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| − | だれも悪くはない(⁉)のか…。
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| − | 1991年の春、『こみゆんと——不登校・登校拒否の情報ネットワーク誌』を創刊しました。久しぶりにそれを引っぱり出して1号から数冊を読み直してみました。今日につづく不登校・ひきこもりに関わる私にとっての初期をふり返るつもりでした。これは多分に先に『SHIP!——ひきこもり・生きづらさ 社会課題を考える』創刊号(2025年4月)をいただき、その意気込みの熱さと内容の厚さに気圧された感じを受けたのが影響しているはずです。
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| − | 『こみゆんと』へのいくつかの投稿——とくに、不登校の子ども本人、その父母の手記を読みながら…いやその感想は後に回しましょう。当時の私(40代でした)が大切にしたいと感じていたのは民主主義でした。それは多数決ではなくそれを超えなくてはならない、という思いでした。どう超えるのか。その集団(社会的集団でも血縁的集団でも)の中において最も弱い立場におかれている人が守られる形の多数の意●、それが民主主義ではないか。それは今も私の中にある民主主義の定義です。そういう視点から不登校やひきこもりという人間の行動をみようとしていた、それを改めて思い起こしました。
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| − | 集団の多数とその集団における弱い立場の人の利益を守る——この2つは自動的に両立するわけではありません。とくにその集団が大規模になり自治体とか国レベルになるとそこには闘争が生まれます。それを平和的に行うのが民主主義国家です。では小さな集団、例えば家族においてはどうでしょうか。自動的に家族内における弱い立場の人の利益が守られているのか?と考えてみると、意外とそうとは言い切れない、しかし単純に言い切ればいいものでもない事情がわかります。
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| − | 子どもの不登校、子どものひきこもりの具体的事情を追い求めていくとこの複雑な事情がみえてきます。複雑であるからわからないとするのか、そこをさらに合理的に解き明かしていくのか。私が実際に不登校やひきこもりの相談で出会ったのはここです。そしてその判断、その前にとらえ方には揺れがありました。より真実に近い解釈に近づいていく過程と私は理解することにしていますが、正直そうきれいに描かれるものではありません。
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| − | 不登校のより直接的な原因は学校であった、教育であった。あるいは家庭の中にあった。そういう言葉が交錯するなかで、『こみゆんと』を通して学んだこと、その後の不登校情報センターの設立(1995年)やその居場所としての取り組みを総じて言えることは——「だれもわるくはなかった!」ということです。——いやいやそれはまた極端な言い方ではないかといわれるでしょう。そうでしょう。そうでしょうが「多くの人は行きすぎ、間違い、すれ違い…をひきおこしたけれども、それは地盤になっている大きな社会的変動の揺れの上においては比較的小さな「わるいもの」になってしまう、というのが、現在の心境です。
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| − | 問題は社会の変動という個人の意識を超える事態に向き合うことではないのか——この現在の心境につづく私の意識はそこにあります。不登校やひきこもり経験した人、その親たちは、大部分がこの社会のなかで、相対的には弱い立場におかれているのです。そこには小さな違いはあるけれども、共に社会をよくしようとする仲間なのです。
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