アスペルガー気質の少年時代
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2025年4月22日 (火) 22:51時点における最新版
アスペルガー気質の少年時代
アスペルガー気質を自覚するようになった松田武己の少年時代を書いた文章を1冊にまとめました。
その序文にあたります。
少年時代のまえがき
私の子ども時代を「アスペルガー気質の少年時代」としてまとめることにしました。
いろいろな生活場面に子ども時代の私が行ったことを、あれこれ書いてきたので、それを1つにまとめようというわけです。
「文学フリマ・東京」に出展する目標で、これまでいただいた数人の手記などを手作り本にする作業を進めています。
①小林剛『ひきこもり模索日記』は不登校からひきこもりの時期を、
②逸見ゆたか『精神的ひきこもり脱出記』は私より10年以上先に生まれた人の体験を、
③高村ぴの『アルバイト体験記/対人恐怖との葛藤』は書名そのまま、
④ナガエ『私の物語』は子どもの虐待と解離性人格障害を——
これらは新しく追加して手作り本にするために元の原稿を読み返すなかで確認したことです。
そういえば中嶋シホ『喪失宇宙からの手紙』はある文学会の公募に提出したので、結果発表は5月ですが、応募したのは昨年12月のことです。
この作品が事実上はじめの動きかもしれません。
不登校情報センター(あゆみ書店)の、そこに関わる人たちの特徴的な傾向が、ここにうまく表現できていると思えたからです。
それらに関わるなかで、私自身のアスペルガー気質の様子をまとめようと思い至ったのです。
アスペルガー障害は、最近は自閉症スペクトラムという枠に収められて診断されますが、むしろアスペルガーの用語を入れる方がそのある傾向をクリアーに表現すると思えますので、そして私のばあいは比較的軽度(?——異論のあることは認めますが、社会生活に大きな影響は少ないと勝手に判断して“軽症”とします)ですが、発表することにしました。
不登校情報センターに関わる人には、それぞれ特徴的な様子を表現する人、特別の体験をする人がいます。
それらを手作り本として実現すれば、そこが明確に表われるのです。
さて『アスペルガー気質の少年時代』は、2007年以降に私の子ども時代を思い出して書いたものです。
私がそれを自覚したのは不登校情報センター内で行った2007年秋の、心理カウンセラーKさんの「アスペルガー症候群の学習会」でした。
Kさんは、不登校情報センターに来て通所するひきこもりなどの経験者、訪問サポートする学生らと相談を続けていました。
定期的に学習会も開いていたのですが、私はこの学習会で初めてそのレクチャーを聞いたのです。
その話を聞きながら、それはまるで私の子ども時代の様子を聞く思いでした。
「そうか、自分はアスペルガー的傾向の強い人間だったんだ」と悟りました。
62歳のときです。もはや何かをとり戻すことはほとんどできない年齢です。
しかし、何かホッとしたというか落ちついた安心した気持ちになったことを覚えています。
これをKさんに伝えると「ペンの持ち方とか、いろんなことでそう思っていましたよ」という主旨の答えがありました。
お見通しでもあったわけです。
私がここでアスペルガー障害と自認するのではなく「~気質」と表現するのは程度が軽いということと、Kさんはそのときは「~気質」と言ったことによります。
ある1つの作業に集中すると、それに熱中して他のことに気が回らない、ということは今も同じです。
一点集中と他人への無関心はこうして両立するのです。一点への集中はある事柄に深く進入していく力になるのです。
私が何かを感じ、それを進んでわかろうとするのはそこにあります。
そしてわかったことを文章化する、それを積み重ねることが私のワーク(作業)になっているのです。
ワークはこの方法だけではなく他にもあると思いますが、私のばあいはこれによります。
アスペルガー症候群の通説(?)とは違う感じをもつものがもう1つあります。
周囲に起きていることを察知する力(感受性など)にうといというものです。
私の感覚ではよくわかるときとよくわからないときが際立っており、そのうち通説では「よくわからないとき」が強調されていると思うのです。
「一点への集中」と「他への無関心」、そして「よくわかるとき」と「よくわからないこと」という2つの事情は、実際には同じことなのかもしれません。
それを含めてこの2点が、私の子ども時代を書いたものにどのように表われているのか。
あるいは表われていないのかも確かめられるのではないでしょうか?

