の誰もが集まるこの部屋から排除されるか自分が占領するかによって家族内の自分の地位が決まります。自室は自分の物置部屋にして、居間を寝室代わりにしています」
〇空っぽ「自室でパソコンを使っていました。家族から呼ばれた気はしたのですが、よく聞き取れなかったので無視して好きなことを続けていました。突然にドアが開いて、わけの分からないことでしかられ続けました。関係ないだろうと頭にきたんですが、言い返す間はありません。怒りがわいたのですが終わりにはそれも消えて、怒りで頭が空っぽです」

それでも自室の独立性が徐々に高くなっている変化は確認できそうです。ビル型の住宅の増大、冷暖房機や空気清浄機の普及などと相まって、個人の独立性の意識が徐々に高まっている背景が関係しているはずです。
この2つの要素はたぶん並行していますが、若い世代からの独立意識が先行し、それに伴って住環境における個室の独立性がひきずられるように高まったものと推測します。

もう一度『ひきこもり国語辞典』からいくつかを紹介しましょう。
〇要塞「自室には誰も入れません。数年前に母の掃除を拒否してからは、家族も入らなくなりました。入り口付近に物を重ねて入りにくくした自室は家庭内のできた要塞です。ここが静かに落ち着ける場です」。
〇万年床「家にいて申し訳ないほど何もしていないと、床や畳よりも布団の上がよくなります。家での自分の居場所は布団の上だけが定位置です。うっかり布団をたたむと自分の居場所がなくなる気分に襲われます」
これらはこの家屋状態ならではの気分やアクシデントではないでしょうか。住宅環境はこのほかにもいろいろな形で家族関係に表われているのです。

和辻さんのいう日本家屋の状況が「日本人の配慮的な性格」を生み出す根拠に挙げた論文があるので、それに引き継いでみていきます。近藤章久「日本文化の配慮的性格と神経質」(医学書院『精神医学』1964年2月所収)です。私が持つのは小川捷之・編集・解説『対人恐怖』(「現代のエスプリ」1978年2月発行)に転載されたものです。私は日本人の精神性を感受性の色合いの強いと表現しますが、この配慮的な性格とは矛盾はしていないものと考えます。
近藤論文は和辻さんの意見を受け取って、精神医学の立場から日本人の精神生活が配慮的性格を持つ点を詳しく述べたものです。私の理解で、近藤論文から「日本人の配慮的な性格」を生み出す日本家屋の状態を2点に挙げておきます。
(1)家のうちにおいて、各部屋は板戸、フスマ、障子で仕切られるが独立性を喪失している(89p)。家族間では言語的な表現ではなく、物音や動作・動きなど非言語的な表現が多くなる。暗黙のうちに互いの気分や気持ちを了解する感受性を発達させる。沈黙や静寂もまた気分や気持ちを象徴する。心理的な距離を取ることを困難にし、知的発達にとっては必ずしも良い条件とは言えない。ありかたは感情的、情緒的を主とする。 (2)ことば(日本人の生活語)は言語的なコミュニケーションよりも精神状況を把握する了解的な方法を持つ。親と子の間では、「子供に対する配慮・保護は、親の自我にとって必要であり、欲求せられる」。こうして近藤さんは「日本の家のうちの相互依存的共生的な配慮的精神状況が、これを可能にする地盤であると思われる」(102p)といいます。これが家屋と人の精神状況の関係を示す要点になっていると思えます。

結論として確かなことは、日本の家屋の状況がひきこもりの生まれやすい住宅の環境条件にあると肯定的に評価できます。ただし、この日本家屋の状況がひきこもった人とそうでない人の区別をする証拠とするには不十分です。 非言語的な表現の意味するところ、また日本語の特徴と影響についてはまた別項目にひきついで見ることにします。


災害の多い日本の国土に即した、「災害国土論」(?)とでもいうべきものをインターネット上で見たことがあります。毎年日本の各地が台風・強風、洪水、土砂崩れ、地震、火山爆発などに襲われます。それへの対応をしてきた積年の防衛や対処が日本人の生活や精神文化を生み出したというものです。

砂漠地域における家族を「自然への対抗が最も顕著に現われているのはその生産の様式である。すなわち沙漠における遊牧です。人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るのである。かかる自然への対抗は直ちに他の人間世界への対抗と結びつく。自然との戦いの反面は人間との戦いである」…この戦闘的生活様式が家族に特性を与え、「形式から言えば部族の共同社会は同一の祖先から出た血族であるとのイデーによって結合している。…部族の全体性が個別的なる生を初めて可能にする。…沙漠的人間は、かくして社会的・歴史的なる特殊性格を形成する」(64-66p)。
和辻さんは砂漠におけるこの “血縁的な” 戦闘的部族の家族構成の具体的な記述はしていません。おおよそ前近代的な集団的な大家族集団としておきます。21世紀に入り“アラブの春”という政治的変動が生まれたのはこの産業と家族関係の変化によるでしょう。それでも旧来の家族関係はこの地域に根強く続いています。

このような家族とその居住形態は、一般には中世の経済的な基盤である農業が成立したことを前提にしています。「農地にできる土地を開発しつくし、安定した耕地で集約農業を営む段階を迎える。その時期は、近畿地方で13世紀後半から14世紀ごろ、東国や九州ではおよそ1世紀遅れて14世紀後半から15世紀ごろとされている。つまり、日本列島の社会は、およそ室町時代に江戸時代に通じるような農業環境を手に入れたことになる」(47p)。

室町時代のこの農業=経済的基盤の状況が、日本の中世の大変革期の根底にあります。その政治的・軍事的変動の嵐が峠を越えた江戸時代に封建的な身分制度が固まります。家族関係における戸主の権限の拡大、家父長制の成長と強化が進んだと思えます。鎌倉時代から室町時代までは例えば女性の役割と地位、家族内の兄弟間も平等とは言えないまでも柔軟な関係であったと思わせます。むしろ明治期になって、江戸時代の家父長制の固定化が進んだとさえ推測しますがどうでしょうか。

◎日本中世の大変化を農業の確立という経済社会関係の基本的な変化によるだけではなく、西谷さんは家族形態における大変化を加えてみています。これはエンゲルス(Friedrich Engels、1820-1895)の史的唯物論の立場に重なります。
F.エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』序文、1884、Der Ursprung der Familie,des Privateigenthums und des Staats. 戸原四郎・訳、岩波文庫、1965)は、史的唯物論の見方の基礎を次のように説明しています。
「唯物論の見解によれば、歴史における窮極の規定要因は、直接的な生命の生産と再生産である。しかし、これ自体はまた二種類のものからなる。一方では、生活手段すなわち衣食住の対象の生産と、それに必要な道具の生産であり、他方では、人間自身の生産すなわち種の繁殖である。特定の歴史時代の特定の国の人間がそのもとで生活する社会的諸制度は、二種類の生産によって、すなわち、一方では労働の、他方では家族の発展段階によって、制約される。労働がなお未発達であればあるほど、その生産物の量が、したがってまた社会の富が制限されていればいるほど、社会秩序はそれだけ強く血縁的紐帯に支配されて現われる。だが、この血縁的紐帯にもとづく社会の編成のもとで、労働の生産性はだんだんに発展し、それにつれて私有財産と交換が、富の差別が、他人の労働力の利用可能性が、したがってまた階級対立の基礎が発展してくる」(9-10p)


◆  ◆ ◆ ◆   ◆ ◆ ◆   ◆ ◆ ◆ 

自分の過ごした家族の記憶があるので、家族にもいろいろというのはともかく、変遷の歴史があって変化してきたといわれてもピンとこない向きもあるでしょう。
自分の家族がどのような特色をもつのか、現在の日本の家族関係は重大な曲がり角にあるとはいったい何なのか。今回はそのあたりです。

ひきこもり経験者から相談などで話すと家族に関係することは多いです。
悩み、難しさ、不満など家族・家庭に関する訴えや相談事です。
立場は違いますが親の相談にも家庭内の問題はあります。
ただ「これでよかったわけではないのですが…」「どうすればいいのでしょうか…」などの反省や戸惑いの気持ちが多いのが特徴です。
こうした相談をしてくる親の大半は、一生懸命であり誠実です。
そうではなくひきこもったのは子どもの事情であり、親や家族が出る幕ではないとする子どもの独立性を肯定しているように見える人もいます。
親が相談する問題ではなくあくまでも子どもの問題とするのですが、自分を含む家族・家庭にも関係するし、こちらにより深い原因がある場合もあります。
『ひきこもり国語辞典』のなかに子ども側から挙げられた例です。

〇鬼門:「うまくいかない場所、苦手なことを鬼門といいます。
私にとって疫病神がやってくるところが家族です。
その意味で家族が鬼門です」

〇知的な親:「親が妙に賢いと理屈でものを言います。筋は通っているので受け入れます。
しかし、その理屈に流されていくと自分を失います。
子どもの感覚や気持ちを受けとめて、理屈で「ノー」のところも見てほしいです。
子どもは理屈で育てるよりも愛情をもって受け止めてほしいのです」

これはひきこもり経験者の言葉ですが、ここに見えにくい家族の問題が潜んでいるように思えるのです。
それは「建前」に基づき、子どもが社会に生きるための「期待」を表わすものでしょう。
それをたどっていくと、親側が理解している世間像とか、その枠内に子どもがどう入るのか期待が見えてきます。
そこから外れないように、そのコースにうまく乗れるように「建前」や「期待」が子どもに向けられるのです。
ここに親子間・家族間のズレ、文化的なギャップが含まれていると思うのです。
鷲田清一『悲鳴を上げる身体』(PHP新書、1998)の一節にこうあります。
「近代社会では、ひとは他人との関係の結び方を、まずは家庭と学校という二つの場で学ぶ。
養育・教育というのは、共同生活のルールを教えることではある。
が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールが成り立つための前提がなんであるかを理解させることであろう。
社会において規則がなりたつのは、相手が同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。
他人へのそういう根源的な<信頼>がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる」(70p)。
親子のすれ違いは、生活のベースが違ってきているのに、同じルールを適応する親側にあると思えるのです。
私も親世代の1人ですから、曲がりなりにも(相当におかしいといわれますが)親世代の感じはわかるつもりです。
典型的な家父長的な家族関係を基準とする人はもはや例外的にしか見当たりません。
しかしその残像と言える現実はあります。
そのあたりをかつての人はどのように説明していたのかを見ていきましょう。

和辻哲郎さんの有名な『風土』(岩波文庫、1935)は自然条件が人びとの家族関係や精神文化に影響すると考えていたようです。
『風土』では、人間存在の構想契機として、人々が住む風土をモンスーン、砂漠、牧場の3類型を上げ、日本をモンスーン型風土とします。
そして「家族的な生活の共同に最も強く重心を置いたのは、モンスーン的な家族である」(169p)と、気候的な環境条件から日本的な家族が生まれていると指摘したうえで、その特徴を、次のように描きます。
〈「家」は家族の全体性を示す。
…現在の家族はこの歴史的な「家」を担っているのであり、従って過去未来にわたる「家」の全体性に責任を負わねばならぬ。
「家名」は家長をも犠牲にし得る。
だから家に属する人は、親子・夫婦であるのみならず祖先に対する後裔(こうえい)であり後裔に対する祖先である。
家族の全体性が個々の成員よりも先であることは、この「家」において最も明白に示されている。〉(170p)
家父長的とされる家族制度は子どもなど家族の成員にとって大きな束縛になるだけではなく、その家長も家名に束縛されるのです。
そうでなければ世間(家の外の社会)の中で生存し続けがたい条件があったと読み取れます。
〈親のために、また家名のために、人はその一生を犠牲にする。しかもその犠牲は当人にとって人生の最も高い意義として感ぜられていた…。
「家名」のために勇敢であった武士たちは皆そうであった。家の全体性は常に個人よりも重いのである。
…しかし資本主義を取り入れた日本人は「家」において個人を見ず、個人の集合において家を見るようになったであろうか。
我々はしかりとは答えることができぬ。〉(171-173p)
家族の一個人ではなく家族全体で自然と世間(社会)に対して立ち向かっていた。
その意味で家族の全体性が優先し、そこに属する個人は後回しになり個人はそれに貢献するように求められた。今日から見れば不条理な理解も悲劇もあります。
私はそこに時代的な制約をもちながら日本人が生きながらえるために家族をこのように整え、闘いに備えたと感じるのです。
このような伝統的な家制度の下での精神性を新渡戸稲造『武士道』(1899)や、山本周五郎(1903-1967)の時代小説・大衆小説にも見ることができます。
そこに表われる家族は理想化され美化されていることは確かでしょう。
それは歴史的な条件がないなかでの出来事です。
和辻さんは資本主義を取り入れた日本にもそれは継続しているというのです。
このような家族の考え方は個人的な特色を持ちながらも、特に親世代にはいろいろな形で続いています。
それが新しく生まれた子ども世代とのすれ違いや衝突を引き起こすことになります。
いわば旧家族像の残像と新しく生まれた個人を生かす家族像との違いです。

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