カスタム検索(不登校情報センターの全サイト内から検索)

 
Clip to Evernote  Twitterボタン  AtomFeed  このエントリーをはてなブックマークに追加  


Center:違和感を感じた“死”への感想

提供: 不登校ウィキ・WikiFutoko | 不登校情報センター
(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(違和感を感じた“死”への感想)
 
(3人の利用者による、間の9版が非表示)
1行: 1行:
 +
{{topicpath | [[メインページ]] > [[:Category:不登校情報センター|不登校情報センター]] > [[:Category:活動を巡る批判に答える|活動を巡る批判に答える]] > {{PAGENAME}} }}
 +
 
==違和感を感じた“死”への感想==
 
==違和感を感じた“死”への感想==
〔2010年07月07日〕
+
〔2010年07月07日〕 <br>
私は「生きるのも死ぬのも本人の自由」といった主旨の発言をしたことになっています。私がそれを聞いた第一印象は、「なるほどそう聞こえてしまうのか」というものです。
+
私は「生きるのも死ぬのも本人の自由」といった主旨の発言をしたことになっています。 <br>
 以前に「Aにするのか、Bにするのか、どちらかに決めていただきたい」と中立的な第三者として話したところ「AでもBでもどっちでもいいと言っている」とされたのを思い出しました。後者の言い方は投げやりの雰囲気に伝えられて、嫌な思いをしたものですが、少し似ています。心の貧しさを感じて、自分はそういう受けとめ方はしないように心がけているつもりです。
+
私がそれを聞いた第一印象は、「なるほどそう聞こえてしまうのか」というものです。 <br>
私は「生きるのも死ぬのも本人の自由」といった主旨の発言をしたことになっています。数年前のことであり、どのように言ったのかの記憶はありません。その限りにおいては否定も肯定もできません。
+
以前に「Aにするのか、Bにするのか、どちらかに決めていただきたい」と中立的な第三者として話したところ <br>
 “主旨”というのは、そのままの言葉ではなく中心はそこにあると受け取った側のまとめ方です。発言者がどんな意識でどんな気分でであったのかとともに、聞くほうの意識や気分も反映しているのです。
+
「AでもBでもどっちでもいいと言っている」とされたのを思い出しました。 <br>
 私は否定も肯定も出来ないのですが、違和感があります。それは生きることと死ぬことに関するいつもの感覚、考え方と「生きるのも死ぬのも本人の自由」には落差があるからです。
+
後者の言い方は投げやりの雰囲気に伝えられて、嫌な思いをしたものですが、少し似ています。 <br>
聞いた方の言葉を参考に考えれば「希望を見失って、死の決心をした」というようなことを、“死んでも仕様がない”と言った方向にもとれる「生きるのも死ぬのも本人の自由」と聞き取ったのではないか。私の気持ちは残念感なのに、違った方向に広げられている。そんな気分です。それが「AでもBでもどっちでもいいと言っている」と言われたときの違和感に共通しています。
+
心の貧しさを感じて、自分はそういう受けとめ方はしないように心がけているつもりです。 <br>
そこで次回は「生きることと死ぬことに関するいつもの感覚、考え方」を紹介します。
+
 
 +
私は「生きるのも死ぬのも本人の自由」といった主旨の発言をしたことになっています。 <br>
 +
数年前のことであり、どのように言ったのかの記憶はありません。 <br>
 +
その限りにおいては否定も肯定もできません。 <br>
 +
“主旨”というのは、そのままの言葉ではなく中心はそこにあると受け取った側のまとめ方です。 <br>
 +
発言者がどんな意識でどんな気分でであったのかとともに、聞くほうの意識や気分も反映しているのです。 <br>
 +
 
 +
私は否定も肯定も出来ないのですが、違和感があります。 <br>
 +
それは生きることと死ぬことに関するいつもの感覚、考え方と「生きるのも死ぬのも本人の自由」には落差があるからです。 <br>
 +
聞いた方の言葉を参考に考えれば「希望を見失って、死の決心をした」というようなことを、 <br>
 +
“死んでも仕様がない”と言った方向にもとれる「生きるのも死ぬのも本人の自由」と聞き取ったのではないか。 <br>
 +
私の気持ちは残念感なのに、違った方向に広げられている。そんな気分です。 <br>
 +
それが「AでもBでもどっちでもいいと言っている」と言われたときの違和感に共通しています。 <br>
 +
そこで次回は「生きることと死ぬことに関するいつもの感覚、考え方」を紹介します。 <br>
 +
 
 +
[[Center:生と死に関する記述(予告)]] <br>
 +
[[Center:違和感を感じた“死”への感想]]<br>
 +
[[Center:生きると死ぬは表裏の関係]]<br>
 +
[[Center:“死の周辺”の表現と支援]]<br>
 +
[[Center:自殺と自殺未遂の関係]]<br>
 +
[[Center:尊厳ある死、尊厳ある生]]<br>
 +
 
 
[[Category:活動への批判的コメントに答える|2010年07月07日]]
 
[[Category:活動への批判的コメントに答える|2010年07月07日]]

2019年1月1日 (火) 20:26時点における最新版

Icon-path.jpg メインページ > 不登校情報センター > 活動を巡る批判に答える > 違和感を感じた“死”への感想

違和感を感じた“死”への感想

〔2010年07月07日〕
私は「生きるのも死ぬのも本人の自由」といった主旨の発言をしたことになっています。
私がそれを聞いた第一印象は、「なるほどそう聞こえてしまうのか」というものです。
以前に「Aにするのか、Bにするのか、どちらかに決めていただきたい」と中立的な第三者として話したところ
「AでもBでもどっちでもいいと言っている」とされたのを思い出しました。
後者の言い方は投げやりの雰囲気に伝えられて、嫌な思いをしたものですが、少し似ています。
心の貧しさを感じて、自分はそういう受けとめ方はしないように心がけているつもりです。

私は「生きるのも死ぬのも本人の自由」といった主旨の発言をしたことになっています。
数年前のことであり、どのように言ったのかの記憶はありません。
その限りにおいては否定も肯定もできません。
“主旨”というのは、そのままの言葉ではなく中心はそこにあると受け取った側のまとめ方です。
発言者がどんな意識でどんな気分でであったのかとともに、聞くほうの意識や気分も反映しているのです。

私は否定も肯定も出来ないのですが、違和感があります。
それは生きることと死ぬことに関するいつもの感覚、考え方と「生きるのも死ぬのも本人の自由」には落差があるからです。
聞いた方の言葉を参考に考えれば「希望を見失って、死の決心をした」というようなことを、
“死んでも仕様がない”と言った方向にもとれる「生きるのも死ぬのも本人の自由」と聞き取ったのではないか。
私の気持ちは残念感なのに、違った方向に広げられている。そんな気分です。
それが「AでもBでもどっちでもいいと言っている」と言われたときの違和感に共通しています。
そこで次回は「生きることと死ぬことに関するいつもの感覚、考え方」を紹介します。

Center:生と死に関する記述(予告)
Center:違和感を感じた“死”への感想
Center:生きると死ぬは表裏の関係
Center:“死の周辺”の表現と支援
Center:自殺と自殺未遂の関係
Center:尊厳ある死、尊厳ある生

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
地域
不登校情報センター
イベント情報
学校・教育団体
相談・支援・公共機関
学校・支援団体の解説
情報・広告の掲載
体験者・当事者
ショップ
タグの索引
仕事ガイド
ページの説明と構造
ツールボックス