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時代の変化と世代間ギャップ(断絶)

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時代の変化と世代間ギャップ(断絶)

会報「ひきこもり居場所だより」(2019年12月号)

善意のハラスメントというのは成り立つとは思いませんが、どうでしょうか。
しかし、無意識のハラスメントはあると思います。
現代はとても変化の大きな時代です。そのぶん世代間の違いはギャップとしても大きくなります。
1960年以前に生まれた世代(60年前世代としよう)と1970年以降に生まれた世代(70年後世代としよう)として世代間のギャップを考えました。
このギャップは親子の関係、家族の関係にも生まれています。
今日のひきこもりの中心部分、少なくとも私が関わったひきこもり世代の大多数は70年後世代です。
この世代の人たちは今後の時代に対応することになるわけですが、この切り替えは全員一律にではなく、ある人は早い時期に、別のある人は遅れてその必要条件を身に着けると考えられます。
しかもある人は自然に巧みに、ある人は不自然に不手際にその課題に取り組みます。
結果としてそうなったし、意図してできるわけではなかったのです。
これからもそうなると思えます。
このような時期には、いろいろな形の個人の社会的・文化的な特異性が顕在しやすいものです。
明確な特異性はおそらく初めは障害者として登場したのではないでしょうか。
その存在は大昔から知られていましたが、この数十年間に少しずつ社会に受け入れられ、整えられたように思います。
不登校やひきこもりは、初期においてはよく理解できない異端者とみなされました。
このところようやく存在として肯定的に認められたと思います。
とはいえ全体が肯定的に認められるとは程遠いことも事実です。
まして「理解される」となるとまだまだ怪しいかぎりです。
LGBTs(性的少数者)や発達障害者は、これらの中間としてみることができそうです。
歴史的には、いま現在が社会的に広く認められ、受け入れられ始める途上にあります。
その受入れの社会的な面、職業上のこと、法制度的なことは基本的にはこれからです。
それでも当事者の積極的な行動や周辺の理解が進むにつれて徐々に固められていくでしょう。
そういう中で、ひきこもりは理解される上でも社会的な受け入れの面でも難関に直面しています。
現状で必要なことも将来像もかなり多様であり、一定のまとまったスタンスを確立しづらいと思えます。
そのため積極的な要請事項や統一的な社会的・職業的・法制度的な姿を表しにくいのです。
さて話が進みすぎたので元に戻します。なぜ世代間のギャップのなかでひきこもりが生まれたのかに戻ります。
LGBTsや発達障害は世代間のギャップにより顕在化したとは思えません。
社会の進展のなかで所在が明確になった、社会が開花したから表現しやすくなったし、その身体科学的な条件も解明されてきたことが役立っています。
これらは偶然ではなく、時代状況のなかでほぼ並行して生まれているのです。
従来であれば抑止され、消されたままの存在が、表れやすくなったから世に姿を現したといえるのです。
ひきこもりはどうか。少し様相が違いはしないか? 時代の変化にうまく適合しないから、世に生まれたのではないか、そんな気もします。
いまのところその生まれた背景理由はそれほどはっきりと言われていません。
厚生労働省の説明では「さまざまな理由」によりとなっています。
ですが、コアな部分は、乳幼児期の虐待、少年期のいじめ、子ども時代から青年期にかけてのいろいろな種類のハラスメントが関係していると考えられるようです。
これらは後天的な理由(生後の育つ環境)です。
すなわち何らかの身体的な要素があるとしても生後の環境条件がひきこもりの要因として指摘されています。
身体障害、LGBTs、発達障害は先天的な要素が中心であり、そこが違います。
ただ社会的存在のしかたなどではいくぶん似た状態になります。
というよりかは身体障害者、LGBTs、発達障害者などが社会的に受け入れられないときは、ひきこもりの状態に近くなるのです。
ひきこもりに対応しようとした私がこれらの人とつながったのはこういう背景事情によるのです。
時代環境の変化とは社会状態の変化であり、それが急激に大きく変化しています。
私はここに親世代と子ども世代の間に、言い換えますと60年前世代と70年後世代の間にギャップが生まれています。
この大きなギャップをひきこもりが生まれ、顕在化するまでに大きくなった、もう1つの視角に加えたいと思うのです。
詳しくは書けませんが、1970年を象徴的に日本が高度の経済社会に到達したというのが分岐点になります。
そして1970年以後の社会の変化は想像以上に大きかったと知るのです。
もう20年以上も前になります。
ひきこもりの当事者と家族が集まる小さなミーティングを重ねていた時期があります。
それはその後、当事者の集まる居場所と、親の会にそれぞれ分かれたのですが、そう分かれる前の時期です。
今回の『ひきこもり国語辞典』に追加して入れる予定の説明ではこうなります。

● 無自覚ハラスメント  
不登校やひきこもりを話し合う場が開かれると聞いて、母と一緒に参加しました。
母はようやく私の不登校を認め始めたので、一緒に連れていく感じでした。
自己紹介の順が回ってきたので中学時代の母を話しました。
友達が訪ねてきたとき服装や言葉遣いが違うので家に入れないでいうのです。
大切な私の味方になる人でしたが、友達を失くしました。
学校に行けなくなりました。押し付けがましくて無自覚なハラスメントみたいな仕打ちです。
その会合では母は特に言い返すことなく、静かにそれを聞いていました。
母と一緒に帰ったのですが、母は謝ってくれました。つられて私も言いすぎてごめんと謝りました。
激しい場かもしれませんがよかったです。

数人から同じような話を聞いていたので、辞書の書き方には幅を持たせています。このときの親子の関係です。
親世代はおそらく懸命に誠意あるかかわりを子どもにしていたのではないか。
しかし、子どもには(しかもまだなんの意味も感じられない乳幼児期から)これから迎える時代条件に備える要素を内に抱えていた――とでも考えるしかないのです。
そこにギャップがあったのではないか。
私は多くの親から子どものひきこもりの相談を受けてきました。
いま世情を驚かせるような虐待になっているとはとても思えません。
しかし、子育ての悔悟を涙するお母さんは少なくありません。
60年前世代の親と、70年後世代の子どもがそれぞれ異なる時代環境に生きていく条件に向けて準備をしていた。
しかし、そこに大きなすれ違い、ギャップがあったと思えるのです。
これを先ほど挙げたひきこもりの背景理由に当てはめてみるとどうなるのでしょうか?
私はこのことを『ひきこもり 当事者と家族の出口』(2006年、子どもの未来社)に著しました。
出版社で付けた本の帯にこうあります。
「無意識の、善意の、執拗な愛の嵐のなかで呻吟する子ども・若者たち 当事者と親の悲しむべきすれ違いの相談を日々受けている立場から、ひきこもり問題の背景を探り、社会復帰のための現実的な「出口」を指し示す」。
本の中にある言葉を担当者が引き出して宣伝文句にしたのです。
出口を指し示したほど具体的なものはありません。
ですが私の思う中心的な点を端的に示すものでした。

現在進行中の世代間のギャップは、歴史的な社会の大きな変化が、世代間ギャップになって表れていると思います。
言い換えますと、現代はきわめて大きな時代の変革期なのです。
おそらく100年後に生きる人たちは私のような「60年前世代」が感じる社会を実感的に理解できなくなるでしょう。
本や映像などは残るのでそういう知識は得られても、生活実感は得られないという意味です。
ちょうど今に生きる私たちが平安朝期や奈良朝期に生きた人たちの生活実感を得られないのと同じです。
最近、網野善彦さんの『日本の歴史をよみなおす』(ちくま学芸文庫、2005年)で確かめたのですが、日本のいろいろな社会状態は14世紀(13世紀~15世紀と幅をとります)に大変容したようです。
いくつかのことが実証的に紹介されています。
先ほど平安朝期や奈良朝期といったのはそのためで、例えば江戸時代のことなら大きく違っていてもいくぶんはイメージできるというのです。
この14世紀前後に匹敵する大変化が姿を変えて現在進行中なわけです。
14世紀前後の変化はたぶん200年以上も時間幅がありましたが、現在進行中の変化は50年ぐらいのなかにあり、しかも変化の程度は格段に大きいのです。
70歳を超える私なぞは最近のSNS事情にはついていけませんし、AI(人工知能)がさらに社会の隅々に入るこれからの社会はもはや従うのみで意識して使いこなせるものにはならないでしょう。
いや従うことさえできないでしょう。
この社会の状態変化は国のレベルで、社会レベルで進むだけではなく、家族の中にも生まれているとみるのがむしろ当然です。
言い換えますとこれが親子間のギャップを生み出している1つの背景理由です。
親子間のコミュニケーションの大事な役割を否定する気はありませんが、こういう実際の背景もあると知っていていいでしょう。
親子間のコミュニケーションに必要なのは、理解しようとするスタンスです。
子どもは自分とは異なる人格を持つ人として大事にする意識がさらに強くなるでしょう。
それでも理解できないものはあります。
だからと言って否定的に考えることでもないし、親ならではの信頼関係はできます。
私はこのような世代間ギャップという意識に気づかないまま、親の考えや事情を周りに来ているひきこもりの経験者に話した時期もあります。
そうしたところ「親の肩を持っている」と詰め寄られてまいったこともあります。
そういう経過をたどりながら少しずつ認め合う関係をめざすことでいいのではないでしょうか。
誰にとってもそれしかできないのですから。
 

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