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愛が難しい

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愛 が難しい

『ひきこもり国語辞典』の作成の最後に難題発生です。
担当編集者からいくつかの見出し語に共通することをエッセイに書いてはというのです。
とにかくいい勉強かもしれないと書いてみようと取り組みました。
テーマは10語ほどあったのですが、そのなかでも「愛」と「怒り」はとりわけたいへんでした。
はじめに書いたものは客観的な紹介とでもいうものです。
これは愛だけではなくほかのことばでも同じで客観的な紹介を書きました。
担当編集者に送ったのですが、これという感想がありません。
まだ読んでいないのか、どう返事をすべきか困っているのか…そんな日が数日したところで、自分で読み返してみました。

正直「つまらない」と思いました。
おいしそうなカレーライスがあるのにその中に煮えていないジャガイモの塊を感じたと言えばいいか。
それだけは避けて食べたいものに思えました。
恥をさらすようですが、そのとき書いた「愛」を紹介します。

< 愛:愛され願望
ひきこもりは身体的・精神的・社会的な圧迫を継続して受けたことによる、意識的・無意識的なからだの反応です。
典型的な場合は本人の体質・気質と関係しつつ乳幼児期に受ける虐待や不適切な関わり(ハラスメント)の結果です。
人が生まれてから乳幼児期に必要なことはこの世に出てきたことを歓迎されている安心感です。
基本的には母子の関係のなかで感じられ、身に付けます。
それが人に対する好意的な感覚になり、幼児期の自然な甘え(愛着)となります。
乳幼児期に虐待やハラスメントを受けることとは、必要なことを与えられないばかりか反対の環境におかれる経験であり、愛情の欠乏体験です。
これが人への根源的な信頼を得られない状態になります。
依存の時期を超えて自立を求められる思春期に入るころには、愛の欠乏状態は愛され願望として表れます。
自立を求められているはずなのに、幼児期に表われる誰かに頼るそぶりが表われます。
できない人とか非難がましく思われやすいのです。
親が協力的になる場合もありますが、誰もがそれに恵まれるわけではありません。
依存的な状態を認めて助けてくれる友人になかに、学校の教員や養護教諭、相談員(カウンセラー)なかにその代替を求めようとする人もいます。
二十代、三十代の異性間において受け止められる状態が実現すると、婚姻関係にまで進む人もいます。
主に男性のなかには自立を求める感情や動きを友達や師弟関係などの社会的な関係に求める傾向の人もいます。
愛され願望がうまく満たされない状態におかれる人も少なからずいます。
ひきこもりはそれを非社会的な状態で表したものとみることができます。
また依存傾向が続き、アルコール・薬物、ゲームなどへの依存に表われます。
ときには暴力を繰り返すこともあります。
思春期以降の愛され願望は、乳幼児期の愛の不足を補おうとする、正攻法な方法とみることができます。
しかし、多くは自立の課題の前にとどまるわけですから、対人関係や社会生活において支障をきたすことにもなります。>

この内容に間違いがあるとは思わないですが、トーンが違いました。
不協和音です。
そう感じて愛を含む全部のエッセイを書き直すことにしました。
客観的な紹介ではなく、自分が立ち会った状況から書くことが必要だと思いました。
自分が動いている、自分が見ている、自分が聞いている、自分が感じている…そういう視点からそのテーマを書かなくてはならないし、「愛」を書かないと馴染まないと思ったのです。
知識の基づいて書くのではないのです。
『ひきこもり国語辞典』のなかのことばを読み返しました。
ある傾向がわかりました。
書かれているのは受け取る愛、欲しい愛でした。
反対の受け渡す愛、与える愛もありましたが遠慮がちに表現されていました。
そこでこれまでにもらった手紙・メール類、ノートやエッセイに書いたことなどをかなり読み返しました。
受け取る愛にはプライバシーに関する公表できないものもありましたが、受け渡す愛にはそれらしき実感が伝わるものがありません。
ただし、誠実な対応とか親切にするものがありました。
そして気付いたのです。そうだ、これが愛の表現だと。
そして書いたのが次のようなものです。
ただしこれが最終になるかどうかはまだわかりません。

  「愛」をテーマにコラムを書こうとしたのですが思い当たるエピソードが見つかりません。
この辞書になかには結婚や同棲について、親子や男女間のスキンシップについてもいくつかを紹介しました。
愛され願望の4コマ漫画もあります。
それらのなかにすでに「愛」の素材は十分あるのでしょうか? 
そうだとすれば私の「愛」に関する鈍感さは相当なものだと証明されることになります。
このように「愛」は、ことばで表現しづらいと思っていたところ、「深い思い」と教えてくれる人がいました。
親子(家族)・男女・友人の間の積み重ねられた相手を思いやる「深い思い」、それを愛というのに納得できました。
ところで私が見つけようとしたのは「受け取る愛」ではなく「受け渡す愛、与える愛」です。
ひきこもりの経験者には、周囲の人に感じさせる愛の空気が希薄であると思うのですが、それもまた私の「愛」に関する鈍感さを証明するものなのでしょうか? 
感情を感知する能力が低い私には「その通り!」と言われてもやむをえないかもしれません。
しかし、こう継ぎ足したいのです。
深い思いから生まれる愛の形ではなくとも、親切に誠実に対応することなら、不十分であっても愛に鈍感な私にもできることかもしれません。

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