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市民社会の倫理道徳とひきこもりの心理特性(試論)

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市民社会の倫理道徳とひきこもりの心理特性(試論)

この社会は「生きづらい」。
多くのひきこもりの人がもつ共通の感覚です。ある人がそれを次のように表現しました。
「徴兵制(ちょうへいせい) 保守系論者が言いがちな引きこもり・ニートへの特効薬的対策です。私にとってはこの社会自体が徴兵制みたいなものです。これ以上の徴兵制はいりません」。
冊子『ひきこもり国語辞典』に採用した言葉です。
この話を聞いて周りの数人が賛同していました。
一般人にはここまでの感覚は伝わらないし、親にとっても、きょうだいにとってもよくわからないかもしれません。
しかし、この程度のことは彼ら彼女らの繊細さからは疑いないところです。
人が発する本人が意図しない感情表出さえも察知する鋭い能力でとらえているのです。
そしてこの現状把握はひきこもり当事者だけではなさそうです。
意外にも多くの日本人が持っている感覚のすごさであり、感情把握でもあります。
ひきこもりと一般人に違いはありますが、国民性の特徴としては中心点からは同一方向にある感覚であり、中心点からの距離が違うために共通性に気づきにくいのです。
2011年大震災のときの日本人の行動を見た海外の人、その後の外国人観光客が見た日本人の姿、それらが動画サイトYouTubeに多数投稿されています。
日本人は細かなことに気づく国民で、長い歴史の中でつくられた生活文化の美質として評価されています。
外国人が日本人をどう見ているのか。ランダムな箇条にまとめてみました。
(1) 秩序のある振る舞いーかなりひどい状況でも順番を守り行列を乱さない。混雑する電車の乗り降りが整然とされている。
これは世界でも特別のレベルのようです。
(2) 他者を尊重するー相手の気持ちを考えて行動しようとする。
私の母の口癖に「ほかの人に迷惑をかけるな」というのがありますが(その言葉を忠実に実行してきたというつもりはありませんが)、これが他者を尊重すると見えるのです。
(3) 誠実であるー財布などを落としても、忘れ物をしても高い割合で戻ってくる。
他の国では考えられないほど高い割合だといいます。
(4) 親切であるーたとえば言葉が通じないとき、道案内に一緒に歩いてくれることが多い。
そういう人もいるし私もそういう案内をしたことがあります。
(5) 協力するー特に困難なとき、苦しいときに助け合う。
チームをつくり取り組むのが上手い。オリンピックの男子4x100メートル走、女子スケートパシュート団体の例が挙げられます。
しかし、社会生活のいろんな面にあります。
(6) 町が清潔でゴミが少ない。
ゴミを再生資源として回収する国民的な取り組みが日常化していることも一緒に評価を受けています。
(7) 町が安全であり、犯罪にあう可能性がかなり低い。
小さな子どもが町中を1人で歩き、電車の乗るのは「他の国ではありえない」―それほど安全といいます。
日本人からすればそれほど完ぺきではないと言いたいところです。
しかし外から見る日本人はこれらが相当に高い国民と思われるのです。
これらは「ミラクル(奇跡)」といわれ、「日本は別の惑星にあるようだ」「地上の天国だ」と書いた人もいます。
あまりにも秩序だった行動をするので「アーミー(軍隊)のようだ」というのもありました。
やや極端にみられていると思いますが、その性行は全体としては悪くはないはずです。
この国民性を右翼的な復古体制に結び付けようとする論調や作為的な宣伝がYouTubeの動画に日本人“ネトウヨ”によって投稿されています。

上に挙げたこれらの国民性、その背景を説明したものに、新渡戸稲造の『武士道』(奈良本辰也訳・解説、三笠書房)があります。
話が反れますが順序として必要なので付き合ってください。
日本には学校に宗教教育がないのにどのように倫理道徳が教えられ伝えられるのか。
この問いを意識して『武士道』は日本における倫理道徳は学校ではなく家庭や地域社会で教えられ伝えられる事情を西欧世界の人に示した本です。
新渡戸稲造(旧五千円札の肖像人物)は説明する元になる事例を日本だけではなく西欧世界にあるいろいろな事例を挙げました。
19世紀末(1898年)アメリカ滞在中に英文で書かれた本です。
訳者の解説によれば「近代の合理主義思想の人々にも十分に理解できるように」日本人を紹介したのです。

しかし、新渡戸稲造は武士道が封建制社会の所産であると自覚しています。
私は市民社会における倫理道徳の前進を考えますが、すでに国民の中に根付いているところを出発点にしたいと思うのです。
その出発点の一つに『武士道』は適していると考えたのです。
ある時代の社会思想や社会意識は、あるとき突然に生まれるものではありません。
新渡戸稲造の武士道も、江戸時代やそれ以前の封建制社会の倫理道徳とは同じではなく、19世紀末の日本に適応するように整理整頓したものです。
日本における今日の倫理道徳も旧時代の慣習を受け継ぎながら、改変して成り立つものです。
『武士道』は日本の倫理道徳が生まれ、広まった経過もうまく説明していると思います。
その内容を21世紀的なものに改変しなくてはなりません。
私はそれに相応するテキストをまだ知りません。
しかし、その一つの道標となるのが現行の日本国憲法における個人の権利・義務に関する条文ではないでしょうか。
日本国憲法は性格上、新渡戸稲造の武士道の説明にあるような論理展開はありません。
典型的な事例もありません。
法律文なのですから通常の読み物ではありません。
私は日本国憲法が持つ民主制における倫理道徳を考えています。
それが今日の市民社会における倫理道徳になるし、戦後数十年の間にかなりの程度は形成されてきました。
右翼的・復古的な論調はこれを逆転させようとしているのです。
むしろ新渡戸稲造の武士道にある封建制を支える要素を取り除いた、国民主権と両立する今日的な倫理道徳に進めなくてはなりません。

さて以上はこのエッセイを書いた1つの背景事情です。話を戻しましょう。
ひきこもりのかなりの部分にとって、今日の日本人の言動や振る舞いや倫理道徳は、窮屈で「生きづらさ」の根拠になっています。
彼ら彼女らにとっては社会のありようがすでに徴兵制のように圧迫感があります。
一部の外国人からは日本人の秩序だった行動は軍隊のように映るのは、同じ内容かもしれません。
ひきこもりの人たちの感覚を挙げましたが、しかし、社会のありように圧力を感じ、問題意識を持つのはひきこもりばかりではありません。
その課題の全体を説明することは私の手に余ります。
ひきこもりの人たちが感じる不公平・不平等感、ときには力ある人への忖度や斟酌(しんしゃく)が関係していると思えるのです。
そこから見える基本点は2つです。

(1)日本国憲法では、個人を権利主体とし、生存、生活、家族などの態様を定めています。
その上に社会や国家が権利・義務の関係で構造をつくります。
封建制社会の『武士道』においては社会的存在の基礎を家族におきます。
その上に支配構造としての身分制度、武家社会や幕藩体制があります。
この体制構造が容認できる範囲で個人の生存、生活が保障されていました。
この体制を保持するためには個人の生活・生存は保障されず、ときには体制保持のために生活の犠牲をしいられ、命を捧げました。
そういう封建制社会で認められてきた個人の生存、生活の保障を、時代が移り変わった現代において拡充・発展させる。
国民主権の社会で確立する方法のベースが日本国憲法の個人に基礎をおいた民主制ではないか。
私はこう解釈します。
ところが社会の実態は、個人主体ではなく集団単位ではないか。
家族や企業や地域社会が事実上の主体になっている場合がある。
それが個人への圧力として働き、ストレスになっていないか。
ひきこもりとはこういう集団圧力を避けようとする振る舞いに由来するのではないか。
彼ら彼女らの生活経験はこのことを子ども時代から感じさせ教えてきました。
個人に基礎をおく民主主義が、根底において『武士道』と対比して異なる点です。
ここを改変しなくてはなりません。

(2)もう一つ欠かせない理由は不平等感です。
憲法で言われていることが実際にはそうはなってはいない、少なくとも不十分です。
その社会の不条理をひきこもりは鋭く感知しています。ときには被害者です。
言葉として、法律などでは平等とか公平とされているのに、実際生活ではそれが実現していません。
その理解のしかたは社会的な経験不足による感覚も絡んでいるときもあります。
しかし、かなり多くの場合で不平等、不公平は実際にあります。
言い方を変えれば、日本国憲法に書かれている国民の権利などが、日常生活においては不完全であると察知できるのです。
最高法規の憲法に示されていることが、その下にある法令や慣習によって、多くの人の日常の言動によって薄められ、変質していることがわかるのです。
それらは社会制度における役職上の権限の有無、社会生活のおける役割分担、あるいは資格制度、経済的な格差、ときには身体的な差・身体能力などにより制度化されています。
さらには“特権をもつ社会グループ”さえできてもいます。
いろいろな制度化は必要であり避けられないものですが、不平等、不公平の根拠もまたここに巧妙に組み込まれています。
感覚の鋭さはこれらを自分の経験と利害にかかわって察知し、一般化して理解しています.
「建前と実際の違い」というのがそれです。
この言葉には制度として必要な面といいながら不平等の根拠が忍び込ませてあると見抜いています。
この社会は「生きづらい」という言葉に対して、「そんなことはない」とか「思い違い」だけでは答えになりません。
彼ら彼女らの感覚の繊細さがとらえているものに思いを寄せてみると大きな背景事情が見えてきます。
私にはそのように思えます。
それが容易ならざるほど巨大で根深いものであっても理解することから何かが始まります。
ひきこもりが存在し広がってきたというだけで、すでに何かが少し始まったともいえます。
この不平等を察知している社会的なグループがすでに存在しているのです。
彼ら彼女らの功績はすでにあります。
これを肯定的に受け継ぎ、さらに広げていくのが現代の課題ではないか。
それが現代求められる倫理道徳を形成する原動力になる。
いまはこう確信しています。
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