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アドラー心理学

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2020年2月5日 (水) 16:16時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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アドラー心理学

心理臨床オフィス・ルーエ(山梨県甲府市)

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ページ名アドラー心理学、(事項百科)
「わたしは正しい」と確信した瞬間、人は権力争いに足を踏み入れる
国内200万部を突破し、世界累計部数ではなんと475万部を超える『嫌われる勇気』。
アドラー心理学の入門書である本書が、これほど現代の人々に受け入れられた要因の一つに、「哲人」と「青年」の対話の魅力があげられよう。
アドラーに精通する哲人と、全読者の代表とも言える悩める青年の対話は、そのまま共著者である岸見一郎氏(哲人)と古賀史健氏(青年)の関係に当てはまる。
両氏は、いま200万部突破を記念して全国9ヵ所でトークイベントを開催中だが、それはまさにリアル哲人とリアル青年のセッションと言える。
そこで改めて哲人と青年の対話を楽しみつつ、アドラー心理学の衝撃的な教えをじっくり考えて頂くため、『嫌われる勇気』の重要箇所を抜粋して特別公開する。
今回は、誰もが陥りがちな「対人関係における権力争い」についての部分をお届けしたい。
● 権力争いから復讐へ
厳格な両親に育てられた青年は、幼いころからずっと兄と比較され、虐げられてきた。
どんな意見も聞き入れられず、出来の悪い弟だと言葉の暴力にさらされてきた。
学校でも友達をつくれず、休み時間はずっと図書室にこもっていた。
図書室だけが自分の居場所だった。そんな少年時代を過ごしてきた青年は、まさに原因論の住人だった。
もしもあの親の下に育たず、あの兄が存在せず、あの学校に育っていなければ、自分にはもっと明るい人生があったはずだと。
なるべく冷静に議論しようとしていた青年だったが、ここにきて積年の思いが爆発してしまった。
青年 いいですか先生、目的論など詭弁であり、トラウマは確実に存在します! 
そして 人は過去から自由になることなどできない! 先生もお認めになったでしょう? 
われわれはタイムマシンで過去にさかのぼることはできないのだと。
過去が過去として存在しているかぎり、われわれは過去からの文脈のなかに生きているのです。
もしも過去をなかったものとするのなら、それは己の歩んできた人生を否定しているも同然です! 
先生はそんな無責任な生を選べとおっしゃるのですか!
哲人 そう、タイムマシンに乗ることもできなければ、時計の針を巻き戻すこともできません。
しかし、過去の出来事にどのような意味づけをほどこすか。これは「いまのあなた」に与えられた課題です。
青年 では、「いま」の話を聞きましょう。
前回、先生は「人は怒りの感情を捏造する」とおっしゃいましたね? 
目的論の立場で考えるとそうなるのだ、と。わたしはいまだにあの言葉が納得できません。
たとえば、社会に対する怒り、政治に対する怒りなどの場合はどう説明されます? 
これもまた、自らの主張を押し通すために捏造された感情だといえますか?
哲人 たしかに、社会的な問題に憤りを覚えることはあります。
しかしそれは、突発的な感情ではなく、論理に基づく憤りでしょう。
私的な怒り(私憤)と、社会の矛盾や不正に対する憤り(公憤)は種類が違います。
私的な怒りは、すぐに冷める。一方の公憤は、長く継続する。
私憤の発露としての怒りは、他者を屈服させるための道具にすぎません。
青年 私憤と公憤は違うと?
哲人 まったく違います。公憤は、自身の利害を超えているのですから。
青年 じゃあ、私憤について伺います。いくら先生だって、さしたる理由もなく罵倒されたら腹が立つでしょう?
哲人 立ちません。
青年 噓をついちゃいけません!
哲人 もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考えるのです。
直接的な面罵にかぎらず、相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えてください。
青年 権力争い?
哲人 たとえば子どもは、いたずらなどによって大人をからかってみせることがあります。
多くの場合、それは自分に注目を集めることを目的にしたもので、大人が本気で怒る直前に引っ込められます。
しかし、もしもこちらが本気で怒るまでやめないのだとすれば、その目的は「闘うこと」そのものでしょう。
青年 闘って、なにがしたいのです?
哲人 勝ちたいのです。勝つことによって、自らの力を証明したいのです。
青年 よくわからないな。ちょっと具体例を挙げてもらえますか?
哲人 たとえば、あなたがご友人と、現下の政治情勢について語り合っていたとしましょう。
そのうち議論は白熱し、お互い一歩も譲らぬ言い争いのなか、やがて相手が人格攻撃にまで及んでくる。
だからお前は馬鹿なのだ、お前のような人間がいるからこの国は変わらないのだ、と。
青年 そんなことをいわれたら、こちらだって堪忍袋の緒が切れますよ。
哲人 この場合、相手の目的はどこにあるのでしょう? 純粋に政治を語り合いたいのでしょうか? 違います。
相手はただあなたを非難し、挑発し、権力争いを通じて、気に食わないあなたを屈服させたいのです。
ここであなたが怒ってしまえば、相手の思惑通り、関係は権力争いに突入します。いかなる挑発にも乗ってはいけません。
青年 いやいや、逃げる必要はありません。売られた喧嘩は買えばいい。だって、悪いのは相手なのですからね。
そんなふざけた野郎、思いっきり鼻っ柱をへし折ってやればいいのです。言葉の拳でね!
哲人 では、仮にあなたが言い争いを制したとしましょう。
そして敗北を認めた相手が、いさぎよく引き下がったとしましょう。
ところが、権力争いはここで終わらないのです。争いに敗れた相手は、次の段階に突入します。
青年 次の段階?
哲人 ええ。「復讐」の段階です。
いったんは引き下がったとしても、相手は別の場所、別のかたちで、なにかしらの復讐を画策し、報復行為に出ます。
青年 たとえば?
哲人 親から虐げられた子どもが非行に走る。不登校になる。
リストカットなどの自傷行為に走る。
フロイト的な原因論では、これを「親がこんな育て方をしたから、子どもがこんなふうに育った」とシンプルな因果律で考えるでしょう。
植物に水をあげなかったから、枯れてしまったというような。たしかにわかりやすい解釈です。
しかし、アドラー的な目的論は、子どもが隠し持っている目的、すなわち「親への復讐」という目的を見逃しません。
自分が非行に走ったり、不登校になったり、リストカットをしたりすれば、親は困る。
あわてふためき、胃に穴があくほど深刻に悩む。
子どもはそれを知った上で、問題行動に出ています。
過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、いまの目的(親への復讐)をかなえるために。
青年 親を困らせるために、問題行動に出る?
哲人 そうです。たとえばリストカットをする子どもを見て「なんのためにそんなことをするんだ?」と不思議に思う人は多いでしょう。
しかし、リストカットという行為によって、周囲の人──たとえば親──がどんな気持ちになるのかを考えてみてください。
そうすれば、おのずと行為の背後にある「目的」が見えてくるはずです。
青年 ……目的は、復讐なのですね。
哲人 ええ。そして対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決はほとんど不可能になります。
そうならないためにも、権力争いを挑まれたときには、ぜったいに乗ってはならないのです。
●非を認めることは「負け」じゃない
青年 じゃあ、面と向かって人格攻撃された場合はどうすればいいのです? ひたすら我慢するのですか?
哲人 いえ、「我慢する」という発想は、あなたがいまだ権力争いにとらわれている証拠です。
相手が闘いを挑んできたら、そしてそれが権力争いだと察知したら、いち早く争いから降りる。
相手のアクションに対してリアクションを返さない。われわれにできるのは、それだけです。
青年 でも、挑発に乗らないことなど、そう簡単にできますか? 
そもそも、どうやって怒りをコントロールしろとおっしゃるのですか?
哲人 怒りをコントロールする、とは「我慢する」ことですよね? 
そうではなく、怒りという感情を使わないで済む方法を学びましょう。
怒りとは、しょせん目的をかなえるための手段であり、道具なのですから。
青年 ううむ、むずかしい。
哲人 まず理解していただきたいのは、怒りとはコミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能なのだ、という事実です。
われわれは怒りを用いずとも意思の疎通はできるし、自分を受け入れてもらうことも可能なのです。
それが経験的にわかってくれば、自然と怒りの感情も出なくなります。
青年 でも、相手が明らかな誤解に基づく言いがかりをつけてきたり、侮辱的な言葉をぶつけてきたとしても、怒ってはいけないのですか?
哲人 まだご理解されていないようですね。怒ってはいけない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」のです。
怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。
だからこそ、「ついカッとなって」などといった言葉が出てきてしまう。怒りを頼りにコミュニケーションしてしまう。
青年 怒り以外の有用なコミュニケーション……。
哲人 われわれには、言葉があります。言葉によってコミュニケーションをとることができます。
言葉の力を、論理の言葉を信じるのです。
青年 ……たしかに、そこを信じなければこの対話も成立しません。
哲人 権力争いについて、もうひとつ。
いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。
ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。 青年 なぜです?
哲人 人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。
青年 正しいと思っただけで? いやいや、なんて誇張ですか!
哲人 わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。
そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。
つまり、「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。
これは完全なる権力争いでしょう。
青年 ううむ。
哲人 そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。
あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。
ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。
だからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです。
青年 たしかに、その側面はあります。
哲人 負けたくないとの一心から自らの誤りを認めようとせず、結果的に誤った道を選んでしまう。
誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。
優越性の追求とは、他者との競争によっておこなうものではないのです。
青年 勝ち負けにこだわっていると、正しい選択ができなくなるわけですね?
哲人 ええ。眼鏡が曇って目先の勝ち負けしか見えなくなり、道を間違えてしまう。
われわれは競争や勝ち負けの眼鏡を外してこそ、自分を正し、自分を変えていくことができるのです。
(続く)
〔2020年1/24(金) ダイヤモンド・オンライン古賀史健/岸見一郎〕

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