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体験記・ナガエ・私の物語(1)

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2011年2月25日 (金) 17:26時点における版


目次

私の物語(1)

著者:ナガエ(女性)

 これは誰にでも書ける物語である。
 しかし、これは私にしか書くことのできない、私だけが唯一知りえる話である。

「序章 靴」

 人生という名の白く長く引かれたベースラインから足を踏みはずし、鉄が腐りただれ茶色く臭い立つ波のうごめく海原へと身は投げ出され、私の心と体はむざんにも粉々に解体されてしまった。

 十六歳の春。

 空を見上げると、雲の動きが紫に変色しあやしく交錯していた。その時私は気づかねばならなかったのだ。暗く冷たいどしゃぶりの雨の中を、一人で走る覚悟を決意しなければならないことを。

グループ

 四月。私は近くの県立高校へ入学した。合格の喜びを胸の内に秘め、そのかたわらで漠然とした得体の知れない不安におそわれるようになった。
 高校生活が始まって数日間は出身中学校が同じ生徒同士でかたまっていた。2週間も経てば、いくつものグループができ上がっていた。私の入学した学科は女子ばかりのクラスだったせいか、一人でいるものなど誰もいなかった。グループはちゃらちゃらとした茶髪の子が入り混じった派手な集団、それからいかにも真面目そうな子の集まり、そしてその中間を行く素直で元気なグループの、大きく分けると約三つほどであった。
 それら以外にも少人数でかたまっているグループはあって、漫画やテレビゲームの好きなちょっとオタクっぽい集まりとジャニーズジュニアを追っかけてきゃっきゃっと声を出し、いつも芸能人の話に夢中になっている子たちの集まりがあった。
 私は自分のことを普通だと思っていたし、なんのためらいもなく、自分の目から見て素直で元気そうなグループに属することにした。話す話題は、昨日見たドラマだとか今日の授業の課題は難しかっただとか、そんなたわいもない普通の学生の会話だった。
 友達もでき、高校生活にもほどよく慣れ、大して問題もなく過ぎていく。
 カレンダーはかわり5月になった。中間テストを受けることになった。さほど勉強したわけでもなかったが、驚くことに成績はほとんどの科目で1位か2位で占められていて、総合得点でクラスでトップだった。
 だが、負けん気の強い性分だったせいかよい成績を維持しなければと思い込むようになる。自分で自分にプレッシャーをかけやがて夜は寝つけなくなっていた。
 このあたりから不吉な音楽が流れだし、リセットボタンを押してもオフにならないメロディが奏でられ始る。そのリズムにのり、上手に踊ることのできない自分自身がいることに気づきはじめた。同時にざわめきたつ不安と呼ばれるものが胸に中で培養され増殖していった。
 「夜眠れない、どうしたらいいのか」
 グループの中で一番親しくしていた友達にその種の手紙を何通も送りつけ、相手の都合などお構いなしに携帯電話に自宅に、ほとんど毎日追われるように電話した。
 だが私の不安は、思いは満たされることはなかった。その頃から「自分の姿が見える」という離人感を感じるようになった。
 手紙を送り続けた友人には“気持ち悪い”と嫌がられ、クラス全体からもしだいに孤立していった。一人でいることが多くなり、途方に暮れていた私を派手目のグループの子たちが誘うことが増えはじめた。一人でいるよりはましだと思い、彼女たちとつき合うようになった。
 もし一人でいたら昼食の弁当は、グループごとに分かれて食べるわけだから当然一人で食べることになる。そんなことはごめんだった。
 六限の授業を終えると、どこかへ遊びにいくことが多く、カラオケボックスへ行ったり、ショッピングをしたり、財布にある少ないこづかいは散るように消えていった。
 日によっては酒を飲むこともあった。ビールやチューハイを買い集め、グループの中の一人の家へあがりこんで、飲みながら彼氏や男の子の話題に暮れた。
 「ねえ、茶髪にしない?」
 セミロングに伸ばした黒い髪の私を見て一人が小さく言った。すると周りにいる子たちも乗り気になって「ほんとほんと、イメチェンしてみたら」とどこからか雑誌を持ってきて、めくると私の目の前に広げた。
 髪の毛を黒以外の色に染めるなんて、私にはそんなだいそれたことはできない。そう思ったが嫌だと声に出して言うことができず、この場で最適当で、断るでもなく受け入れるでもないそういう言葉はないものかと頭をひねった。そして発言した。
 「うん。また気が乗ったらする」
 万事休すだった。その返事に誰も反論してくる子はいなかったし、なんとかその場をやりすごした。

酒と香水

 放課後遊んで帰り、授業後直接に帰るわけではなかったわけだから家に着くのは当然遅くなった。
 「なぜ帰りが遅くなるのか」親にしつこく尋ねられ叱られながらも真面目すぎた私には、そのことを打ち明けるのが恐ろしく、部活だのなんだの、帰りが遅くなるのではないかと予想出来る日は言い訳をいろいろ考えて帰宅した。
 酒を飲んでない日はよかったが飲んだ日は大変だった。苦く飲み慣れない酒を無理にのどに流し込んで、吐くのではないかと思いながら、たむろしていた場所から駅まで歩いた。
 飲むことに慣れるようになると、飲めない酒をわざと大量に胃におしこんで、駅まで行く道中にある商店街の裏路を通り、人目のつかない街路地の側にある溝のふたをこじあけ、口を開けると指を突っ込んでそこへ“もの”を吐いた。
 一度吐くと胃はすっきりとし快感にも似た感情がわきあがった。吐くという行為は常習化し、癖か習慣のようになっていた。
 酒をたくさん飲めばグループにもてはやされ、吐くということが快楽になっていた私には一石二鳥の発見だった。吐くわけだから酒臭さはより一層悪くなる。ちょうどその頃はコロンがブームだったので持っていた桃の香りのするコロンをめいっぱいふった。親には「匂いがきつすぎる」と叱られたが、酒を飲んでいることがばれてはまずいと思い、私は酒臭さより香水の匂いを選んだ。
 あわない友人たちと学校と家族との両立に神経をすり減らし、人ごみを嫌い、家路に着くために電車さえ乗ることが苦痛になっていった。
 期末テストが近づくにつれ勉強しなければという強迫観念だけが一人歩きしていた。テスト前日も遊びグループの誘いにのってしまい、まったくといってもいいほどテスト勉強をせずその当日を迎えることになった。
 嫌々ながら電車に乗り、やっとの思いで学校に着くと靴を脱ぎ、右手で靴をつまみあげた。上ばきと交換するために、げた箱に目をやった。自分の中であやゆるものが動きを止め、げた箱に目の玉を釘づけにし凝視させた。“スリッパがない”。
 いったいどいうことだ。冷静に物事を考えることができず、恐怖と怒りで涙が自然に瞳からこぼれ出た。
 誰の私に対する復讐なのだろう。自分の感情を心の内で溜めることができず、こうして目に見えるカタチで知らない場所から、私に伝わるように送ってきたのだ。
  “絶対誰かが盗んだに違いない”。
 その嫌な考えは確信に近い自信をつけ、想像力をかきたてさせた。もっと単純に盗んだわけではなく間違えてはいていったのかもしれないという別の考えもできたはずなのに。その時はあいにくそう考えられなかった。その盗んだ人物は両手でスリッパを抱えるようにもち、焼却炉までいくと恨みの念をこめてぼうぼうと燃えさかる火の中へ放り込み捨てる・・・・・・という様子を想像してしまった。あるいは集団か単独か。
 それとも昨日、一緒になって遊んでいたグループは、私が中間テストでトップだったことを知っていて、はめるために誘い、今朝スリッパを盗んだのだろうか。私がもっと傷つくように、無邪気な表情の裏で企んでいたというのか。はめるために昨日誘ったのは本当だとしても、今朝のことは理由もなしに根拠もないが違う気がした。

 その時、突然ふとある映像が脳裏をよぎった。それはフラッシュバックに近かった。冷凍された記憶は解凍し、目を覚ました。
 過去に足を取られ私は、白いレールの上から足を踏みはずし、シナリオとして描かれていたダンスは入れ違いになっていたことを実感したのだ。過去の自分を恨み、呪い、責め、いじめられたいと望んだのは他の誰でもなく自分自身であった。
 それは悲しい“葬式”の映像だった。家族を愛し、自らを負担に思い、自殺した母親の。
 小学校時代、私といつもあるのは孤独との闘いだった。学校が楽しくて通っているわけではなかった。周囲の評価を気にし、皆勤賞を手にするためだけに文句をもらさぬよう口をつぐみ、休まず通った。
 しかし残念ながら高熱を出し結局のところ2日休み、皆勤賞をもらうことはできずじまいだったが。
 「毎日誰か一人が仲間はずれにされる」
 当たり前の残酷な掟だった。“誰か一人”というのが自分に当たりませんようにと、他人の不幸をひたすら星や月や神様にお願いして毎晩眠った。学校という檻で飼われ、友達というむちで調教される生徒たち。
 その亡くなった母親の子どもは同じクラスに転校してきた。当然その子どもはかっこうの餌食にされた。細身で色白の彼女(こども)は体が弱いことに目をつけられ、存在を否定され続けた。彼女が体が弱いのは実の母から受け継いだものだった。その一家が引越しをし、彼女が転校して何か月たったある日、母親はこの世からいなくなってしまったのだ。
 なぜ、死ななくてはならなかったのか。
 噂では生活が苦しくなり、体の弱い自分がいては困るのだと言い残して亡くなった。
 “噂”は噂であり真実か否かはわからない。素朴な疑問だが何者がそんなことを親族から聞きだし、広め、噂になるのか。言えるのは、ここは「田舎」であるということだ。
 すべてを抱え込み死んでしまった。
 腹を痛め産んだ子を残してまでも、自らの命を絶つ決断を下すまで何が、母を追い込んだのか。今となってはわかるはずもない。
 自殺現場には“靴”をそろえて置かれていたそうだ。
 その“葬式”の影響を受け、掟は破られるのではないかと私は貧欲に期待した。私は優しくなどありはしない。人間の格好をした野獣のように乱暴で繊細な動物なのだ。自分の身を守るためなら、他人がむさぼり食われ、血を流す様子をじっと見つめるケダモノであった。
 親に話せるはずがなかった。なぜなら私たちのクラスは表面上では“優等生”というレッテルをはられていたからだ。シールのようにべったりと貼られたものを私は自分の爪ではがす術を知らなかった。いや、正しくは違う。気の小さい私は知りながら知らないふりを演じていただけかもしれない。
 「誰か一人をのけものにする」。その順番が私に回ってきても、平然と帰宅した。いつも大人に対して私は“優等生”でなければならかった。たとえ、それが親であっても同じことだ。
 両親は共働きで私は鍵っ子だった。だから、家に帰っても一人だった。父は家に関して無頓着な人で、雨がもっても放っときぱなしであり、近所でおんぼろ屋敷と笑われても知らぬ顔をしていた。
 その順番がまわってくるのは決まって雨の日が多く、雨が家の中を降る音を聞きながら泣いていた覚えがある。
 家だけではなく、すでに私という一つの丸い固体にひびがはいり、家族とも学校という社会からも亀裂が薄く生じ、崩壊しかけていたのかもしれない。
 母は今、私の地獄の生活を忘れてしまっている。実は小学校を卒業する時、軽い調子でその事柄を話した。その時の母の反応を思い出すことはできないが、現在の私の姿を見てこう言うのだ。
 「小学校の頃はいい子だったのに。元気で明るくて何の悩みもなさそうではつらつとしていたのに、なぜこんな風になってしまったのか」。
 “心の傷は目に見えない”
 よく耳にする言葉である。家族などというものは所詮は他人の寄せ集めである。私が“家族”から発されたささいな一言にこんなに傷ついてしまうのも、被害者意識が強いのも、それを知っているからだろうか。それともそれを理解できずにいる子どもだからだろうか。
 本当は過去にとらわれているのは私ではなく母であり、その青光りする靴を必死になってはかせようとしているのも母なのかもしれない。

居場所

 空っぽになったげた箱を眺めながら、呆然と立ち尽くし、過去を回想していた。もう二度とあんな生活に戻りたくない。秘密を背に乗せ、ランドセルと称して重い重い教科書を学校まで運んでいく日々を。
 今度こそ沈黙を使ったりしない。
 熱い大粒の塩分を含んだしょっぱい涙を、あふれだす涙を、止めることは不可能だった。
 われを忘れ靴下のまま保健室へ行き、勢いよく戸をあけると「先生!」と叫んだ。それから「スリッパがない」と告げた。
 担任はできる限り私を励まし、クラスの何人かは私を呼びに来てくれたが教室へ上がることはできず、テストは保健室で受けた。  答案用紙を埋めるために鉛筆を持ったが、手の震えでぎこちなく字がまがってしまった。テストどころではなかったし、涙で問題はゆがんで見え、ろくに読みもせず答えを書き、とりあえず提案した。過去にからめとられ恐怖に怯え先に進むことができずにいた。
 その日から急速に食欲は落ち、体重も減っていった。体はずっしりと硬く、昼も夜もベットから起きあがることができなかった。何もする気が起こらず、重しのような布団の下で息を殺し、時計の秒を刻む針が己の身をひきさいていくのをただひたすら待った。
 私がどうしてこんな目にあわなくてはならないのか。何万といる人口のなかで他の人ではなく、よりによって自分が、運命を、全てのものを恨んだ。がむしゃらにここまで走ってきたのに。
 こんなことでまけてたまるものか。走らなければと思うのに体が沼に浸かったようにだるく思うように動いてくれなかった。自分の体なのに自分の意思で動かすことができないことがあるのだと知った。
 布団の下で軽い自己否定感と人間のもろさに虐げられ続けた。布団がつけもの石ならば私はその下のつけものである。黄色い着色料に染められ、しなびていく大根。世間という重圧に押されもまれ、水気を失ったつけものである。
 親は「恐ろしい子」だと言い、「学校辞めるなら辞めてしまえ」とただ言うだけだった。
 誰も何も理解してくれない。
 7月の中旬、そう思った私は家を出た。親戚の家で夏休みを暮らした。何もかもにうんざりと嫌気がさし、どうしていいのかわからず自分の気持ちを理解してくれる人を探し求めていた。
 親戚の家といっても私の母の姉にあたる人だ。おばさんは困っている人を見ると放っておけない人で、私のことも心よくひき受けてくれた。
 おばさんとの暮らしは決して快適とは言えなかったが、順調に日を重ねていった。そのことを体は知っているかのように体重は増していった。
 おばさんはある会社を首になり、職業安定所に通っていた。私の単なる推測だが、彼女も人間関係はそう上手い方ではないのかもしれない。
 毎朝6時30分おばさんと目覚めた。一階建ての家周辺に植えられている植物に水をやった後、朝食を食べた。朝食のメニューは初めの方は華やかだったが、親しみが増すほどに質素に変化していった。
 人とはやはりそんなものなのだ。浅い付き合いなら互いに“友好的にしよう”という思いが強い。しかし深い関係になっていくと“八方美人”は不必要になり、奥にある生々しい感情は嫌な部分に触れあわなくてはならなくなってくる。
 そして飽きがきて“お別れ”となるわけだ。恋愛のように男と女の関係でけでなく女同士の関係も似た節があるように感じる。相手を“大事にしたい”“好き”という思いがなくてはその関係は持続しない。
 日差しのきつい真夏の午前中、私はどうしていたかといえば、ほとんどなにもしなかった。クーラーはなく、狭くむさ苦しい部屋でときどき数冊の本を広げ、ぼんやりと時間を過ごすだけだった。学校は休みがちになりほとんど登校しなかった。夏休みの宿題はなんとかやった。
 おばさんの家へ来て2週間過ぎた頃、おばさんの紹介で、週1回クッキングスクールに通うことになった。何をするのも面倒くさい時期だったが、菓子作りは好きだったので通うことにした。
 料理教室には若い人などは一人もおらず、主婦が大半を占めていた。ただその中に混ざって男の人も一人だけだったが習いにきていた。
 料理教室には曜日ごとにコースが決められていて、私は当然初心者のコースを選んだ。
 年上の人ばかりで、なんとなく気がひけたが、週1回ずつ顔を会わせるようになると私も案外すんなりととけ込むことができるようになっていった。菓子やパンを作っている間は、2時間という短い時間だったが不快な気分から開放された。
(つづく)

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