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Center:2008年2月ー私達は新感覚派の人間に出会っている

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目次

私達は新感覚派の人間に出会っている

〔『ひきコミ』第53号=2008年2月号に掲載〕
 

パソコン教室がいい感じで続いています。
昨年4月末に水曜日毎にはじめたウェブページ「スクールガイド」制作チームが第一歩。その後少しずつ広がっています。
数年前に来て文章入力をしていたTくんに、このパソコン教室への参加をよびかけてみました。
Tくんは20代で、そのころは定時制高校に入学しようと言っていました。
時期がおしせまっていて、うまく入学はできなかったということをきき、そのままになっています。
正月休みあけに、Tくんのお母さんから手紙をいただきました。

「おかげ様で定時制高校に通うようになりました」と報告のあったあと、次のような事情が書かれていました。
「初めて五十田さんにお会いした時のお話しは忘れることができません。
味覚や聴覚等において、人にはない感覚を持ち合わせているケースが多いと言われ、
思い当たることもあったので、目から鱗が落ちたように感じました。
そういう事を言ってくださる方は他にいませんでした。
高校に行きたいと言っていると五十田さんに言われた時は『まさか』という気持ちでいっぱいでした。
親には言いにくかったのでしょう。
結局はその年は間に合わず、翌年から通うことになりました。
今は暖かい人に囲まれているようでなんとか続けています。
・・・性格が変わったわけではないので、たいへんな努力をしていると思います。・・・」。

(1)感覚を鋭くしないと、自分を維持することに大きな不安を感じる人

今回はTくんのお母さんが書かれている感覚の鋭さについて、いま私がたどりついたことを話していきます。
Tくんのお母さんが来られたのは2005年のはじめだったので、約3年近く前のことです。
当時私はこの感覚についてよく話していた気がします。

しかしいま時点では、もう一歩ふみ込んだ理解ができるようになりました。
この感覚(視聴味臭触の五感プラスアルファ)は、人間の生存のために欠かせないもので、
それは生命力の直接の受付窓口のような役割をはたしている。
その感覚が鋭いということは、人間の生命維持力のなせるわざで、
感覚を鋭くしないと自分を維持するのに大きな不安を感じるためではないか。
こう感じ始めていまたどりついた地点を語ろうと思います。
小さな子どもは、自分に近づいてくる見知らぬ人がどのような人かを、
この感覚において、危険と安全を識別できる力をもっています。
子どものこのような反応には抗しがたいものがあります。
小さな子どもがその人をおそれたり、なついたりするのは、まさにこの動物的は生存本能に基づく力で、
それを理屈めいて違うといっても、それには関係なく子どもの自然な反応の方が重視されるものです。

ところが子どもが大きくなると、このような動物的な感覚による判断力が失われます。
私は本当のところはそのような感覚が失われるのではなく、その感覚に基づく生命維持の力に加えて、
成長とともに人間として(あるいは動物としても)生存力が高まるからだと思います。
人間のばあいは、体力、知力とともに人と関わる力、社会性がその年齢相応に身についていくのです。
これをたとえば人間力ということばで表しましょう。

小さなころは、この人間力が小さいが故に感覚判断による生命維持力が大きな役割をはたしています。
成長とともに人間力が大きくなり、それととのに感覚判断による生存力が相対的に小さくなります。
その事情を、私たちは子どものころもっていた動物的な感覚判断による自己保存の力を「失くした」と表現するのです。
私は、人間の心身状態に表われる現象は全部、
この生命維持力と結びつけて説明できなければ十分な説明にはなっていないと考えるようになりました。

(2)感覚が鋭すぎて、自分も他人も、わが身をコントロールしにくい

Tくんのばあい、この感覚が鋭いことの別の面は、まさにこの点です。
人間力の成長がおくれていることをも表わしています。
長期にわたり対人関係がとだえていたり(要するに対人関係のひきこもり状態がつづいている)すると、
この人間力の成長が停滞しているので、感覚の鋭さがきわだちます。
Tくんのばあいもまたそういう面があるといまでは考えています。
ただしそれはいいとか悪いとかというのとは別の価値判断が必要です。
当面は、対人関係が憶病になって、いろいろな不都合が生じているわけですが、
それ自体をいい悪いというだけで判断すべきこととは思いません。

かなり以前に、私は教育雑誌の編集をしていたことがあります。
あるとき学級行事という特集をしたことがありました。
そこで言われたことは「最近の子どもは、私たちが子どものころとは違って、
音楽や芸術に対するセンスがかなり優れている」ということです。
それが学級行事の内容やレベルの向上と結びついている話でした。
これはある大学の先生が発言していたことなのです。
たぶん今から25年くらい前のことです。
いま私は、この子どもの感覚的なセンスが目に見えるように高まり始めたのは、
1970年のはじめのころではないかと推測しています。
当時「子どものからだがおかしくなった」といわれ始めたころです。
朝礼の時間に子どもが倒れる、背筋力が落ちた、アレルギーの子どもが増えたなどといわれ始めた時期です。
それらはたしかに問題であり、それは今日まで続き「体格は向上したが体力は落ちた」といわれていることです。
しかし、その反面では実は子どもの感覚は高まっていったのではないかと思えるのです。
それが一方では、音楽や芸術的なセンスを高め、他方では感覚の鋭い子どもが多くなってきたのです。
ですから単純にこれは人間力の後退と言って終わるものではなく、他方では優れたセンスの高い人間をも生み出しているのです。

それはある意味では本人や周囲の人にとりやっかいな面はあります。
しかし、たとえばサルと人間を比較したばあい、取り扱いにより手間ひま注意を要するのは人間である、
という事情を考えれば(?!)わかってもらえるでしょうか。
かなり乱暴な言い方かもしれませんが、男性よりも女性の方により手間ひま注意を要するのも同じでしょう。

おそらくこのような感覚の鋭い人たちは、かつて使用された「新人類」なのです。
この用語は新しい意味をこめて使いたいものです。
私たち旧世代の人間とは違った「新人類」として、より手間ひま注意を要する人間、より高度に発達しうる人間なのです。
新しいタイプの人間は、ほとんどがそれまでの人とは違う人、
それだけに周囲の人も当人も自分をうまく馭(ぎょ)しがたい人間として現われるものではないでしょうか。

(3)新感覚派の人たちが社会で生きられるようにすることが、日本の重要な課題

ところで、このところ「広汎性発達障害(PDD)」という、
私のいる場面では不登校やひきこもりの人の持つ背景としてみる一つの見識が広がっています。
それは学習障害(LD)、注意欠陥・多動性障害(AD/HD)、高機能自閉症・アスペルガー症候群などの総称です。
このPDDと、感覚の鋭い新人類とは同じより大きな系列のなかに含まれる別種(あるいは一部重なる)のような気がします。
PDDは、先天的要因(生まれつき)のものといわれています。
それが社会の変化のなかで、出生者の1割であったのが、2割、3割と短期間に増えていくとは思えま せん。
たぶん先天的要因をもつ人も少しは増えているだろうけれども、
それ以上に、そういう要因をもった人たちが、育っていく過程(後天的要因)がより大きく変わったと理解するのが、合理的な気がします。
すなわち、かつてそのような要因をもっていた人たちも、成長過程のなかで、その人なりの対人関係をつくり、
社会生活に入っていける条件があったけれども現代はそういう要素がかなり削られてきたということです。
これは別により詳しく述べることなので、これ以上の記述はやめておきます。

この一方の新人類、他方のPDD領域の人たち(新感覚派ということにしましょう)が、社会で生きられるようにすることが、
日本社会の重要課題の1つになっているのではないかと・・・。
 

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