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江戸時代の農業開発と家族制度の変化

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江戸時代の農業開発と家族制度の変化

川島博之『食の歴史と日本人』(東洋経済新報社、2010)には、農地開発と農業技術の向上が婚姻・家族関係の変化につながる興味深い記述もあります。
これは江戸時代に関するもので、1960年以降の高度経済成長には直接には関係しません。
しかし、高度経済成長時代に直面した農業や家族制度がどのようなものかをうかがい知る材料になります。その部分の長い引用文です。

「歴史人口学は、この時代に人口が増加した理由として、婚姻革命と小農の自立、農民が貨幣に接するようになり生産意欲が刺激されたことを挙げている(鬼頭 2000)。
ここで、婚姻革命についてもう少し説明してみよう。
歴史人口学が教えるところによれば、室町時代までは、親や兄弟、また、下僕、下女などが一緒に暮らす大家族が一般的であったようだ。
それが江戸時代になると、現在と同じように、親と子およびその祖父母といった直系で構成される小家族に変わっていった。
このような直系で構成される家族は、戦国時代末期に先進地帯であった現在の大阪府、京都府、滋賀県のあたりに出現したが、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康が京に上って天下を統一する過程でその実情を知り、尾張や三河にも導入したとされる。
また、彼らが全国を統一したことから、新しい家族制度が全国に広まった。
小家族が行う農業は、中世以来の大家族が行う農業よりも効率がよかった。
そのために、小家族制をいち早く導入した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は税収のアップが可能となり、それによって全国の覇者になることができたとも言える。
江戸初期は人口だけでなく農地が増えた時代でもあった。
平和な時代になり、戦争による領地の拡張が不可能になったために、大名たちは競って領内の開墾により石高を増やそうとした。
ここで、農地を開墾し、開墾した農地で耕作を行うには労働力が必要になるが、領主はこの要員に農家の次男、三男を充てることを考えた。
先に述べたように、15世紀前半までは大家族制が主流であったが、その制度の下では、次男、三男や下僕、下女として主人に仕えた人々は、結婚しないことが多かったようだ。
しかし、江戸時代初期になると、領主が農地の拡張に熱心であったことから、積極的に次男や三男を分家、独立させた。
江戸初期に家族を構成する人数が減少したことは、残された宗門人別帳などからも確認できるとされる(鬼頭 2007)。
次男、三男が独立して家を持つようになったことは、日本人の気質を大きく変えた。
次男、三男は長男の下で部屋住みとして暮らしていたのであれば、一生懸命に働いても、得られたものは長男かもしくは長男の子のものになってしまう。
しかし、分家して嫁をもらえば、働いて余剰が出た分をわが子に引き継がせることができる。
このため、直系で構成される小家族は、家族が力を合わせて一生懸命働くようになる。
この江戸時代初期に生じた現象を、…速水融氏は「勤勉革命」(industrious revolution)と呼んでいる(速水 1989)。
それは、耕作のあり方にまで及んだ。
耕作はなるべく均一にいったほうがよいが、田畑を耕すのは重労働であり、そのため多く文明では耕作に家畜を用いている。
日本では一戸の農家が耕す面積はそれほど広くない。
通常は1ha程度であるが、それでも中世には牛や馬を用いた耕作が普及していた。
しかし、牛や馬を用いた耕作は荒いものになりやすい。
それが、江戸時代になって直系の家族により耕作が行われるようになると、決められた農地からより多くの収穫物を得るために、牛や馬に代わって人間が耕すようになった。
人間のほうが細かな部分まで丁寧に耕作できるのである。まさに、勤勉革命である。
このことは、日本において家畜飼養頭数が少ないことにもつながっている。
(中略)勤勉革命は男子だけに生じた現象ではない。
分家は婚姻を伴うものであるから、それには当然女性も関わってくる。
中世では、下女のようなかたちで一生を独身で過ごす女性も多かったと思われる。
下女の労働意欲が一概に低いとは言えないが、下女の労働意欲を維持することは難しかったのではないであろうか。
その独身で終わるはずだった女性が、江戸初期には結婚して母親になるチャンスに恵まれた。
母親が子どものために労をいとわず働くことは、いつの時代も変わらぬことであろう。
小家族の労働効率が高かった背景には、家事に育児に野良仕事にと、懸命に働く母親の姿があったに違いない。
先に、小家族制を早い段階で導入した尾張や三河において経済が発展し、その地方の領主であった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が全国の覇者になったと述べたが、その経済発展の秘訣は女性の活用にあったとも言える。
いつの時代でも、女性の活力をうまく引き出す者が、世を制する。肝に銘ずべき教訓である。
このように領主の領内開墾政策と婚姻の変化が、江戸時代における最初の100年の人口増加をもたらした。
日本で最初の全国規模の人口調査が行われたのは1721年であるが、このときの人口は3128万人(鬼頭 2000)であるから、1600年の人口を1200万人とすると、120年間で2.6倍になったことになる。
これは、それ以前に比べると驚異的な増加である」(P28-31)
「江戸時代に入ると農地面積が増加するが、北海道を除く日本列島ではそれまでも開墾が行われていたから、残されていた土地での開墾は楽な仕事ではなかった。
戦国時代に培った土木技術が生かされたといっても、江戸時代における開墾はそれまでよりも格段に難工事になった。(中略)
江戸時代における農地拡張は、それまでの農地拡張とは異なりたいへんな苦労を伴った。
コメ生産に執着した日本の農業では水の管理が重要であったが、大規模な治水工事は、ときには参加する人々の命をも奪うものでもあった。
そのようにたいへんな思いをして作った灌漑用水路から水を引いて作られるコメであるから、それを大切に思う心が生まれたとしてもなんの不思議もない。
また、この時代に中世的な大家族から近代につながる小家族へ移行したことも、ものを大事にする心を育てることにつながった。
遠縁のものから使用人までが暮らす大家族であれば、ものを大事に使う必要はない。
程度の差こそあれ大家族が所有しているものには、コモンズの悲劇が生じやすい。
江戸初期に大家族から小家族に移行したのであるが、小家族ではものを大切に扱い、これにより財貨を残すことができれば、自分が使わなくとも子どもが使うことができる。
この小家族意識の広がりが、一粒のコメも無駄にしてはいけないとする考え方を生んだのだと思う。
食の歴史から見たとき、江戸初期において、今日につながる日本人の行動様式が作り出されたと考えられる」(P202-203)

※出典
鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)
鬼頭宏『図説 人口で見る日本史—縄文時代から近未来社会まで』(PHP研究所、2007年)
速水融「近世日本の経済発展とIndustrious Revolution」、所収は速水融・斎藤修・杉山伸也編『徳川社会からの展望—発展・構造・国際関係』(同文館出版、1989)

ここに紹介されている小家族とは、現在の核家族やニューファミリーとは似ている面はありますが同じではないでしょう。
本家は基本的に三世代同居家族であり、そこから家族が分離し、比較的近隣地域に居住し、本家を中心につながる利益協力的な血縁家族体です。
戦後日本がそしてなお今日も一部に残る家父長的家族制度の原型とも言えます。
今日では旧体制ですが、生まれた当時は社会発展に貢献する役割をもち、人々により公平な条件をつくりだしたのです。
農業が国民の多数を占めていた(人口の85%が農村に住んでいたという)近世以来の日本の家族制度の経済的社会的な中枢をつくっていたと思われます。
この協力的な血縁家族体は下僕・下女、遠縁を含むより広い眷族(けんぞく)として、続いてきました。

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