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流通部門から見る社会経済の変化

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流通部門から見る社会経済の変化 5-1

1967~68年ごろのある日、勤務先の病院近くにある大阪阿倍野の狭い路地を挟む商店街を歩いていたときです。みると店頭にイチジクが並んでいます。
子どもの頃、田舎の農地の境目にあって勝手に採って食べていたイチジクが、商品として並んでいます。軽い衝撃を受けました。
これは大きな商品流通上の変化があると感じたのです。といっても今日イチジクが有力な商品となっているわけではありませんが。
商品の流通、言いかえれば商品の生産から消費者に届くまでの過程に大きな変化があったと思いました。
それは資本の流通過程として扱われ、生産者あるいは輸入業者の手から渡される過程です。末端の小売業者(商店または直接販売者)の間には卸売業(問屋や仲買人)が関係します。
この社会経済関係の変化が1980年代以降の「社会的ひきこもり」にどうつながるか、全く予見できませんが何かあるかもしれません。
そう思いつつ手にした1冊が石井寛治・編『近代日本流通史』(東京堂出版,2005)になります。
明治維新のころから2000年前後までの約150年間の変遷を分析したものです。
論理は難しいけれども取り上げられる実例は身近なイメージも持ちやすいという不思議な感覚で読みすすめました。
ねらいは「高度経済成長下の大量消費社会」以降の第6章から第8章になります。

ところで私の子ども時代、とくに小学生の途中までのわが家が漁業集落の中の一商店でした。
食料品を中心にした小売店で、現金販売のほかに、掛け売りもしていました。この集落の当時の人口は2000人程度であったと思います。
店頭に並ぶ商品は、3つのルートからの仕入と思います。母がときどき早朝の列車で1時間ほど先の出雲今市(島根県)に行き仕入れてきた物。
ときどき問屋か菓子製造会社の営業社員が来て父と商談をして仕入れた物。
近くの農家から渋柿を仕入れて母が湯づけで食用に加工して(一種の食品加工)作った物です。
私はサトイモを水と一緒に木樽に入れ、板を回転させ皮を除き食用しやすくする手伝いをしたことを思い出しました。
『近代日本流通史』は東京・大阪など大都市域の基本的で大きな変化を見ていますが、地方の実際の様子は数字で扱われるだけで具体例はありません。
それらは社会経済の動きよりも、生活史の一部として、多くの人がそれぞれの姿形でもっているものです。
『近代日本流通史』の説明が、社会的ひきこもりの発生に結びつくものは少ないです。
それでも日本の経済社会の推移を知るいくつかの点を記録しておきます。
本書は「近代」を対象とするので江戸時代末期から流通過程を描いています。
昭和の高度経済成長期の様子を見ようとする立場では、多くは省略しますが、江戸幕府のやり方で1つだけ記しておきたいことがあります。
これが第1部第1章第1節「自由貿易の開始から産業革命へ」、本文最初の説明です。

「1856(安政3)年に下田に乗り込んできた駐日アメリカ総領事T・ハリスとの日米修好通商条約を巡る交渉で、幕府側の岩瀬忠震(いわせただなり)らは、関税自主権・領事裁判権、最恵国待遇の3大問題については、あっさりと不平等な条項を認めた反面で、開港場の選択と国内通商の可否については厳しくハリスと対決した。
来日途中にシャム(タイ)と締結した条約なみに国内通商の自由を要求したハリスも、居留地以外での通商を強要するならば戦争に訴えても阻止するという幕府の強硬姿勢に要求を断念せざるをえなかった」(p2-3)

アメリカ、イギリスはタイや中国(清)に対して国内通商を認めさせたのに日本(江戸幕府)もその後の明治政府も国内通商禁止を守りました。
私の記憶では、日本は開国時に欧米と不平等条約を結んだことを習ったのだが、国内通商の禁止を初めて知りました。
これはアジア諸国の多くがその後植民地化されていったのに対して、日本がそうならなかった理由の1つと考えられます。
江戸時代には、かなり経済的に発達した日本は、明治に入って資本主義的な(富国強兵策による軍事的色彩の強いもの)産業革命に進み、植民地化を免れるとともに、自ら植民地領有国になった理由にもなります。
この後の明治期から第1次世界大戦、第2次世界大戦後の多くの変化は省略します。

私は日本の高度経済成長期をおおよそ「1960年ごろから1970年すぎ」と書くことが多かったのですが、本書ではそれを「1955-1973年の19年間」としています。
これが定着した理解であろうと思いますので今後はこれにならうつもりです。
高度経済成長の後、1974年にGDPの減少を招きますが、その後は成長し、この時期を「安定成長の時代」といいバブル経済崩壊の1990年までつづきます。

プラザ合意の経過
次に挙げておきたいのは、1985年のプラザ合意前のことが書かれていますので、その部分はノートをしておく意味はあると思いました。
1971年8月 ドルショック(ニクソンドクトリン)
1973年 第1次オイルショック
1974年 戦後初めてのマイナス成長
———企業収益の悪化、インフレの進行→総需要抑制政策
———不況対策、財政出動、雇用調整(就職難)、輸出拡大
1976年 輸出に牽引される形での景気回復
———イラン革命、第2次オイルショック、貿易収支の大幅黒字、円高
———アメリカは国家財政と国際収支の両方が赤字になる
1985年9月 プラザ合意(日米英仏独)=アメリカ・ドル救済策
———金融緩和(公定歩合2.5%)、不動産・株式などに資金流入
———地価・株価が急上昇(バブルの発生)
1985年5月 公定歩合2.5%→3.25%
1989年末 株価38915円
1990年3月 株価3万円台
1990年8月 公定歩合 6.0%上昇
1990年10月 株価2万円代(バブルの崩壊)

商業資本の構成の変化(プラザ合意につづくアメリカの外圧と並行)
1991年5月 大店法(大規模小売店舗法)の改定(大店法は1973年に制定)。
改定は、日本国内の流通機構が、外国商品の輸入を制約しているのを解消するため——1000平方メートル未満の出店は原則自由。開店時間・休業日数は大幅に緩和された。
2000年6月 大規模小売店舗立地法——周辺住民の生活環境の調査(駐車場・騒音防止・産業廃棄物の処理などの規制)

「戦前の百貨店法制定をめぐる中小小売業と大規模店舗との対立は、戦後の高度経済成長期に大手スーパーが成長したことで三つ巴の対立となった。
安定成長下における消費の伸び悩みのなかで、小売業に形成された過当競争構造は中小、特に零細小売業の商品数や従業員数の減少を引き起こした。
経営状況の悪化が兼業化や家族労働の過重負担により糊塗(こと)されて、直ちに廃業に結び付きにくい零細な個人商店の減少傾向は、商業統計に示された数字以上に深刻な事態が進行していたと考えるべきである。
大手スーパーの郊外での出店ラッシュが商店街を衰退させ、これ自体が地域の社会問題でもあった。
店舗数で圧倒的な比重を占め、地域社会の雇用の受け皿として機能してきた中小・零細小売業のこうした衰退は、単なる流通政策を超えて社会政策的な意味合いでも、その対策が必要とされるものであった。
言い換えれば、流通規制の緩和問題は、同時に雇用や地域振興の観点を包括して考えるべき問題であった」(P196-197)

「高度経済成長の時代は、第1次オイルショックを機に安定成長の時代に転換する。
高度経済成長は農村から都市への人口移動と耐久消費財生産を軸にした都市工業化の現象でもあった。
就業者別の産業構成を見ると、第1次産業従事者が急速に減少し、第2次、第3次産業構成が拡大した。
しかし、安定成長期に入ると第2次産業の就業者構成が頭打ちになるのに対して第3次産業は雇用吸収力を維持し、1974年には第3次産業従事者は就業者の過半数を占めることとなった。
このことは日本の就業者の半分以上が財の生産に携わらず、消費のみを行うことが可能な段階に日本経済が到達したことを意味する」(P198-199)

これは地方の経済社会への打撃、人口減も強まりました。
日本の安定成長期とは低成長型経済社会になり、国内企業の外国進出と国内産業の空洞化を招きました。それが就職難の時代につながります。
ブラック企業の増大は雇用者側優位な条件のなかで、一部の雇用主のなかに極端を形で強まった労働条件の悪化です。
就職者を職業人(社会人)として成長させる機能の消失でもありました。
これらは「社会的ひきこもり」発生の要因の1つと言えますが、流通過程からそこまで直接に言及するのは中間に生まれた事情を説明する必要があります。

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