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Center:2014年12月ー愛情表現できなければ信頼の表現を

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愛情の表現ができなければ信頼の表現を

『ポラリス通信』2015年1月号

先日、数人で話したのは愛情、まずは親と子の間の愛情についてです。
愛情をどのように表現するのか。
特に言葉による愛情表現は難敵です。
女性に比べて男性はことさらそれが難しくなると思います。
昔きいた話です。
ある孤児院にいる子どもがそこに働く寮母さんに「愛って何?」と聞きました。
こういう質問を受けることの切なさが迫ってきます。
寮母さんは静かにその子を温かく抱きしめたのです。
その子からは「愛っていいね」という言葉が返ってきました。
こういう動きというか反応は女性の方がはるかに自然で高度に表現しています。 

親と子の間の愛というとき、私にはその直接的な思い出はありません。
それでも70年近くの人生の中で、これというときがあります。
私の場合のその場面は愛情よりは信頼というのがよさそうです。
高校2年生の冬のことでした。
通学定期券はいまと違って改札口で駅員が目視で確認します。
乗客が次つぎに改札を通りますから、見逃しも発生します。
当時のわが家は母と弟の3人、事実上の母子家庭で超貧乏生活です。
自分の学費や小遣いは新聞配達と週2日の家庭教師と休日のアルバイトでまかなっていました。
弟と一緒に生活費も少し出していました。
通学定期券は節約の対象(?)だったかもしれません。
期限が切れても数日は改札口をうまく切り抜ける算段がしょっちゅうです。
しかしこのとき改札口で駅員に見つかり、止められました。
駅員室に連れて行かれたときストーブがよくきいて暖かいと感じた記憶があります。
小さな田舎町です。
生徒がどこのだれかはすぐに知れます。
家には電話はありませんでしたが、母にはすぐに連絡が行ったようです。
20分ほど夜の寒い道を歩いて帰る途中はいろんなことを考えていたはずです。
家に帰ると母は手を休めてこう言いました。
母も考えていたのでしょう。
「お前のことは信用している。お前は悪いことはできない。
いなげなことをするな(妙なまねをするな、という方言)」。
ごく短い話でした。
「わかった」と返事をしたはずです。
細かいやり取りは思い出せませんが、この記憶はなくなりません。
それ以後は定期券のごまかしはしていません。
いや全てにおいてごまかしはしていないはずです。
後になって考えると、母は小遣い銭や教材費を子どもに渡せないでいることを気にしていたのかもしれません。
ある教材が買えなくて補習授業を受けないことがありました(サボったというのが言い訳です)。
担任の先生から聞いていたでしょう。
進学クラスに紛れ込んだ貧乏生徒だったわけです。
その担任は後に授業料免除の手続きをしてくれた人情家でした。
母はそういう生活のなかで私の行動を見ていたように思います。
母は私の行動を信用していました。
この事件は“いなげなこと”でした。
それだけに母にもショックだったと思います。
なぜ子どもがそういう行動をしたのかは母には容易にわかることだったのです。
母はその場ではすべて言葉で表現しました。
悪いことは悪い、しかし、お前のことは信用している。
こういうときの子どもには親から信用されていることは強烈に響くものです。
私の十代のとき父は不在です。
遠くの果てに避難生活(?)をしていたためです。

さてこれを母の愛情表現と置き換えてもいいのでしょうか。
私に上手く説明できません。
私は親と子の関係において、愛情表現よりも信頼関係をより重視した言い方をしてきました。
そうなったのは間違いなくこの体験が関係しています。
それでもスキンシップや抱いてやるように勧めたことはよくあります。
そうされてきた人たちの声を聞く機会が重なっていたからです。
それが愛情表現になると理解してのことです。
女性に比べて男性は“不器用”です。
不器用であることは愛情のあるなしとは関係のないものですが、表現しないことは愛情欠如と同じになります。
しかし、“不器用”な表現であることと表現しないこととは同じではありません。
それでも“不器用”な表現しかできない人にとっては(男性に限りませんが)損な役回りといえるでしょう。
なぜ不器用なのか? 
解剖学者の養老猛司さんが解剖学の先輩・三木成夫さんを紹介して書いていることです。
「三木先生の話が心を打つには、そこに強い情動があって、それを理性がよく統制しているからであろう。
お子さんのことを書いている部分でも、そんなことは一言も書いていないのに、親としての愛情が伝わってくる。
思えばこういう情の持ち方は、私より年長の世代の人に多かったという気がする。
誕生日のプレゼントだとか、そういう形に見えることはしないのだが、何かの折に強い愛情を感じる」。
そして「情理ともに兼ね備えることはなかなかむずかしい」として、理と情のバランスが品格を決めるもので、バランスが大事だというわけです。
回り道をしましたが、男性は理の方にバランスが傾いた表現をし、女性は情の方に傾いた表現をしがちです。
男性の愛情表現はおそらく理が奇妙に混ざって表現されるのでしょう。
“素直ではない”愛情表現はその結果だと思います。
それが不器用と評せられることになるのです。
おりしも“不器用”な人として名をはせた高倉健さんがなくなりました。
高倉健さんを見れば不器用でいいじゃないですか。
不器用の反対語は器用ですが、器用な愛情表現って逆にうさんくさいですよ。
対人関係の世界では“情感こまやかに”表現するのがよさそうです。
しかし、愛情表現を“情感こまやかに”表そうとしても父親にとっては高望みというものです。
ならば不器用であってもいい、それなりの愛情表現をすればいいのです。
理に傾いたバランスの中の愛情表現でいいということです。
その心理的な壁が超えられそうでなければ、子どもを信頼して任せてみよう。
それが私のすすめする信頼を言葉にする方法です。
これは理に基づく表現、言葉によるものです。
愛情かどうかの上手く説明できないと言いましたが、理に基づく表現ならできそうな気分になりませんか。

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