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母音中心の日本語とパトス的ロゴス

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母音中心の日本語とパトス的ロゴス

情的思惟で悲壮的に向かう感受性
*少し脱線します。梅原さんのこの見解に私が魅了されたのは『美と宗教に発見』(講談社文庫、1976)所収の小論文「壬生忠岑『和歌体十種』について」によります。 壬生忠岑は平安時代前期の人で、勅撰集『古今集』(905年成立)編者の1人です。 忠岑は和歌を十種類に分類しました。和歌における幽玄体は13世紀に藤原俊成が提示したのですが、忠岑はそれに先行して高情体とし和歌十種類の最高体としました。 その感情分類における深い分析を梅原さんは高く評価しました。 「かなり精密な美的感情の分類であるばかりか、そこに一種の感情の発展運動さえ認められる」といいます(178p)。


感受性の色合いの強い日本人の精神文化がどのように生まれ、広まっているのか。
それを日本のおかれた自然条件、そこから生まれる家族、そして家屋という物的客観的なころからみてきました。
もっといろいろ多くの背景理由がありますが、次には和辻哲郎さんがインド哲学の特徴として述べた情的思惟をパトス的ロゴス、として引き取った(はず)梅原猛さんの意見を見ます。
梅原猛『美と宗教に発見』(講談社文庫、1976)はいろいろな時期に書かれたものの論文集です。その中から引用します。
ヨーロッパの著名な批評家たち(リップス、ウティツ、リード)が日本文化の特色を、論理的(ロゴス的)というよりも感情的(パトス的)と言うのを受けて、梅原さんは、いわば“その通りです”と応じます。
梅原さんはその代表的な一例を古今集(905年成立)に表われる精神性に求め、次のように描きます。
「可能性と現実性の矛盾が意識され、可能性が現実性に圧倒されるとき、その原因を外的な敵対者に求めるならば、そこに怒りの感情を生じ、またその原因を内的な己れの無力に求めるならば、そこに罪の感情が生じるのであるが、古今の詩人たちはむしろ無常な運命そのものに求めた。
その時彼らの感情は、悲哀の色に染まり、日本的感情の基礎をつくりだしたのである。
異民族のいない国土が、怒りを他者に求めさせない原因であったし、また自然に違和感を感じなかったことが、超越的な神を求め、自分の無力感を神への罪と感じさせなかった原因であろうが、このような感情の形成に仏教が大きな役割をしたことは否定出来ない」(144-145p)。
短縮すればこうなります。
「日本の民衆の心の底を流れていたのは、客観的な悲哀の美学でも、剛健の美学でもなく、古今から直結する主観的悲哀感の美学であったと思われる」(149p)。
ずいぶん離れたところから日本人の感情や情緒を説明しだしたものと考えるでしょう。
もう少しお待ちください。

ある環境条件におかれた人に主観的悲哀感が強くなるという土壌が敷かれており、感覚鋭くそれを察知する、その結果が内向的に向かい、ひきこもるという構図が見える気がします。
梅原さんは、この事態を認めるばかりではなく、なぜそうするのか(そうなるのか)をさらに追及しています。
「感情は、理性と違っているが、それにはそれなりの厳密なロゴスがある。この感情のロゴスをねばり強くとらえること、それが新しい精神の把握の方法である」(212p)となります。
梅原説の説明をここまでで終えましょう。


角田さんの説を裏付けるかのような日本語の語彙の特徴を表わした説明があります。

感情表現の多い日本語の語彙

「われわれは近代ヨーロッパ美学の一つの根拠が、感情にあったことを知っている。
バウムガルテンにより作られた美学Ästhetikという言葉は、文字通り感情論を意味している。
美は正に理性ではなく、感性に属すべきもの、したがって美を論ずるには感性論を論ずる必要があるというのが、このÄsthetikという言葉の意味である。
ところが、西洋ではこの感性という言葉には、理性にあらざる一切のもの、感覚も、感情も、欲望も、意志も、一切の非理性的なものが含まれ、美学、すなわち感情論は、感覚論でもあるし、同時に感情論でもあったが、この美学概念のあいまいさを純化し、美を専ら感情の側面から考えようとしたところに、カントからリップスに到るまでのドイツ美学の発展の方向があったのだろう。…
もしこのように美と感情が深い相関関係にあるとすれば、美意識の構造を問うことは、その美意識を形造る構造を問うことになる。
したがって、われわれが美的神秘主義者の美しい美の礼賛の言葉に別れを告げ、美の構造、美の秩序を問おうとするとき、われわれはその美意識を構成する感情の構造を問う必要がある。
一体、感情に秩序があるのか。感情というものは、よく人が言うように全く非理性的であり、何らの秩序も構造ももっていないのではないか(211p)。
このように自問した後で次のように答えています。
「美を理論的にとらえること、感情を感情的ではなく、主観的でもなく、理論的に、客観的にとらえる方法」を提示し、」

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