朝日訴訟の会
周辺ニュース
ページ名:朝日訴訟の会、岡山県岡山市、パンくず上(その他(未分類))
「人間裁判」の原告、女性が支えた証し 故足立初枝さん、朝日さんの遺品守る /岡山県
1957年、早島町の療養所に結核で入所していた朝日茂さんが、憲法25条で定める生存権の意味を国に問うた「朝日訴訟」。一審では主張が認められたが、高裁で逆転敗訴し、上告中の64年、朝日さんは50歳で亡くなった。病床で闘う日々、朝日さんは、療養所で出会った女性と結婚を約束し、未来を夢見ていた。「郷里の津山で民主的な本屋をやろう」
女性は3年前、98歳で亡くなった足立初枝さん。朝日さんより1歳若く、同じように結核を患い、国立岡山療養所(当時)に入所した。自らの病は5年あまりで治ったが、その後も付き添いとして療養所に残り、朝日さんの世話を続けた。「肌着が2年に1枚、パンツが年1枚しか買えないような生活保護水準は低すぎる」と訴えた裁判は「人間裁判」と呼ばれた。達筆だった足立さんは、東京地裁の勝訴で大量に届いたカタカナの祝電を1枚ずつ漢字で清書した。自転車に乗れなかったので、「本屋をするのに困る」と療養所の中庭で練習し、朝日さんが病室から見守った。だが、2人の夢はかなわなかった。足立さんは、親族と一緒に、朝日さんの遺骨を東京・青山霊園にある「解放運動無名戦士墓」に葬った。訴訟は死亡直前に養子縁組をした夫妻が引き継いだが最高裁は認めず、67年に上告を退けた。死去から4年後の命日、療養所のそばに人間裁判の石碑が建立され、足立さんはその近くで暮らし続けた。倉敷市向山の井上久仁子さん(79)は、夫が早島町のシルバー人材センター事務員だったことから、約10年前、足立さんと知り合った。「とても魅力的な男性だった。男の中の男だった」と、足立さんは朝日さんの思い出を語った。数年後、足立さんはインフルエンザで入院し、井上さん夫婦を頼った。その後、倉敷市内の養護施設に入ることになり、持っていけない家財道具を夫妻が預かった。その中に朝日さんの愛用品があった。机代わりのミシン板、文箱、虫めがね、ペーパーナイフ、そろばん。辞書には喀血(かっけつ)の染みがついていた。亡くなって病室を片付けた時にもらったという。2010年、足立さんは妹と一緒に暮らすため、広島の施設に移ることになった。荷物を引き取りに来た親族は、足立さんと朝日さんの関係を知らなかったので、井上さんは遺品を渡さず、保管し続けた。今年2月、NPO法人「朝日訴訟の会」が、岡山市北区下伊福西町の県民主会館に「朝日訴訟記念展示室」を開いた。日記をつづったノートや肺のX線写真、裁判官手書きの判決原稿など約60点が並んでいる。井上さんは、足立さんが守り続けた遺品も多くの人に見てほしいと、寄贈を申し出た。「これは、ただの物ではない。朝日さんは天涯孤独ではなく、足立さんという女性が最期まで尽くしたことの証しです」
6点の遺品は23日、会に引き渡される。事務局長の川谷宗夫さん(61)は「足立さんが朝日さんの病室に泊まり込んで献身的に看病したのは確かで、心の支えだったのは間違いない」と話す。朝日さんは病床で1万通近い手紙を書いた。「それに使った辞書は貴重な資料。書簡や愛用した万年筆と一緒に展示したい」と喜んでいる。
〔2016年9月26日・貧困ネット、◆平成28(2016)年9月16日 朝日新聞 大阪地方版朝刊〕

