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広島原爆の日に振り返って思うこと

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広島原爆の日に振り返って思うこと

〔2017年8月6日〕

8月6日、広島に原爆が投下されたのは1945年です。
その前日の1945年8月5日は私の誕生日です。
生まれたのは朝鮮慶尚北道の慶山、現在は大邱市に含まれています。
父は朝鮮鉄道の鉄道員でした。
毎年、誕生日が近づくころに「広島原爆〇周年」と言われ、その〇は私の年齢と同じです。
このたびは72周年ですが、いつもとは違った出来事があります。
国連で「核兵器禁止条約」が採択されました。核兵器そのものが犯罪と決められたと理解しています。
核兵器を作ること、持つこと、運ぶこと、持っていると脅かすこと…これらがすべて犯罪であるという法律が、国連で採択されました。
これには日本のヒバクシャの取り組みが大きくかかわっています。

島根県にいた高校2年の夏休み(1962年)、広島市内に住む親戚の元に1週間ほど行きました。
その間に原爆式典の日もありました。関心は少なく市内のテレビニュースで見た記憶があります。
大学に入ったあと(1965、6年ごろ)、何かの折に被爆者の体験を聞く機会がありました。
それから「広島原爆〇周年」を目にすると、誕生日が近いと意識するようになっています。
1972年、東京で開かれた原水爆禁止世界大会に参加しました。
全体集会は屋外の広いスタジアムで、そこでモザンビクから来た代表がスピーチをしていました。
その翌日1つの分科会の参加したときです。
そのスピーチをしていたモザンビクの独立運動をする解放戦線のA.Pangueneさんに会いました。
通訳なしながら大会関係の随員に助けられて、30分近くも意見交換(?)ができました。
彼が隣国のタンザニアに戻った後も、しばらくは手紙でやりとりしました。
それもいつか途切れました。しかし数年間はモザンビクに関係するいろいろな文献を読み漁りました。
私がいちばん英文を読んでいた時代です。いちばん勉強した時代でもあります。
当時のノートはいまも段ボール箱に収まっています。
私が1974年に大阪から東京に移動したのはこれに関係します。
その彼が日本にやってきた2013年に会うことができました。
彼は日本に来るとき、私と一緒に撮った写真を見ながら、奥さんがこの人と出会えたらいいねと言っていたそうです。
偶然に近場の亀戸で集会があるとわかり、その日の予定を変えて私は彼と一緒に撮った写真をもってその場に出かけました。
そして40年を隔てて打ち合わせなしで再開できました。
1975年6月25日、モザンビクは独立しました。
独立の解放闘争を初めて11年目です。
しかし、独立後の闘いの方がむしろ複雑で困難も多かったように思います。

核兵器とモザンビクは私の中ではこれまでつながってきたのです。
きょう8月6日は広島原爆の日です。ひきこもり関係のある集会に行きます。
他にもモザンビクとはつながらない広島原爆の話もあります。
むしろひきこもりとつながるのですが、その話はまだできません。
広島原爆とモザンビク、不思議なめぐりあわせを感じさせます。
昨日の誕生日、お祝いいただきありがとうございます。
すっかい疲れていまして先ほど見たところです。

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