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人材養成バンクを振り返る

〔2010年07月13日〕
「片隅にいる私たちの想造展」の7月1日付けにTさんから、3件のコメントが入っています。
今回はその最初のコメントについてお答えいたします。

人材養成バンクについてはこのブログの7月1日のところも参照してください。
重複するところもあります。
Tさんは独自の人材養成バンクの輪郭を提示して、このようにすれば上手くいくはずではないか、と教えてくれています。
その提示の両輪の活動として、
(1)企業側に引きこもりを理解していただいた上で、協力をお願いすること、
(2)当事者はコミュニケーションを練習して人馴れをすること、を挙げています。

(1)の点、企業側の理解はそんなに簡単でしょうか。
その前に一般人はそんなに引きこもりをよく理解するものでしょうか、
もっと身近に家族はちゃんと説明さえすれば引きこもりを理解してくれるのでしょうか。
困難はそこにもあります。

世にはいろんな人がいますから、「企業側に絶対いない、1人もいない」とはいえません。
ある程度、しかも必要なポイントにある程度いれば事態を進めることは可能でしょう。
私に企業への橋渡しをして欲しいといった人も似ていたのでしょう。
私がそれにのって人材養成バンクを始めた気持ちもそのあたりだと思います。

ここで企業側が理解するとは、頭の中で想像できるレベルでは間に合いません。
当事者を目の前にして、何らかの実際の作業をある期間続けてみるなかで、
その人の行動の仕方、作業のしかた、周囲の人との協同関係、作業外の振る舞いを、
特徴・弱点を含めて全体として了解できることとしましょう。

支援者が説明するのは企業側に頭で想像できるレベルの理解です。
企業側の理解の程度は推測するしかありませんが、「やってみましょう、来たい人がいればよこしてください」という答えはかなりありました。

「飲食関係の参加事業所に呼びかけてみますよ」という人もいました。
受け入れる困難さをあまり想像できない人に、お願いする側が“本当は難しい”と強調するのも変なものですが、そんな事態もありました。
なぜならその企業での対人関係や社会性を“養成”するのがお願い内容になるからです。

Tさんは「供給される「誠実な労働者」は企業から好評を博し、協力企業も増えていき、マスコミにも取り上げられたりすれば、
ひきこもりの職歴なし人間を敬遠する日本の企業風土を変えられたかもしれない・・・のだが」といっていますが夢です。

かくいう私も同じ夢を持っています。
いまは創作活動の場面でそれをすすめています。
道は遠いけれども、ミニ教室を開く企画レベルにたどり着きました。

企業側に理解を求めるとはいえ、支援者が引きこもりをあれこれ言葉にして伝えるのでは未完成(というよりはほんの入り口)です。
当事者が、そのつもりで企業に行き、最低限の安定性を保ってそこでの仕事にとりかかることができなくては、始まりません。
企業側が、理解の次の段階に進めません。

結果としては、人材登録バンク登録者の大多数は企業の門に入る以前の状態でした。
何人かは門をくぐりましたが、所定の日数に到達せずにギブアップせざるを得ませんでした。
唯一、5日のコースを十人以上完了したのは、パソコンの初歩を学ぶ養成コースでした。
その人たちはそこで引き続き仕事に向かう状態にはすすめませんでした。

企業側の人に理解を求めるといっても、この状態で引きこもりを「理解しています」といわれたとしても、
実はほんの表面的なことであって、関わりつづけ、育てていく状態には入っていけません。
引きこもりのその状態を企業側に理解していないためとはいえません。
こちらはお願いする立場です。
普通の従業員ではありません。

引きこもり経験者にとって大事なこと必要なことはもっと手前にあるのです。
それが(2)「当事者はコミュニケーションを練習して人馴れをする」に当たるでしょう。

(2)Tさんが両輪の活動の1つとしてあげた「コミュニケーションを練習して人馴れ」というのは
おおよそ私のいう対人関係や社会性と重なるものです。
7月1日の「ウィキペ・ディア不登校情報センター」では次のように書いています。

「それ以上に優先すべきことがはっきりとしました。
対人関係をつくるなかで、不安感・自己否定感覚を低くしていくこと、安定感・自己肯定感を高めていくことです。
後にその過程はまた、人間不信を低くすること、子ども時代や乳幼児期の未達成の課題を埋め合わせること、
先天的要素(体質・気質)も関係しているとわかるのですが、
ともかくまずは対人関係をつくるのがスタートになると確信したのです」。

それ以降の事態はだいたいこれに基づいています。
その進め方が違う、これが足りないあれがなかった、いや根本的な方針や考え方が間違っている…などなど言いたいことはあると思います。
ともかく取り組んできたことは確かで、不十分なこともいろいろあったことも事実です。

この部分では人材養成バンクをなぜ続けなかったのか、を問題にしています。
私は人材養成バンクの経験をこのように受けとめ、判断し、より重要なことに軸足を移してきました。
頭の中で想像した空想的な経験ではなく、かなり大きな収穫がある失敗体験でした。
時期尚早であり、方法手順の違いはありうると思いますが、これを無視して繰り返すことはできません。
このような試みは、これならできると確信した人が取り組むことなく目標達成には近づけません。
だから再開しないのです。

なおTさんは「参加した人の証言」を聞いたことになっていますが、本当でしょうか? 
そのような人のつながりを思い起こせないのですが。
また「言い訳をする為に、「不登校情報センターで働けるようにしてほしい」と引きこもり当事者から言われた事を引き合いに出し、
全てを引きこもり当事者の責任に転嫁するのは、無責任で卑怯な便法であり、支援者の風上にもおけない不誠実さである」としています。

私が不登校情報センターで取り組んでいることは、ほとんど全部が当事者の要望があったものです。
言葉はなかったかもしれないが、求めるものを形にすればこういうものになるというものです。
自分の頭のなかに発生源があるものは取り掛かりにくいものかもしれません。
その当事者の要望から生まれたもので、上手くいかなかったものを当事者の責任に転嫁したこともなければ、その必要もその利益もありません。
転嫁して何かいいことがあるのでしょうか。

Tさんに申し上げます。
自分に責任がかかってきたときそれを受けとめる力がない状態の人は、責任の転嫁を図りたくなるものです。
自分はそうだから、他の人もそうであると思うのです。
それを邪推といいます(客観的には投影ともいいます)。
そういう自分の姿を晒しては欲しくないです。
7月3日の「片隅にいる私たちの創造展」のコメントに対する感想にあった「晒す」とはそういう意味があります。

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