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Center:2006年5月ー引きこもりからの仕事起こし(その1)

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目次

引きこもりからの仕事起こし(その1)

[1]労働の視点での回顧

4月に入ったところで、労働基準監督署に出向きました。
あゆみ仕事企画として取り組んできたことを「労働」という面からみればどのようなものかを確かめるつもりでした。
特に「最低賃金」と「雇用・請負」の2点に問題意識がありました。

ふり返ると不登校情報センターでは「収入になる」取り組みを4年積み重ねてきました。
それが、「最低賃金」とか「雇用なのか請負なのか」を問われる状態になったのです。
取り組みの前進でここまでこられたという一つの証拠になるのかもしれません。
これらの取り組みと制度との適合性をどう処理するのかは一朝一夕にはできそうもありません。
法律的な知識がないのに加えて、引きこもりに関しては法律上の要素は十分に整備されていないからです。

労働基準監督署で相談してみて法律的な条件を研究すべき余地はいろいろあるとわかったとしても、複雑さのために難しい面を感じています。
もしかしたら労働関係諸法規は、引きこもり経験者が収入を得る業務に就くための中間過程を抑制する作用さえあると思えるのです。
相談した担当者は、これらの事情を推し測りながら答えてくれたと思います。

私は「ワークスペースの向上をめざして」(『ひきコミ』2005年10月号)という文章のなかで、引きこもり経験者の労働生産性の低さについて、次のように書きました。

「不登校情報センターにおけるこの3年間ぐらいの実例からみて、生産性は(熟練する機会が少ないことを差し引いても)一般の非熟練労働と比べてもかなり低いものと覚悟しなくてはならないでしょう。
仕事量が増えてくれば、熟練によって生産性はいくぶん高まるとしてもです。
私の見るところでは、この生産性は、(1)仕事の速度の遅さ、(2)休憩時間の多さによって低くなるのですが、最大の要因は(3)自分で臨機応変の判断を避ける傾向によってより重大な影響を受けるのです。
ただ全員が平均してそうなるわけでもなく、個人差は相当に開きがあります」

この労働生産性の評価は私個人のもので、公式の判断を得ているわけではありません。
ですからこれに固執する気はありません。
しかしそれでも一般の非熟練労働と比べてもかなり低い、それでいて心身障害者に認められる程とは違う労働生産性に根ざした、労働過程(それは同時に、引きこもり経験者にとっての対人関係づくりの過程、社会性習得の過程でもあります)を容認・促進する法律的条件が必要なのだと思います。
 

このことを理解するために、私は不登校情報センターにおける「収入につながる取り組み」はどのように生まれてきたのか、どのような内容があるのか、どのような問題に直面しているのか・・・等々を記憶と記録をたどってふり返ることにします。
私はこれまでも不登校情報センターのたどってきたことをまとめてみたことがあります。
今回はまた「労働」という視点から、不登校情報センターの歴史をふり返ることになります。

[2]業務の自然発生

2000年の夏ごろ、引きこもり経験者の集まる「人生模索の会」には急速に多数の人が集まるようになりました。
いわば"引きこもりブーム"が始まった時期であり、不登校情報センターに関しては、文通用の個人情報誌『ひきコミ』の創刊を準備していたころです。

そのころは、まだ引きこもり経験者に仕事的なものを勧めていませんでした。
ある人が「仕事に就きたい」「アルバイトを始めたい」といえば、それを声援していた程度です。
実際、当時からこのフリースペースに来ていた人の中には、就職先を求める人は少なからずいました。

週1回のペースで、この人生模索の会の集まりはありました。
私はそれ以外の日は7坪ほどの一室で業務をしていました。
そのころの業務とは(いまもほとんどが重複しますが)、相談、情報収集と情報本の編集、それに必要なFAXや郵便物の送信・発送・進路相談会の企画・実施などです。
フリースクールやサポート校、高校などから生徒募集用の案内書を預かり、発送するという作業はすでに年1回か2回企画していました。

これらの業務はフリースペース(人生模索の会)の日以外にやっていたのですが、当事者の出入りが頻繁になり、該当日以外にも来るようになります。
私は作業をしながら、彼(女)らと関わることになったのです。
そのうち、彼(女)らのうちに、私の仕事を「手伝いましょうか」という人があらわれました。
当時、事務室にはコピー機がなかったので、「私がいってきます」とコピーをとりに行く人も表れました。
フリースクール等の状況をアンケートで集め、それを整理して出版社に渡して情報本にします。
この整理、清書をする作業を2人に手伝ってもらったことがありました。
このように私の業務の「手伝い」という形で当事者の作業が始まったのです。

フリースクール等の案内書をある地域の600人程に送付する作業も手伝ってもらったことがあります。
  進路相談会として公共機関などの一室を借りて催し物を企画し、受付や本の販売をしたことがあります。
これらの人には交通費や、「手伝い料」を支払った記憶があります。
「手伝い料」を支払ったり、交通費を支払ったり、食事代を支払ったりいろいろでしたが統一的なものはありません。

2000年に入って、文通用個人情報誌『ひきコミ』を編集・発行することになりました。
8月にその準備号を発行しましたが、文書入力は、パソコンやワープロを持っている人に分担してもらい、それらを集めて一冊にするというものでした。
これに対しても作業費は支払っていません。
 

当事者にとっては、不登校情報センターに来る第一の目的は、話し相手ができる、友人ができる、対人コミュニケーションの練習であり、これらの作業事体が目的ではありません。
そのような作業があることが、対人関係づくりを楽にする、緊張を分散するものとして役立ったと思えるのです。
この時期は、当事者にとっても楽しい時期の始まりであったと思います。

事務所にP社から中古のパソコンの寄贈を受け、置いてありました。
私は、それを知り合いの人に頼んで、主に不登校情報センターの活動内容を書いたホームパージを作りました。
これをCホームページとしましょう。

このパソコンを使って、Hくんがパソコンを教えようと言い出しました。
パソコン教室を開くのです。
そうしたら2人の教師が習うとやってきたのです。
Hくんはこのときからパソコン教室を始め、当事者も2~3人が交互に受講することになりました。
これは有料のパソコン教室で、記憶では1人2時間で1000円でした。
3人ぐらい同時に受講したのですが、教師の1人はノートパソコンを持参したので、事務所の1台のパソコンに2人が交代で着く形です。
Hくんは、この受講料を「収入」としたわけです。
不登校情報センターとして、教室料とかパソコン使用料をもらったわけではありません。
ここでは雇用も請負もなかったはずですが、もしかしたらHくんのは請負に当たるのかもしれません。

そのHくんが、不登校情報センターのホームページつくりを始めました。
彼は既にできているCホームページはそのままにして、別のホームページ(Hホームページとしましょう)をつくったのです。 
この制作費には代価を支払ってはいません。
制作を特に依頼したわけではなく、たぶんCホームページが更新されないままでいるのに不十分を感じて、Hくんは動いたのでしょう。
こういう仕事というか作業らしいことが、業務と意識されずに不登校情報センターの当事者のなかで、2~3年ぐらいつづいたのです。

ここで生じたことは、不文律ですが、「当事者の会としては人間関係づくりの小道具の一つのようなものであり、労働といっても、当事者にとって自分のつごうのいいときに来て、そこに自分にできそうな作業があればそれをする」というものでした。
この条件は、実際にはいま現在も維持されています。
それは引きこもり経験者が、対人関係をつくり、社会参加をめざしていく中間過程には欠かせない構成要素なのです。

[3]あゆみ書店開設の意味

2001年6月に、事務所をワンルームマンションの1室から、葛飾区新小岩にある第一高等学院の旧校舎に移りました。
作業・仕事に関しては以前のマンション時代と大きな変化はありません。
  事態に変化が始まったのは、2002年春に「あゆみ書店」と「喫茶店いいな」を開設したときからといっていいでしょう。
「喫茶いいな」は親の会のメンバー主導のもので、当事者が一緒にかかわり、やがて当事者の自主運営に任されました。

「あゆみ書店」開設以降の様子は、別表「収入になる取り組み等記録(1)」にまとめました。
あゆみ書店は、これまでの自然発生的な作業とは違って、計画的なものです。
まず書店員を募集しました。
当初は7人が応募し書店員になりました。
その意味づけは、いわゆるフリースペースのスタッフの役割を、きわめて薄くした要素を持ち込みたかったのですが、そうはなりません。
書店員として固定的にそこにいる状態がつくられたということです。
書店員の「出勤」は週1日か2日程度、午後1時から6時です。

書店員の収入は、本の売上げの20%です。
本は基本的には仕入品であり、平均して75%前後は仕入原価ですから、この20%支払いは、ほとんど利益の全部ということになります。
しかし本がそう売れるわけでもなく、仕事という面では空文化したのですが、書店員の「勤務時間」に比例配分で売上げの20%を支払い続けました。
当然、時間当たりの支払額は「最低賃金」とはほど遠いものです。
もしここで最低賃金を維持するとなればあゆみ書店は1週間で中止するしかなかったでしょうし、それは実態からみて冗談でしかありません。

あゆみ書店の開設の前から「不登校情報センターを働ける場にしてほしい」という声は何人かからきいていました。
あゆみ書店はそれに対する1つの回答でしたが、開店1か月以内に、その声に答えるだけのものにはならないことは明白になりました。
「喫茶いいな」とともに居場所を形づくる一要素以上にはならなかったのです。

移転前のマンション時代に人生模索の会の中に「30歳前後の人の会」というのが生まれました。
移転後は月2回ペースで開いていましたが、1年ぐらい続くなかで"中だるみ"状態になっていました。
Nくんが「30歳前後人の会をもっと活発にしたいのですが、どうすればいいでしょう」といってきました。

30前後の引きこもりの人とは、社会に出る(仕事に就く)という面では相当に追いつめられた状態です。
集まって話しをしているレベルにとどまっていては十分ではない人もいると感じていました。
話し合いから行動への進展が求められていたのです。
進展とは、その中心に仕事に就く点があるのですが、それは各人の意志・意欲に任されていたのです。
しかしそこには壁があり、多くの人にとっての行動目標にはならなかったのでしょう。

「不登校情報センターを働ける場にしてほしい」というのは、そこから出た言葉であり、それを私は全面的に受け入れるだけの余力と資力もなく、「収入になる取り組みを始めよう」と答えたのは、私にできることだったからです。

あゆみ書店は2002年3月30日に開設し、2004年夏に自然消滅してしまいます。
別表からみてわかる通り、それはフリースペース(人生模索の会)の参加者が多い時期に始まり、フリースペースへの参加者が急減することとともに役割を終えたのです。
「喫茶いいな」も実質的にはそれと同じことになりました。

[4]「印刷室+版下制作部をめざす」

「あゆみ書店」設立のあと、2002年の夏から秋にかけて、「収入につながる取り組み」のできる条件をつくるために動きました。
それは5つの形でともかく実現しました。
一応の形をみた日付順にいえば、
(1)仕事おこし・仕事さがしのために「あゆみ仕事クラブ」ができた(02年10月)。
(2)株式会社リコーからデジタル印刷機の寄贈を受けた(02年12月)。
(3)株式会社東京学参から『引きこもりと暮らす』を発行した。
(4)労金から「印刷機と刷下制作」のための助成金をうけた(03年3月)。
(5)武蔵国際総合学園から中古パソコン14台の寄贈を受けた(03年4月)。
さらにマイナス要素として(6)子どもと教育社から発行していた『ひきコミ』を断られ、同誌の発行が中断した。

私はこれらを考慮して、2002年春に始まった「あゆみ書店」の時代の前半を2003年5月まで、それ以降2004年8月までを後半期としてこの時期にわけて説明します。

「30歳前後の人の会」に出席した何人かが、あゆみ書店員になりました。
しかし書店員になった人も含めて、それで業務的なことが始まったわけでもありません。
あまりにも低い水準の"業務"です。
それで新たな分野としてどのような仕事が可能なのかきいていきました。
しかしこれといったものはなく、「内職はどうですか」「パソコンならできるので・・・」「仕事を手伝わせてもらえればいいのです」といったもので、壁を打開するだけの答えは見当たりません。

5月に「大人の引きこもりを考える」というテーマで話す機会をもちました。
親と当事者が20名ぐらい出席し、私はその席で「印刷機を導入し、印刷できるようにしたい」とアピールしました。
情報センターにとり現実的に必要なもので同時に業務に活用できるものを考えたのです。
これを発表をした後で広告代理店で働くある人の協力を得て、株式会社リコー宛にデジタル印刷機の寄贈を求める企画書を作成しました。
不登校情報センターの内容や引きこもりの人の社会参加への道なども含むかなりの量になり、それを8月になり郵送しました。

2003年9月に"発送作業"を行いました。
フリースクールや中退者を受け入れている高校などから案内書を預かり、それを相談しに来て名簿に記録されている人に送るものです。
学校案内書の発送作業であり、世間的基準ではダイレクトメールの特殊なタイプです。
9月に約5000人への"発送作業"があり、作業は数日間続き、一日平均11人が参加しました。
別表にある(□)内の金額は、この作業で得た収入になります。
このようなやや集団的な作業は、多少とも充実感のある時間をすごした気分になるようです。
このようなまとまった動きができると、一種の活気が出てきます。
10月のある日、株式会社リコーの社会貢献推進室から電話がありました。
「印刷機の要請について、一度話しに来てほしい」という主旨でした。

機は到来したのです。
10月中旬に開く「30歳前後の人の会」は、仕事おこしを話し合うための場にしました。
集まったのは13,4名です。
どういう仕事に向かうのかはあまりはっきりしませんが、内職と印刷機の2つが話題にのぼったのは確かです。
内職にはこれといった情報はありません。
「リコーに印刷機のお願いに行くので一緒に行ってほしい」とよびかけ、2人が行くことになりました。
この会の席でもう1つきいたことは「どのくらいの収入を必要としているのか」ということです。
私は少なくとも1か月10万円だろうと思っていたのですが、数人から「小遣い程度」「月3万円ぐらいは・・・」という件がありました。
「10万円・・・」という声が出なかったのは、とても無理だとわかっていたからでしょう。
ともかく目標にできるレベルになり、少し楽になりました。

このグループの名称を「あゆみ仕事クラブ」としました。
その1年後に「あゆみ仕事企画」とより事業所的なものに変えましたが、成立の時点では、"クラブ"と名乗るだけの実態に乏しいものです。
不登校情報センターに来れる時に来て、何か業務的なものがあり、自分にできそうな内容や気持ちであればそれに関わるものです。
フリースペース(当事者の会)に1つの特色を与える程度のものであり、業務的になるかどうかはまだはっきりしなかったのです。
デジタル印刷機は年末の12月18日に届けられました。
とても嬉しいクリスマスプレゼントでした。
実は、印刷機の寄贈は10月末には決まりました。
私はそのとき、手元にある寄贈の企画書を読み返し、同じ土台のうえに「印刷室+刷下制作室」をつくるための助成金申請を考えました。
助成団体は中央労働金庫で、その第1回募集でした。
幸いこの助成金は認められました。
決定された経緯はわかりませんが、私はそれを熱望していましたので、その意気込みが伝わったものと信じています。

武蔵国際総合学園は技能連携校であり、これまでも不登校情報センターと一緒に不登校生や中退者の進路相談会を何度も企画してきました。
2002年の秋、「中古のパソコンでも欲しいので譲ってください」とお願いしていたところ、「年度変わりにパソコンを取り換えるので、その時使わなくなったのを譲ります」という返事をもらいました。

4月になってから14台のパソコンの譲渡を受けました。
1台ずつ点検し、ある程度精度を高める作業をし、10台近くが新たに使えるようになりました。
このようにして、2003年春には「印刷室+版下制作部」を実現する準備ができました。
ここまではまずまず順調にいったと思います。

[5]情報誌配布とあゆみ書店閉鎖

2003年春からは、新しい取り組みの時期に入ります。
現実的な「収入になる取り組み」が、継続的にその水準は低いけれども始まったのです。
1つは『不登校・中退者のためのスクールガイド』[2004年版]の編集作業。
2つめは、月2回発行している生活情報誌『ぱど』を周辺地域に配布(ポスティング)する業務。
第3に印刷機を使った作業を"業務"にまで高めようとしたこと。

まず『スクールガイド』の改訂・編集作業があります。
3月に『引きこもりと暮らす』という本を発行しました。
この本の2002年秋から文書入力を数人で分担していました。
同じメンバーに2~3人が加わりこの編集(アンケートを整理しながら文書入力する)に関わりました。
特に目新しいことはなかったのですが、旧号『スクールガイド』(1999年発行)を編集したときは、そのデータを本の発行以外に利用することを思いつきませんでした。
今度はデータを保存し、複数の利用を考えていました。
その1つがホームページ上に掲載することです。

次のポスティングです。
はじめは1地区1200部を受け持つことになりました。
その後、地区数が3地区に増え、2005年末には部数も増えて3500部を受け持っています。
2003年9月からは月刊の地域新聞『江戸川タイムス』5000部のポスティングも加わることになりました。
しかし2006年初めに『江戸川タイムス』はなくなりました。

ポスティングは回数は少ないのですが、定期的な業務であり、別表にあるように確実な収入源になりました。
しかしこの水準はあくまでも内職的レベルであることもまた確かです。
数人が関わっていますが、合計収入を見ても1人1か月の収入としても不十分であることを知らなくてはならないでしょう。
これは請負業務であり、主に実際の配布数等に比例して収入は配分されています。

問題は「印刷室と版下制作部」の進行です。
3月ころ知人のK社から印刷機を3日ぐらいフル稼動する高校卒業後の「進路計画」に関する冊子作りの印刷が入りました。
K社からはその後もときおり注文は入るのですが、K社以外からは受注がありません。
断続的に注文のある団体や事業所をつくるにはそれを分担する営業職が必要なのに、それができないままです。

私はこの経過を統括する「中央ろうきん助成プログラム完了報告会」で、この点を次のように報告しました。
「当初の目的の印刷室を成り立たせるという点では成功していません。
その最大の理由は、印刷物の受注がなかったことです。
受注に必要な営業面、受注に応ずるだけの技術力や本格的は印刷所との協力、管理体制などが不十分であったことによります」。

一方それに代わるもの、もしかしたら、準備として必要なものが生まれました。
「しかしこの取り組みのなかで、蓄積してきたものがあります。
まず、パソコンと付属品やソフトがいくつもそろいました。
2003年の6月ごろはパソコン同好会ができました。
画像加工が中心でしたが、いろいろな面でパソコン利用者が増えました。
ここにいる人が中心になって、版下づくり、文書作成という印刷の前提になる周辺作業ができ、だんだん定着するようになりました。
文書入力作業や版下制作ではある程度の形ができたことになります」。

「2003年は、印刷というよりも「あゆみ仕事企画」というグループの取り組みが、徐々に定着し始めてきた時期です」。

これらがその後のホームページ制作に必要な設備と人的要素をつくってきたように思います。
こうして、2003年春からは、ポスティングによる断続的な業務の開始と、パソコンを使える条件の改善、そしてフリースペースに来る人が恒常的になっていきました。

しかし2004年に入ってからは、フリースペースへの参加者が急減し、それとともに「あゆみ書店」「喫茶いいな」も事実上、閉鎖することにしました。
「収入になる点」ではあゆみ書店はさしたる成果を残せなかったことになります。

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