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息苦しかった学校時代を通り過ぎて

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息苦しかった学校時代を通り過ぎて

(1)ペンネーム:りょうこ
(2)住所:岩手県
(3)年齢:30歳、性別:女
(4)初めまして。この不登校情報センターを見て、もし自分が少しでも協力できるのであれば文通などしたいと思います。
私自身高校で不登校になり、通信制の高校に転校した身で、リストカットもしています。
文章を書くのでよかったら参考にしてほしいと思います。
いま独りぼっちだと思っているかもしれない方、あなたは一人じゃありません。
〔2013年1月〕

アルバイト(職歴)。
病歴は自律神経失調症⇒パニック障害⇒境界性人格障害⇒そううつ病。
障害者年金はもらっていません。
アルバイトしながら資格取得をしています。
そううつ病ですが、いまは落ちつき、パニック障害の発作がたまに出るくらいまで回復しました。
不登校になったのは高2です。
私は小・中学校と小さな学校でした。
高校は全校生徒1000人はいたのでいま思えば小・中学生のときはあわせて30人しかいないのに高校は1000人いたから人が多すぎました。
それで具合を悪くしていました。
小・中の同級生はみんなバラバラで自分1人でした。
友達を作るのもどうしたらいいかわからず、1人は嫌いだったので自分なりに努力して友達をつくりました。
そして大好きな友達がたくさんできて仲良しグループもできました。
しかし、やはり地元の同級生はいなく、昔から知ってる人いないから独りぼっちな感じがありました。
大好きな友達はできて、毎日たのしかったです。
しかし、全校生徒1000人の学校生活に体がなれず、いきなりお腹痛くなったり、具合悪くなる日が1年の後半から月1日ずつ出てきました。
早退か保健室で休むことが出てきました。
2年の時クラス替えがあり、私の人生にクラス替えなんてなく、仲良い友達と一緒で楽しい日々を送っていました。
しかしやはり1000人という学校の雰囲気に体がなじめず、体は腹痛・はき気・だるいがどんどん増えました。
大好きな友達に会いたいけど体はその状態なので休んだり、早退するようになります。
保健室の先生に「あんたみたいななまけものは学校やめな」と早退するたびに言われつづけました。
体はこの調子だけど親に言えないし、親は高校だけは出ろというのでずっと言えない状態でいました。
どんどん体が辛くなり、休むと勉強にも遅れるため、勉強もわからなくなり、学校に行くのがしんどくなります。
休む度に親に激怒され、そんなのが1ヵ月たったとき、ごはんが食べれない状態までになりました。
早退も多く、保健室の先生から早退するたび「またあんたか、あんたうざいから早くやめな」と言われつづけました。
もう限界の日がきた日、朝早くに起き、家のテーブルに手紙をおきました。
「保健室の先生から、あんたなんかやめなと言われつづけ、学校に行きたくありません。バイトして働きます。やめさせて下さい、体は辛いから」という内容を書きました。

それから約1週間家にいて、友達どうしてるかなって考えてました。
友達は大好きでみんなで遊びに行って楽しかったからです。
そして親に病院につれて行かれ心身症と診断されました。
それから2週間後に学校へ行こうとなりました。
学校が近づくにつれ、こわくなります。
それまで眠れない日々が続き、当日は朝から泣き、学校に行ってないからみんなに嫌われてるし、先生にも会いたくないから行きたくないと話しました。
何とかして学校へ行き、教室に入るのがこわく、入ったらいじめられると思っていました。
でも同級生にふつうに「おはよー。体調よくなった? みんな心配してたよ。やっぱ良ちゃんいなきゃねえ」って言ってくれました。
自分のイスにすわった瞬間、涙が止まらなくなりました。
すぐに副担任の元へ行きました。
私が学校をやめるというのは仲良しの友達に事前に電話していました。
「私体調わるいからやめたいし、先生たちいやな顔するんだ。だからやめたいんだ」って友達に言ってました。

そして「いままで10人しかいなかったのに、いきなり40人も、教室入ると息ぐるしい」とも友達に言っていました。
その友達は担任に私の席を友達の席のとなりにしたいといってくれていたそうです。
そして担任・副担任も「お前の状態わるいし、やめていった人たくさんいるから、いっしょに卒業しよ」とも言ってくれました。
ある日、担任がもつ授業中私のいまの状態を仲良い友達にはなそうと言う時がありました。
いまの状態を泣きながら話したら、そこにいた友達はみんな泣きました。
「なんで言ってくれなかったの。うちらみんな心配してたんだよ。お前大好きだから何でも言えよ」とみんな泣きながら話してくれました。
すごいうれしくて泣きました。
それからみんなでいっしょに卒業したいため、まず教室に入るための努力をしたりしました。
それでもやはり人数の多さになじめず、別室登校をして、友達から勉強教えてもらったり、ごはん食べたりしてました。
3学期の時、信頼していた先生から「授業に出てないから単位たりないからやめるか、留年しろ」と言われ泣きくずれました。
別室登校となってから、担任・副担任は学校の先生に頭を下げていたそうです。
いまの私からみたらそこまでしていただける先生はいません。
その時の私は他の先生から友達と同じ服装をしているだけの理由で「教室行ってないお前がそんな服装でいるな、いるならさっさとやめろ」といわれました。
泣いていましたが、担任・副担任はなぐさめてくれ、大丈夫だから、卒業しようといわれました。
自分なりに教室に行く努力はしましたが、やはり人数の多さにまけて、いけなくなりました。
信頼していた先生に「やめるか留年」と言われた日、うらぎられた、友達ともういれない、大好きなみんなといっしょにいれないと思いカッターで左腕を切りました。
もちろんいまもその痕は残っています。
その日に病院へ行き、通信の学校を紹介されました。
次の日担任・副担任に「通信制に転校します」といい、友達にも話をして、みんな泣きました。
私も泣きました。
友達から「お前1人じゃないから、通信行っても、もちろん遊ぼう」と言われました。
副担任は泣き「卒業しようと言いながらできなくてごめんねぇ」と泣きながら言われました。
そして通信制の高校の試験もうけ、3月の時、通信の高校へ転校しました。
そこには私と同じ境遇の人・妊婦などさまざまな理由の方がいました。
すぐにうちとけ、楽しい1年をすごせました。
前の学校の友達とも楽しく遊んだし、電話もしました。
通信に通う時、同じクラスの人達と会っていたので「よっ、元気?」といわれ「うん、どう?」みたいな感じです。
こうして3年間の高校生活をすごしました。
私が挫折せず、高校生活できた理由は、仲間です。
仲間がいなきゃいまにつながっていません。
小・中はみんな小さいころから一緒で友達はいませんでした。
たしかに高校の人の多さになじめず、体調不良になりましたが、仲間がずっと心配して私のために涙してくれてました。
私はこいつらと一緒じゃなきゃひきこもっていました。
転校して通信に行ったら、私と同じ境遇でまた、仲間ができました。
そしていま29歳ですが、来年、前の学校の副担任の先生が定年のパーティーをします。
そこで学校の友達からぜひきてほしいと言われた時、私の最終学歴は通信だからと断りました。
あんたはいじめられてないし、みんな覚えている。私はあんたがいなくなったとき心配したと言われ、号泣しました。
出かけた先で前の学校で仲良しの子と会い、その後連絡とると「なんでいなくなった? 超、心配してたんだよ」と仲良しの子達みんなに言われました。
あの不登校のとき自分は先生達からやめろと言われてから独りぼっちだと思っていましたが、仲間に支えられていまに至ります。
実際、私は離婚・父の死があった時仲間、家族に支えられました。
ずっと独りぼっちでなんで自分だけという考えをずっとしていましたが、仲間に病気を話してもだれも偏見で見ません。
家族になんで私を産んだとかうつ状態であばれたりもしました。
家族は私を見捨てなかった。
私はいま仲間・家族に支えられ、みんなが大好きです!! 
たしかに他人からみたら29歳でバイトですが、家の仕事して、家族が休みの日に私は仕事しています。
いまの病名の方がひどそうですが、仲間・家族に支えられ、その恩返しではありませんが家の仕事をしています。
いま独りだと思っている人いると思います。
でもあなたにはあなたを守ってくれる人います。
だから甘えてもいい。独りじゃないって言いたいです。
文章が汚く、うまく表現できませんでしたが、これが参考になったら私は満足です。
この出会いに感謝します。

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