断薬は薦めきれない⁉
断薬は薦めきれない⁉
親の認める枠内でしか動けずにいるのとは別のタイプの人もいます。薬依存です。
これを単純に「依存」と扱えないのは、医師は患者がそうなることを望んでいないからです。
ある時期に、私は「減薬カウンセラー」になる道もあると思いました。これは服薬を続けるうちにアカシジア(抗精神病薬などの副作用)が強く表われた人がいたのがきっかけでした。
手が細かく震える程度ではなく、意志を離れて手を大きく振り回す、一見踊っているくらいの状態になった人がいました。それで薬を変える、薬をやめる方向を考えたのです。
薬物の被害に取り組んでいる人に話したところ「断薬により患者に支障が出たら、法律的にも全てあなたのせいにされる。やめたほうがいい…」と言われ、減薬カウンセラーはやめました。
統合失調症で療養中のシホさんが、断薬について次のように書いてくれました。
《服薬を続けた先の回復例をあまり聞かない、ということですが、医師は断薬のリスクを考えて、悪化するよりは現状維持のほうを選ぶのだと思います。
医師側から断薬の判断や提案するのは難しく、重大な副作用がなければ飲み続けてもいいし、やめたければ自己責任で、という本音もあるかもしれません。
医師は薬や症状の知識だけで診ていて、実際に薬を飲んだ状態の内面を知っているわけではないので、その立場でしか見えるものはないと思います。
実際に薬を飲んだうえで知っていて診察する医師は、全くとは言い切れませんが、控え目に言ってほとんどいない気がします。
服薬と断薬について、病的状態の重さ・進行の程度・薬の種類や量、などの影響にもよるかもしれません。
それから医師も患者も人それぞれなので、その個人差も大きいと考えられます。
私もそうですが、自分の症状や気分や考えや本音を、その通りに言葉に出せない患者もいます。
その場合、医師の判断だけで薬や治療の方法が決められてしまいます。医師との関係性によっていろいろ違ってくると思います。
自分の症状などをきちんと伝えられる患者は、医師の指示通り服薬や治療をしてその都度また伝えていたら、問題はないのだと考えられます。
私のように医師との関係を築きにくい場合は、自己判断するしかないときもあります。
自己判断での断薬や減薬は試行錯誤のくり返しでけっこう難しいことですが、医師に正確に伝えようとすることのほうが自分には難しいです。
自己判断の断薬をするときは、より深い自己観察とそれについての熟考ができる必要性を感じます。
ただ薬をやめたいだけという人もいると思います。私もはじめはそうでした。でも、薬の種類や量をいろいろくり返し試さなければいけません。
私の場合、薬の作用に加えてアルコールの精神作用もあるので、より深く省察と熟考を重ねなければなりません。
今のところ少なくとも減薬はできていて、精神的にも身体的にも依存性は大きくないとわかりました。完全な断薬はできると思っています。
(ここまでが入院以前に書いていた分です。今読み返せば問題点がいくつもあります。でもこのとき言葉にできたのはここまでです)》(2023年10月29日)。
他方では、自分の判断、自分の意志で減薬・断薬を実行した人もいます。
減薬をしたところ体調が好ましくない、禁断症状が表われ服薬に戻る人もいます。
その一方で断薬に“成功した人”もいます。私の知る範囲では2人います。
その1人はセラピストをめざしていました。もう1人も何かで動き出そうとしていましたが、連絡が途切れました。
この断薬をめぐる運・不運の境目はどこにあるのか。私には見当はつきませんが…。
ここが前回の親の言いなりと聞きわけのない子の運・不運の境目の難しさと同じようになります。
この境目は、合理的に説明される地点(複数の要件の組み合わせによる)はあるでしょう。
しかし、将来はともかく現在その点の確認は難しそうです。
統合失調症(だけではなく精神障害の多く)は、幼少時からの対人環境による要因が大きいと思います。
服薬はその改善に向かうのに必要な落ち着きをつくり、根本的な治療はその先にあるのでしょう。
それは身体構造(おそらく脳神経系の変化につながる)まで影響が及ぶと思います。
本人の努力(試行錯誤の積み重ね)と周囲の理解と支援が必要であり、多くの時間を必要とします。
安定した環境条件のなかで日常くり返される生活状態の改善が欠かせないのです。
医療の現場でどう実現すべきかと考えるとき医療は患者の全生活に関わっていないことを知らなくてはなりません。
『SHIP!』創刊号で斎藤環さんが「オープンダイアローグ」(対話)を紹介しています。
これは医療における1つの方法です。
医療以外では、居場所がそれをより広げるもの(輪郭は曖昧ですがより多様で意味や役割はより大きい)になると考えます。

