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カテゴリ:周辺ニュース

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(周辺ニュース)
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「母は謎」      
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 大正時代の末(1924)に生まれた母と
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高度経済成長期(1958)に生まれた私。この世代ほど、文明格差の大きい親子はいなのではないか?私が子供の頃はおおらかというか、野蛮というか、おばさん達は立ちションしていた。簡単服で腰巻をしていたのだろう、家の前の側溝を跨ぎ、裾をちょっとめくってシャシャシャと器用に放尿していた。
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トイレも汲み取り式で糞壺には蛆虫がわんさかいた。
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 わが家も間借りのような住まいで大家さんにとても気を使っていた。母の持ち物といえば小さな鏡台、一面の鏡がやっと張り付いたような。のっているのは資生堂の乳液、蓋が黒いプラスチックの。ヘアピンが数本。父が母のことを
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「金のかからんおなご(女)だけんね」
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と評した。母が父のことを好きでないのは感じていた。父と猛喧嘩した思春期の頃、泣きながら部屋に入った私を追いかけてきて母が言った。
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「私もあんなヒトと結婚するつもりじゃなかった。私には好きな人がいた。イナダマコトといって画家だった」と言い放った。私には意味不明だった。父と母が喧嘩したわけでもないのに、どうして告げ口みたいなことをするのか?十代の娘に自分の恋愛話をしている
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自覚はあったのか?
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「へえ~画家なの?かっこいい!」とでも言って欲しかったのか?当時、四十代後半だったと思うが、母自身が子どもで、娘のままだったのだろう。青春時代に戦争が横たわり、恋愛結婚など希少だった。母が何を考え、どう幸せだったのか見当もつかない。台所にいつも居た。椅子も置いていないところで何をしていたのか?自分のことを
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「私は味噌瓷だけん」と言っていた。流しの下に置いてあり外に出ることがないということらしい。台所に中性洗剤や三角コーナーはなかった。油汚れの皿は新聞紙にくるんで、流しの下に突っ込んであった。たまったら、まとめて粉のクレンザーでこするのだ。ガスコンロが怖くて長いこと、灯油のコンロひとつで煮炊きをしていた。冬場の母の手はいつも霜焼けで膨らんでいた。夏、霜焼けのない自分の手をしげしげと眺め、
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「これがわが手だろうか・・・」
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何度も呟いた。母は偏食で肉はもちろん魚も殆ど口にしなかった。父や弟にカレーや焼き飯を作っても、自分は山菜とか煮て食べていた。乳製品も摂らないので骨粗鬆症になり、60代で股関節に人工骨を入れた。風呂もあまり入ってなかったように思う。何か化膿した時も医者に行かず、足にビニール袋を巻いてやり過ごしていた。初めて夫を連れて熊本の実家に帰った正月。ずっと台所に籠っている母。雑煮を作っているはずなのだが・・。昼近くになりさすがに催促すると、
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「実の娘にこんなことを言われると思わなかった」
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と激怒した。手伝われるのも、台所に入られるのも嫌がるので手に負えない。元旦過ぎて
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空きっ腹に雑煮を流し込んだ。夫に母がどう映ったのか定かでないが、母に、
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「気の強か娘ですばってん、よろしくお願いします」と頭を下げられ、
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「あれは一生忘れられない」と言っていた。
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夫がトイレに寒いから便座カバーを付けた方がいいと言うのでつけた。次に帰省した時、そのままついていて、洗った痕跡はなかった。本当に生活というのはひとつひとつ些細なことで成り立っている。この家はその些細なひとつひとつが崩壊している。時代を繋ぐ役目のこの長女の私が物理的にも心理的にも近代化を放棄してしまっていたから。父も母も日々の暮しが精一杯で、私は自分のことで頭がいっぱいだった。ゴミ屋敷と化して、両親共に逝ってしまった。母が亡くなった日、私は東京の美術館にいた。梅雨の明けきらない曇天の夕刻、庭園を眺めながら、お茶を飲んでいて不思議な心持ちになった。悲しいと言うのでもない、不安でも開放的でも、恐怖でも温かいでも、そのどれもが混じり合ったような気持ちになりビックリした。重く垂れこめる空を眺め続けた。後にも先にもあの時だけだった。日付が変わる頃、弟から電話があった。
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「今、病院から電話があった、亡くなった、
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お袋」
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 母のことを知らないな~と思う。私はこの前近代的な母を恥じていた。尊敬できる言葉や料理や、憧れの要素が何一つない。私に謎を残して母は無念やら不幸せやらを身にまとい、あの曇り空の向こうに消えていった。
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母に何を言えばいいのか、わからない。
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それでも母は私を恋しいと思ってくれているだろうか。
  
 
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2026年2月12日 (木) 21:27時点における版

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(1)回答者(誰に関する回答か):1月7日現在

回答者 本人回答 代筆母 代筆父 合計
10(1)  7  3 20(1)
 5(3)  0  0  5(3)
男女不明  0  3  1  4
合計 15(4) 10  4 29(4)

*( )内は結婚者数(事実婚を含む)


目次

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「母は謎」        大正時代の末(1924)に生まれた母と 高度経済成長期(1958)に生まれた私。この世代ほど、文明格差の大きい親子はいなのではないか?私が子供の頃はおおらかというか、野蛮というか、おばさん達は立ちションしていた。簡単服で腰巻をしていたのだろう、家の前の側溝を跨ぎ、裾をちょっとめくってシャシャシャと器用に放尿していた。 トイレも汲み取り式で糞壺には蛆虫がわんさかいた。  わが家も間借りのような住まいで大家さんにとても気を使っていた。母の持ち物といえば小さな鏡台、一面の鏡がやっと張り付いたような。のっているのは資生堂の乳液、蓋が黒いプラスチックの。ヘアピンが数本。父が母のことを 「金のかからんおなご(女)だけんね」 と評した。母が父のことを好きでないのは感じていた。父と猛喧嘩した思春期の頃、泣きながら部屋に入った私を追いかけてきて母が言った。 「私もあんなヒトと結婚するつもりじゃなかった。私には好きな人がいた。イナダマコトといって画家だった」と言い放った。私には意味不明だった。父と母が喧嘩したわけでもないのに、どうして告げ口みたいなことをするのか?十代の娘に自分の恋愛話をしている 自覚はあったのか? 「へえ~画家なの?かっこいい!」とでも言って欲しかったのか?当時、四十代後半だったと思うが、母自身が子どもで、娘のままだったのだろう。青春時代に戦争が横たわり、恋愛結婚など希少だった。母が何を考え、どう幸せだったのか見当もつかない。台所にいつも居た。椅子も置いていないところで何をしていたのか?自分のことを 「私は味噌瓷だけん」と言っていた。流しの下に置いてあり外に出ることがないということらしい。台所に中性洗剤や三角コーナーはなかった。油汚れの皿は新聞紙にくるんで、流しの下に突っ込んであった。たまったら、まとめて粉のクレンザーでこするのだ。ガスコンロが怖くて長いこと、灯油のコンロひとつで煮炊きをしていた。冬場の母の手はいつも霜焼けで膨らんでいた。夏、霜焼けのない自分の手をしげしげと眺め、 「これがわが手だろうか・・・」 何度も呟いた。母は偏食で肉はもちろん魚も殆ど口にしなかった。父や弟にカレーや焼き飯を作っても、自分は山菜とか煮て食べていた。乳製品も摂らないので骨粗鬆症になり、60代で股関節に人工骨を入れた。風呂もあまり入ってなかったように思う。何か化膿した時も医者に行かず、足にビニール袋を巻いてやり過ごしていた。初めて夫を連れて熊本の実家に帰った正月。ずっと台所に籠っている母。雑煮を作っているはずなのだが・・。昼近くになりさすがに催促すると、 「実の娘にこんなことを言われると思わなかった」 と激怒した。手伝われるのも、台所に入られるのも嫌がるので手に負えない。元旦過ぎて 空きっ腹に雑煮を流し込んだ。夫に母がどう映ったのか定かでないが、母に、 「気の強か娘ですばってん、よろしくお願いします」と頭を下げられ、 「あれは一生忘れられない」と言っていた。 夫がトイレに寒いから便座カバーを付けた方がいいと言うのでつけた。次に帰省した時、そのままついていて、洗った痕跡はなかった。本当に生活というのはひとつひとつ些細なことで成り立っている。この家はその些細なひとつひとつが崩壊している。時代を繋ぐ役目のこの長女の私が物理的にも心理的にも近代化を放棄してしまっていたから。父も母も日々の暮しが精一杯で、私は自分のことで頭がいっぱいだった。ゴミ屋敷と化して、両親共に逝ってしまった。母が亡くなった日、私は東京の美術館にいた。梅雨の明けきらない曇天の夕刻、庭園を眺めながら、お茶を飲んでいて不思議な心持ちになった。悲しいと言うのでもない、不安でも開放的でも、恐怖でも温かいでも、そのどれもが混じり合ったような気持ちになりビックリした。重く垂れこめる空を眺め続けた。後にも先にもあの時だけだった。日付が変わる頃、弟から電話があった。 「今、病院から電話があった、亡くなった、 お袋」  母のことを知らないな~と思う。私はこの前近代的な母を恥じていた。尊敬できる言葉や料理や、憧れの要素が何一つない。私に謎を残して母は無念やら不幸せやらを身にまとい、あの曇り空の向こうに消えていった。 母に何を言えばいいのか、わからない。 それでも母は私を恋しいと思ってくれているだろうか。

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