居場所(フリースペース)または当事者の会
居場所(フリースペース)または当事者の会
——不登校情報センターのあゆみの一面
2025年9月執筆
記憶では、1996年8月4日、横浜駅近くの神奈川県民センターの一室で通信生・大検生の会を開いたのが最初の当事者の集まりです。
当時リクルート社から個人情報誌『じゃマール』が発行されており、そこに掲載されている通信制高校生や大検生、あるいは不登校の人たちの声を見て思いついたのです。
横浜を選んだのは神奈川県在住の人から積極的な反応があったからです。
通信生・大検生の会は私の中では一般呼称であり、それを固有名詞にするつもりではありません。
当日集まったのは5人ほどの少数であり、会の設立をきめるほどとは思えません。
ところが参加人数はその後も似た状態であり、この通信生・大検生の会は、固有名詞になりました。
そのころは事務所はなく、親からの相談も通信生・大検生の会の会場もそのつど借りていました。
公共機関の会議室が多く、集まるメンバーのいた立正大学や明治大学の一室で開いたこともあります。参加者はだいたい10名未満です。
1998年の夏ごろ、協力関係にあったWSOセンターの平井さんが、固定した事務所を設けてはという提案をしてきました。
自宅から近い大塚駅近くに8畳ほどのワンルームを借りたのが1998年8月末のことです。
それ以降はここが定例会の場に固定され、当初は水曜日午後1時から開かれました。
多くの人が集まりました。毎週水曜日には部屋からあふれました。30名以上が入り、履き物が多くて玄関のドアが閉められません。
そのような場所が求められていた時代だったのです。
2001年3月ごろこの様子を朝日新聞に投稿しました。
その記事を見た当時の第一高等学院の田中さん(経営母体の学育舎副社長)から連絡があり、新小岩校を閉鎖したので活用しないかというのです。
それで5月にその校舎を借りて講演会を開きました。参加者は70名くらい(?)だったと思います。
不登校の親が多く、このグループの会合が後の親の会になりました。参加した当事者が大塚から新小岩への事務所の引っ越しを手伝ってくれました。
不登校生への訪問サポートをしていたトカネットも独自の発表をしました。
2001年6月移転し、(旧)第一高等学院新小岩校が不登校情報センターの事務所です。
1階スペースはあゆみ書店(後に喫茶いいなが加わる)と事務室、コピー機などがある作業室と図書室代わりの教室、2階には3教室がありました。
いつ誰が来てもスペースがある状態になりました。
当時の私は、この当事者の集まる状態に特別の名称があるとは知りませんでした。
当事者の会という名を知り、いや当事者という呼び方自体もここにきて知ったのです。
参加した人のなかにフリースペースと呼んだり、居場所と呼んだり、あるいはグループカウンセリングと呼ぶ人がいて、「ああそういう名前で呼ばれているのか」と知ったのです。
ここを会場として親の会は毎月開かれました。カウンセラーやカウンセラー志望の人が関心を寄せ、協力してくれるようになりました。
(旧)第一高等学院新小岩校には2005年8月までの4年2か月いました。
その後、近くのマンションに移動し(2013年8月まで)、さらに平井のマンションに移動しました。
当事者の参加数の減少に沿ってスペースは狭い所に移動したのです。
居場所(フリースペース)ではいろいろなことが生まれました。
私は不登校やひきこもり経験者が互いに顔を合わせ、話ができ、人間関係をつくり、知人・友人となるよう期待したのです。
特別のプログラム/訓練計画はありません。そのためか「支援者」扱いされると、どうも違和感が先立ちます。
編集者経験者として様子を記録するのが主な役割のつもりでしたが、話し相手にされ、また相談を受ける機会が増えるのは避けられません。
私の方からの提案はほぼしていませんが、提案が寄せられれば実現しようと試みました。参加者の動向を見て、こうしたらいいと思うことを具体化しました。
今からふり返ると実に教訓に富んでいます。最近私が深く考えるようになった対人関係づくりや対人ケアを考える内容が、自然発生のように生まれていたのです。
現在、私は家族制度の中でケア労働の役割に思いめぐらすことが多く、その一般状況の参考になるかもしれません。ケア労働は社会のいろいろな方面に広がっています。
そこを考える私の経験には不登校情報センターの居場所がある。その経験を深く見直すヒントになると思えます。
(1) 外出先——ひきこもりにとって家を出たあとどこに行くのか? 商店などでは長くいると不審者です。商店街にあるベンチや公園もいいのですが、手もちぶさたになります。
図書館は好みの本が見つかれば時間をつぶせますが、もの足りなさが出ます。
結局、人間は人間を必要としているのです。人のいる感じがあって、可能性として自分と話しができる、少なくとも何らかの接点が持てそうに思える。
居場所の最初の役割はそのような「外出先」です。
(2) 人との接点——が続きます。場なれしない所では、何をどうすればいいのかわかりません。
そこにスタッフとか通い慣れた人が近づいてきて、何となくそこに居る経験ができた。人と場所が結びつくのがこのように実現します。
当事者の会の会場をあちこち移動していた時期は、この「いつでも行ける」場所がありませんでした。
場所が定まっていることは重要な要素です。その上で「人」であり、常連や親しい人ができると居場所と自分の関係は変わります。
(3) 居場所の中心状況——場所が定まり、人が集まると多方面に発展します。
「~教室」というテーマがあるのはその目的のためにはいいのですが、幸か不幸か私にはその特別の方法はありません。
それに代わって、関心を持って来たカウンセラーを始め通所した当事者同士での試みが生まれました。
通所者が求め・発意したことを試してみる、情報センターに求められたことや通所する人が聞いた情報を基に動いてみた結果でしょう。
思い出したものを列記してみました。存在した時期や関わった人数はいろいろです。
(3-1) 自分の経験を語り、他の人の経験を聞く。不登校やひきこもりの体験者が集まる中でこれは自然に始まりました。
そのなかで人生模索の会はTKくんが中心に始めた社会参加をめざすグループです。
小林剛『人生模索の会』という体験記のなかで経過がまとめられています。
(3-2) 体験発表―自己紹介を超えてところの、不登校やひきこもりの体験発表の場を何回か企画しました。体験記にまとめた人もいます。
LGBT系の数人が集まり話し合う機会もありました。
友達をテーマに体験交流もしましたが「友達はいません」という発言があって驚いたのですが、そういう人が多数だったのです。
(3-3) 書店と喫茶(場づくりと担当者)―複数の教室など多くのスペースのある場に初めは戸惑いました。
1階の最大スペースに本を置き書店にしました。本が多くあったので並べたのです。希望者を曜日により書店員に決め、場の担当者がいる居場所になりました。
本が売れるのは特別の機会に限られ、当日の居場所担当が中心です。やがて喫茶を開く人が生まれ、手作りの洋菓子を置きました。
さらに協力関係にある学校等の案内書パンフレットを置きました。
(3-4) 『ひきコミ』誌が市販であったころには、松田の他に3~4人がやや固定的な編集メンバーになっていました。
⇒「文通誌『ひきコミ』の誕生から廃刊までの事情」。編集見習いと文章の扱いを学びました。
(3-5) カウンセリングの機会―新聞報道などで知ったカウンセラーやその志望者が協力してくれるようになりました。
希望する通所者にカウンセリングも始まりました。カウンセラーと話す機会が生まれ、「心理学の勉強会」もありました。
(3-6) 勉強会—特定の本をテキストにした勉強会がいくつか開かれました。保険業の人が保険の勉強会を、化粧品業界の人がメイク教室を開きました。
当事者によるパソコン教室もこれに入るでしょう。
(3-7) 学習塾―ある人が1年間程度でしたが「シャイン」という名の学習塾を開きました。生徒は高校生年齢の10代後半の数名です。
(3-8) クラブ活動(?)—インラインスケートを数人がやっていました。マッサージなど身体療法を習っている数人が話し、互いに練習台になっていました。
親の会の参加者が定例会の後で太極拳のエクササイズをしており、これに参加した当事者もいました。
⇒不登校情報センター・親の会の歴史。
(3-9) 創作・表現活動—自作のイラスト作品を持ち寄って話している人たちがいました。これは2005
これは現在も作品集づくりとして細々と続いています。出版関係の人が来て、諸星ノア『ひきこもりセキラララ』という体験を元に本を出版しました。
(3-10) ホームページ制作—不登校情報センターの公式ホームページを制作することになり、多いときは20人近くがこれに参加していました。
⇒不登校情報センターのサイト制作の経過と現在、パソコン導入とホームページ制作の変遷。
(3-11) 「進路相談会」を開いたとき当事者に応援をしてもらいました。
相談会の参加者の中心は母親たちであり、不登校体験者として母親たちの相談をしたのです。
移転後の2001年秋に5日間通して行った進路相談会は参加者合計500人になる最大のイベントでした。
進路相談会はセンター内だけではなく学校などの協力により首都圏のいくつかの場で行い、そういう機会にも参加してもらったのです。
(3-12) 小遣い稼ぎ(アルバイト)—2003
「30歳前後の会」という当時としては年長のグループが定期的に会合をくり返しておりそこから出た意見でした。発送作業として学校案内書のDM発送や地域情報誌『ぱど』の配布は、作業時間と部数により小遣い程度の収入になりました。ホームページ制作もある時期から広告収入が入るようになり、支払いを行いました。
⇒Center:ワークスペース・あゆみ仕事企画+収入になる取り組み等記録(1)~収入になる取り組み等記録(3)に詳しい表を掲載。
(3-13) 食事会―料理のできる人が来て食事会を開いたことが何回かあります。その食事会が居場所の中心と思える時期もありました。食事会はコミュニケーションをしやすい場になったのです。
(3-14) 器材提供要請や職場見学―メーカーの(株)リコーに印刷機の提供をお願いしたことがあります。学校に中古パソコンをもらうよう働きかけました。誰かが発意して障害者施設の見学、パソコン技術を使う会社への見学もしました。これらは社会経験の機会であり、それぞれ数人が参加しました。
(3-15) 他にもいろいろな動きがありました。女性の会もあったのですが詳しくは知りません。
(4)居場所の外側——居場所を終えた後の、ファストフードや居酒屋での二次会も、居場所の役割を考えるうえでは欠かせない要素です。この状況は私には半分も伝わってこなかったと思います。対立やけんか、恋愛感情の発生や葛藤なども生まれています。ある人がその状況を「ウラ居場所」と表現して話してくれました。社会の縮図、ひきこもり経験者間の直接の人間関係が生まれ、そこで傷つきもすれば、快体験もする場だったと思えます。
居場所の中心の役割は、ここでいうと(3)と(2)でしょうが、その前後にある(1)や(4)もまた居場所には欠かせない要素です。普通扱われる居場所、例えば学校や会社のような公式な場とは違いますが、人として社会生活で出会う経験をする、社会体験の予備機会になります。不登校情報センターの居場所の特色は、当事者自身によるものと協力する専門職の発意によって生まれたことです。私は場の設定者でしたが、そこで展開されるプログラムの主導者ではありません。
この経験により世にある多くの各種の居場所を論じるには飛躍があります。ただ自然に生まれた居場所からは学ぶに値することもあれこれあるでしょう。
居場所に関してはこれまで数回、ある程度まとまったことを書いてきました。⇒不登校情報センターの居場所の経過、不登校情報センターの居場所の内容。

