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Center:2001年9月ー社会参加の到達目標と中間目標

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社会参加の到達目標と中間目標

『ひきコミ』2001年10月号〔2001年9月〕

(1)2つの到達目標

20歳以上の引きこもりの人にとって、社会参加の到達目標として、私は2つを設定できるように思います。
一つは、学校復帰や就職・就業です。
もう少し一般的な表現をすれば、家族以外の集団的な場の一員として継続的に参加していることです。
これは周囲の人にわかりやすく、また社会参加という場合に求められやすい内容です。
引きこもりの経験者にとってもわかりやすく、納得しやすいものです。
就職に関しては、企業側の正社員採用がきわめて低調で、雇用状態が流動的になっています。
当人の願いやそれを実現できそうな精神状態だけでは達成されません。
それで、継続的なアルバイト就業やときには継続的なボランティア活動なども含めて考えることにしています。

学校復帰の場合は、学籍があるだけでは十分ではありません。
不登校、休学になっている人はもちろん、放送大学、通信制高校・大学に籍をおくだけという人もいます。
これらは学校復帰とはいえません。実質的な学校生活があるというのが学校復帰です。
もっともたとえば通信制高校に入学し、徐々に学校生活に入る道がありますから、この面から通信制高校に入学することを否定的にみているわけではありません。

この学校復帰や就職・就業はわかりやすいのですが、しかし目線の高い目標であり、人によってはそれにこだわっていては、適切な目標とはいいがたいこともあります。
社会参加の目標になるもう一つの見方は、同世代復帰です。
年齢が下がるほど同世代は同年齢と同義になり、年齢が上がるほど同世代とは年齢の幅が広くなります。
同世代のなかで継続的な対人コミュニケーションがとれるようになることが、社会参加(少なくともその基盤の確立)と言えるでしょう。
対人関係で継続的なコミュニケーションがとれないのは、人を目の前にして、どの程度受け入れるのか、どの程度受け入れないのか、相手によってうまく調節できないことによるものと思えます。
人と人との関係は、常に揺れていて一日一日微妙に違ってきます。
それを理性と感性の働きでコントロールするのです。
コミュニケーションがとれないのは、このコントロールがうまくいかない、受け入れの判断のセンサーが未完成であるためなのでしょう。
相手を受け入れるセンサーが未完成であることとは、ときには相手を無防備に受け入れて傷ついたり、逆にそういうことを恐れて無条件に心を閉ざしてしまうことになります。
自分の心を相手に開くこととは、プライベートな情報の開示をともなうことですが、それは相手との関係のなかで程度や内容が自然に調節されていきます。
心のセンサーが未完成であるときにはまた、何も話さない、何も話せないことになります。
また相手は何を望むのかを先取りしてそれとつきあっていく、そのために神経をすりへらしてくたびれ果ててしまうことです。

この心のセンサーの完成を目指して練習を重ねていけば、対人コミュニケーションがとれる力がつくようになります。
対人関係の練習には年齢間の差が大きいほどそのコミュニケーションは楽であり(年齢差が大きいほど情報内容や考え方に差があることが苦にならない)、年齢差が少なくなってもコミュニケーションが楽になることが同世代復帰なのです。
社会参加の到達目標の2つのうち、学校復帰や就職は外見上目につきわかりやすいものです。
同世代復帰はわかりにくいのですが内面的でより本質的なことです。
両者は、実態としては必ずしも同時進行しないこともあります。

(2)中間目標の追加事項

セルフラーニング研究所で「らくだ教材」を開発し、普及している平井雷太さんと話をする機会がありました。
平井さんは「ぼくは昔から友達はいません」というのです。
「友達とあまり意味のない雑談的な話をするよりも、友達でなくてもいきなり本筋の話ができる人のほうがいい」とも言っていました。
たしかに友達でなければ、雑談するわけでもなく、横に座っているのは難しく、テーマを設けた議論とか、仕事上の話など実のある話を進めるしかありません。
そういう意味で平井さんの話には、私の経験からもうなずけることがあります。

あるところに就職した20代後半のKくんがいます。
働き始めて3か月以上になりますが、職場においては同僚と雑談することもなく、一緒に食事をしたこともないと言います。
Kくんはこれでいいのか、これではダメではないか、このまま仕事を続けていけるのか、仕事をやめざるをえないのか、複雑な気持ちでいます。
仕事上のことでいろいろわからないことがあっても、上手く誰かに聞き出すことができず、仕事上の能率はよくないと実感しています。
Kくんが、今の状態に不満足感、不安感がある限りにおいて、雑談に入っていけないこと、対人コミュニケーションの力が不足していることは、Kくんにとって乗り越えていくテーマだと思います。

しかし、平井さんの話を聞いて、その乗り越えていく方法は、一つではないかもしれないと思えました。
コミュニケーションの力を高め、雑談にも入っていけるようになることは一つの方法でしょうが、それだけではないように思えたのです。
たとえば私は飲酒が全然できないため、酒の席のコミュニケーションは苦手ですが、それは飲酒できるようになることが唯一の方法ではない、というのと同じではないでしょうか。
平井雷太さんの話からすると、友達ができることと、対人コミュニケーションの力がつくこととは、同一の範囲のこととか合同体ではなさそうです。かなり重複する部分はあってもやはり2つの違う局面でしょう。
平井さんの場合は、友達はいない(できない?)けれども、対人コミュニケーションの力はあるからです。
言いかえると、友達関係における雑談はできないけれども、友達関係以外のテーマのある話はできるのです。

平井さんはそれを自分にとって好条件であるとも考えているのです。
平井さんは、引きこもり状態からの一つの出口を示しているのです。
Kくんの場合は、職場において友達はできないし、対人コミュニケーションの力も弱いと感じています。
Kくんが今後どういう展開になっていくのかはわかりませんが、彼の話からすると、仕事上のコミュニケーションがとれれば前進できるし、それが努力目標になるように思いました。

そうすると、私がこれまで実感してきた、あるいは提案してきたことは訂正していかなくてはなりません。
複数の友人をもつことを私は社会参加の中間目標と考えてきました。
それを撤回するものではありません。しかしそれとともにもう一つ加えたいのです。
社会生活上などで設定された事柄、あるいは特定のテーマについて、報告、連絡、相談、意見交換できるコミュニケーションの力をつけるというのが中間目標にできるのではないか、そう感じています。
Kくんの場合は、就職した後にこのテーマが目標になります。
しかし、一般に仕事に就く前の目標あるいは練習方法が考え出されなくてはならないでしょう。
それは「居場所における雑談以外の場づくり」という不登校情報センターが抱えているテーマとも重なります。
居場所に集まってくる人の何人かから「不登校情報センターを生産的な場にしてほしい」という要望や、彼ら、彼女らのなかのイベントの企画やサークルづくりの動きとも軌を一にするものなのかもしれません。
そういう意味で、平井雷太さんとKくんという2人の最近の話(というよりは、2人の話の私側の一方的な解釈)は、とても有益な気がしています。

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