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Center:2009年12月ー作品の公表が意味すること

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目次

作品の公表が意味すること

〔2009年12月22日執筆、『ひきコミ』2010年1月号に掲載〕

Mさんが自作の鉛筆画をもって来ました。
そのとき少し話をしたのですが「意味が深いので、まとめてエッセイを書くつもりになりました」
とブログ「片隅にいる私たちの想造展」に予告しました。
これがそのエッセイです。

Mさんから聞かれたのは「作品を公表する人は働いている人が多いですか」というものでした。
質問の意図は推測できますが、実感から「あまり関係ないと思いますが」と返事をしました。
働いている(働けている)状態の人は、自分への肯定感や〝自信〟も働けないでいる人よりもありそうなので、
自己表現としての作品発表もよりしやすいと推測するのです。
私もこの推測には肯定的に考えることができます。

逆の例ですが「このような作品づくりをしていることに後ろめたい感じがしている」という人もいます。
この感覚は、〝働ける状態になれば〟後ろめたい気持ちが低くなるということですから、反対面からMさんの質問の背景にある推測を支持しています。
しかし、私の全体的な評価、実感は「あまり関係ないと思う」のです。
それは1つの要素としては作用しているけれども、それ以外の要素のなかで相対化され薄められているためでしょう。
その実感をこれまで経験した実例とそれに基づく推測により示そうと試みてみました。

(1)作品公表の位置と範囲を見る

〔実例1〕 
2009年5月に第3回「片隅にいる私たちの想造展」を開きました。
その作品発表会のあと、それを継続させる試みとして始めたのがブログ「片隅にいる私たちの創造展」です。
ブログに載せる記事をカテゴリ設定して分類するとき、一人が作品づくりと作品の商品化の間には、
作品の公表(発表)の段階があるといったのです。 しかもそれは2段階ぐらいあって、親しい人(信頼できる人)に見せるレベルと
一般に見せる(見られる)レベルがあると指摘されたのを思い出しました。
この意見を生かしてブログのカテゴリには「作品の公開・交流」を置いています。

〔実例2〕
さらに遡ると、2007年12月に第2回「片隅にいる私たちの想造展」を開いたときです。
10人が出展しました。
その直後に東京都社会福祉協議会が関係する作品展示の提案があり、
私はそれにあまり躊躇せず応えようとしました。

ところがこれには誰も応じないのです。
各自にはさしあたりの出展できない理由はあったのですが、
どうやら情報センターに近い会場、情報センター主催ならば出展できるけれども、
飯田橋にある東京ボランティアセンターの多くの人が出入りする場には気後れしているのです。
これも作品の公表レベルに関係することです。

〔実例3〕
さらに遡って経験したことを思い出します。2002年ころです。
ある人が1枚の絵を見せに来ました。
私はそれを見て何か言わなくてはならず
「自分が編集を担当している本にこの絵は使わないだろうな」という趣旨の感想を述べました。
絵に関して私は何かの一家言を持っているわけではありません。
上手い下手、良い悪いなどの判断基準がないのです。
そこで瞬間的に持ち出したのが編集者時代の〝直感〟です。
それがこのことばでした。
私にはそのことばが経験に基づくことばだったのです。

(2)作品の公表できるとき・しないとき

そのあとその人はかなり長い間、私に絵を見せようとはしなかったはずです。
2002年の途中から2003年にかけて、私はS.フロイト『精神分析学入門』、
E.クレッチマー『天才の心理学』などを読む機会があり、
人間の(したがって引きこもり経験者も)感性・感覚の意味や役割を特に考えるようになりました。
時期が重なったのは偶然です。
彼ら彼女らの創作活動・創作品をこのベースの上で見るように努め、また少しはできるようになりました。

情報センターに通所する人を主な対象にして「引きこもりの人が望む将来生活の姿」というアンケートを行いました。
そこでは自由業型芸術家やSOHO指向の人が 顕著に高い割合を示しました。
アンケートのまとめは『ひきコミ』21号(2004年5月)に載せ、
ホームページの「調査と報告」にも掲載しています。 
http://www.futoko.co.jp/chosa-hokoku/nozomu_syouraiseikatsu/nozomu_syouraiseikatsu.html

これらは一般的なことであり、特定個人の作品を自分なりに判断する基準はありません。
そこで私の役割は〝それがわかる人〟の目に触れる機会をつくることにあると考えたのです。
どうやらそれも最終の役割ではないとはっきりしてきましたが、少なくとも役割の1つにはなるはずです。

〔実例3〕が 示すのは、作品を見せるという面からです。
作者はどのようなときに作品を見せ、どのようなときに作品を見せようとしないのかの実例です。
作品に肯定的な評価をもらえそうなときに見せようとし、そうでないときには見せようとはしないのです。
これは作者にとって確度の高い基準になっているはずです。

しかしそれだけではありません。
確度が高く自分の作品を肯定的に評価してくれる人とはだれでしょうか。
どこにその人はいるのでしょうか。
その〝出会い〟を求めての密かな探索をした無意識の、または意識的な長い過程があります。
自分がめざす作風の人にあえれば最高でしょうが、まずそれは難しい。
もしかしたら既にこの世を離れている人かもしれません。

さしあたり身近なところにそれらしい人はいないのかと考える。
私に作品を見せようとしたのはその結果です。
不運なことに私の状況はごらんの通りでした。
私はそれに直接に応えることはできず、やむなくそこで別のルートを開こうとしているわけです。

作品を見せるのとは場面が違いますが、自分の気持ちや状態を見せる・表わすというのもこの関係と同じです。
少なくとも似ています。
自分の状態や気持ちを理解してくれる人にたいして、自分のより深い真実の姿や気持ちを表現します。

わかりそうにない人には、その人がわかりそうなことばを探してきたり、わかる範囲の説明しかしないものです。
相手がわからなければわからないほど、それは真実からは離れたものになるしかありません。
虚言とは違いますが、真実からは遠くなります。
それは説明のしかたが悪いのではなく避けられない事態なのです。
話しても伝わらないのです。
話すごとに誤解が深まることさえあります。
そこを避けようとするのです。

〔実例4〕
昨年のことです。ある人が数枚の絵的な作品を送ってくれました。
私はそれに対してできるかぎり丁寧に、しかし実感したことと矛盾のない、大げさな誉めことばのない感想を書いて送りました。
それが私にできる範囲のことだと思ったからです。
作品名や作品ジャンル名もあった方がよいという提案もしました。

しばらくしたら、その人から次々と作品が送られるようになりました。
その人の周辺事情でこの状態は半年ぐらいで止まりましたが、預っている作品は50を超えます。
私の作品評価が適正・適切かどうかは、自信はありません。
しかし作者は自分の作品を丁寧に見てくれたという気持ちはあると思います。
これは、ものごとへの対し方としてある種の実証的な例になります。
もしかしたら作者にはそのような体験がこれまでになかったのかもしれません。
その反動として多くの作品がつくられ、私のもとに送られてきたように思えるのです。

〔実例4-2〕
この作者は遠方の在住者なので関わりを持つ機会が少なく、
しばらくして私が多くの作品から任意にいくつかを選んでミニ作品集をつくり、
こういうのをつくってみませんかという提案とともに送りました。
それへの作者の反応は否定的でした。
つくるのであれば自分でつくりたいという趣旨です。
創作者らしい答えであると私は納得したものです。

この人の例を作品の発表・公表という面からみれば、〝自分の状態や気持ちを理解してくれそうな人にたいして、
自分のより深い真実の姿や気持ちを、作品を送ってくるという方法で〟表現したといえるでしょう。
作品評価の適正さはともかく、丁寧に評価しようとしたことが、創作の〝やる気〟を引き起こしたように思います。

(3)作者の現実を素通りするとき

〔実例5〕
失敗の例もあります。
ある人がかなり多数の作品を持ってきました。
大きく分けると、
(1)〝正統派的な〟見る人をほっとさせる安定感のある作品、
(2)スポーツ選手の動きを写真から抜き出したような絵、
(3)サイケデリックなアピールの強い作品の3種類です。
いずれもすばらしいものですが、私はその人の思いを見誤ったようです。
まず(2)スポーツ選手の絵を生かそうとある提案をしてみました。

その後その人には会っていませんが、家族の話では(1)正当派的な作品に注目して欲しかったのです。
私には見る目がないとその人から判断されたようです。

それだけにとどまりません。
〝それは自分の状態の真実からは離れて理解をする人〟と受けとめられてもいると思います。
作品という表現の理解度はそのまま人間の理解度にもなっているのです。
その人にとっては、自分が何を望むのかは言わないでもわかるはずだったのでしょう。
ここで私が誤った、失敗したのは、実は作品評価の場面ではないのです。
それはもともと無理なことです。
作者の意図を超えて(思いこみで先走って、つまりは無視して)私の感覚で作品を生かそうとしたことです。
それは〔実例4-2〕の多数の作品を送ってくれた人の作品を私がミニ作品集にしたときにも、すでに現れていることです。

作者のいま現在を置き去りにして何かを提案したのが間違っているのです。
作者の現実のところにいて、その現実を私の感 覚において丁寧に表わしていく、
作品の感想や評価ではそこの役割が求められているのです。
そこを誤ったように思います。専門家でなくてもできるけれども、そこは外せないのです。

(4) 作品公表と対人関係づくりは共通する

これらを総合すると、作品を見せるというのはまずは信頼関係です。
もちろん最初に作品を見せる相手が私かどうかはわかりません。
むしろそうでないと考えるほうが当たっている気がします。
だれか個人的に信頼関係のある人がいてその人に見せます。
しかしまた見る目を持った人に見て欲しいというのも本当です。
その作者の周辺に対象者がいるのかの検討が始まります。
どこに落ちつくのかはその人の性格、気分などによるのです。
その結果、当面は公表しない、誰にも見せないという事態に落ちつくこともあるはずです。

ここに性格や気分とならんで、その作者の状態が関係することもあり ます。
すなわち働いているとか、孤立しているとかの状態が、作品を見せられる・見せられないに関係するのです。
Mさんが聞いてきたのはこの点です。
働いていることは作品を公表する気持ちに肯定的に働きます。
ところが、それ以上に見せる相手はどんな人で、その人と自分との関係がはるかに優先するのです。
全体としては「あまり関係ない」という私の実感はなりたつのです。

これは個人的に作品を見せるかどうかだけに関係しているのではありません。
私に見せるのが最初ではなかった人を考えれば容易に想像がつくことです。
ある1人に見せます。
次に見せる人を探します。
そしてまた3人目に見せます。
この手順を追います。
しかしそれらの過程を飛び越えて初めから数人に見せる人もいます。
いきなり不特定多数に見られる場に出しても構わない人もいます。
それは たぶんに性格特性や心理的安定感を得ている人といえます。
もちろん作品レベルに無頓着な人も混じっていると考えておいたほうがいいでしょう。

慎重な人ほど、そのつど相手の評価を確かめます。
1人ずつ公表する相手を選びながら広げようとします。
いつも順調にいくわけではなく、ときには落胆させられます。
〔実例5〕の場合がそうかもしれません。
時間をおいて気を取り直してこの過程をまたあゆみます。
まさに人間関係をつくる過程とそっくりです。
引きこもり経験者の多くが、人間関係づくりでも、作品の公表でも似たような進み方をします。
そうであるからこそ創作活動と作品の公表は、引きこもり経験のある作者には社会とつながる場面になるのです。
それは信頼できる人との出会いから、人への信頼がめばえ広がる可能性がある点で共通しています。

(5)広く募集と特定個人への提案は違う

作品の発表に関することはまだいくつかの事情を説明しなくてはなりません。
それはテーマが広がりすぎますので、ここでは実践に関係するひとつの点を指摘するだけにします。
創作活動をしている人がいると推定できるとき、〝先走ってはいけない〟のだから、
作者が持ってくるのをじっと待っていればいいのでしょうか。
〝支援者〟は何もしない方がいいのでしょうか、この点です。
私の感覚では何もしないのとは違います。

なぜ当事者は作品を持って来て、見せようとしたのでしょうか。
当初は私自身が意図的ではなくそういうスタンスを何となく示していたのだと思います。
やがて文通誌『ひきコミ』を発行するようになってからは、それに載せる文芸的な作品や絵画的な作品を募集していました。
これに応えようとした人がいるのです。

この広く募集していることと個人への〝先走り〟の間にははっきりした違いがあります。
(1)特定の個人ではなく不特定多数に創作品の提示を呼びかけるレベル。
ここでは創作活動をしている個人は、自由意志の選択のなかで作品を見せるかどうかが決められます。
ここが大事です。
この部分は〝支援者〟がすすめていいのです。
『ひきコミ』のばあいは、ペンネームや匿名投稿も可能です。
ただし私が編集を担当していると身近に知っている人は、私にたいしては匿名により隠れるというハードルは越えています。

(2)特定個人への提案は、その個人の状態から〝先走り〟してはいけないのです。
自分を特定して提案されたことは選択が迫られるのです。
〔実例5〕、〔実例4の2〕はそのことを示しています。
作者は自分の現実感がその提案内容と一致していないと否定感を持つのです。

〔実例5〕について、作者の意図はそこまではわからないということもできます。
しかし作者にとってはその提案の直前までは理解されていたと思えたならば、その反応もまたわかるのではないでしょうか。
奥行きは深く、相手が生身の人間であれば回答もまたその身体に潜んでいます。
回答はわからなくても存在はしているのです。

なお、これは作品の「公表」を述べたものです。
作品の「制作」についてはまた別の面が見えるでしょう。

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