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田舎暮らし

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ページ名 [[田舎暮らし]]  (事項百科、) <br>
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'''「何をしても噂になる」田舎を逃れた男性の絶望'''<br>
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「周囲の目」に苦しみ続けた男性の思いとは…<br>
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「父と祖父が校長でした。祖父は地元の名士として知られ、父は祖父を見て自然と教職を選んだようです。<br>
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私は有名人の息子として、どこへ行っても『安村先生(仮名)のお孫さん』『安村先生の息子さん』として特別扱いされていました」<br>
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連絡をくれたのは40代の男性、安村祐樹さん(仮名)です。<br>
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昨年、当連載で紹介した「牧師の子」の話を読んで近いものを感じたとのこと。<br>
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祐樹さんは中学から不登校になり、高校を中退。<br>
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その後、大検を経て大学に通い、いまは「ふつうに働いている」と言います。<br>
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休日の朝、スカイプで話を聞かせてもらいました。<br>
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最初は互いにややぎこちない雰囲気でしたが、祐樹さんの出身地の歴史話になると彼の表情が和らぎ(大の歴史好きだったようです)、画面越しに空気がほぐれていったのでした。<br>
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■「自分だけ何か違う」という違和感や疎外感があった<br>
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祐樹さんが不登校になったのは、中学校に入ってすぐ学級委員と学年委員長に選ばれたことがきっかけでした。<br>
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もともと控えめな性格で、小学校のときはのんびり過ごしていたのに、成績がよかったためか、先生から「長」に指名されたのです。<br>
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「いきなり知らない人たちのなかで、みんなをまとめなきゃいけないと言われても、何をしたらいいかわからなくて。<br>
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しかも担任が非常に厳しい先生で。奥さんが教育委員長(現在は教育長と一本化)の娘で、父親や祖父とは“別の派閥”の人だったせいか、僕のことを殴ったり蹴ったりすごくいじめる。<br>
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でも父は口を出せません。<br>
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ふつうの家ならクレームを言えるけれど、父が言うと“先生対先生”の戦争になってしまうので」<br>
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中1の夏休み明けから、祐樹さんは学校に行けなくなります。<br>
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その後、母親が手を尽くして担任を異動させ、中2からは父方の親戚が担任になってくれましたが、それでもなぜか祐樹さんは学校に行けませんでした。<br>
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すると「せっかく担任を異動させたのに」といって、今度は両親が先生たちから責められたそう。<br>
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「でも中3の春からは、何事もなかったように学校に行くようになったんです。<br>
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なんで行けるようになったのかは自分でもわからない。うまく説明できないんですけれど」<br>
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聞くと小学校の頃から友達は多く、いじめなどもまったくなかったそうです。<br>
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おそらく学校へ行けなかったのは、教員たち(父親を含む)の間の、微妙な緊張感を感じ取っていたからでしょう。<br>
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高校は地元の進学校に入りましたが、入学式だけ出て、すぐ退学することに。<br>
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これもなぜ行けなくなったのか、自分ではよくわかりません。<br>
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「なにか周囲に対して、違和感や疎外感があって。自分が浮いているような感じ。<br>
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友達とは毎日遊んでいたんですけれど、自分だけ何か違うな、という感じがありました」<br>
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■ランニングも犬の散歩も、なんでもネガティブな噂に<br>
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当時、祐樹さんが抱えた違和感や疎外感には、「祖父や父が地元で有名な教育者だったこと」が影響していたようです。<br>
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「父も祖父も、非常に独特な世界観をもっていて。<br>
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自分の子どもはとにかく優等生でなきゃいけない。<br>
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歯を食いしばって勉強して、スポーツをやって、先生の言うこと、親の言うことを『はい、はい』って聞いて。<br>
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姉はそれが完璧にできる人だったので、僕のときは『なんで急に問題ばかり起こすんだ』という感じだったと思います」<br>
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また冒頭にも書いたように、祐樹さんはどこへ行っても「安村先生のお孫さん」「息子さん」といわれ、特別扱いされるのが常でした。<br>
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「もう本当に、どこへ行っても言われるんですよ。<br>
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東京のコンビニから、実家へ荷物を送ろうとしたときさえ、店員の女の子が『××(地元の地名)ですか?  安村さんって苗字、よく聞きますよ。安村先生って、いましたよね』と言われたこともあります」<br>
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東京に来てまでこうなのですから、地元ではいうまでもありません。<br>
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「小学校のとき寒い日に、なんとなく思いつきで袖なしのランニングシャツで友達とそばを食べに行ったんですね。<br>
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そうしたらすぐに『安村さんのところは、こんな真冬でもランニングを着せてスパルタ教育だ』っていう噂がすぐに広まって。<br>
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母親から『あんた、ランニング着てそば食べたでしょ』と言われました。<br>
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散歩させていた犬が車にひかれそうになって叱ったときもすぐ噂になり、『安村さんのところの息子さんが犬をいじめてる』って。<br>
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なんでも、ネガティブな噂になってしまうんです(苦笑)」<br>
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想像するだけで息苦しい、狭い世界です。祐樹さんが子どものころ、親や周囲から感じてきたプレッシャーは、並大抵のものではなかったようです。<br>
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■一流大学合格より、大検に受かったときがうれしかった<br>
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高校を退学してからは家にこもり、「好きでもないのにゲーム」をしたり、テレビ番組の録画を見たり。<br>
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その頃に起きたのが、宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件です。<br>
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ニュースでは大量のビデオテープが並んだ犯人の自室が繰り返し映し出され、祐樹さんは「このままだと、ああなってしまうのでは」と危機感を募らせます。<br>
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そこで、東京に住む姉の勧めに従い、家を出ることにしました。<br>
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東京へ行くと、姉が手配してくれた部屋に住みつつアルバイトを始めましたが、それまでずっと部屋にこもっていたこともあり、なかなかなじめません。<br>
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だんだんと精神状態が悪くなり、心療内科に通うようになります。<br>
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そんな生活のなかで、とてもうれしいことがありました。<br>
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19歳のとき、大検(現・高等学校卒業程度認定試験)に合格したのです。<br>
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「大検に合格するまでは、学歴としては中卒です。<br>
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身動きがとれない状態だったのが、『大学を受けることができる』というところまで来られたので。やっと、扉が開いたような感じです。<br>
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あれはたぶん、いちばんの親孝行だったと思います。親も本当に喜んでくれて」<br>
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当時を振り返る祐樹さんは、本当にうれしそうでした。<br>
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ただ、それから3年後、彼は誰もが知る一流大学に合格しています。<br>
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はた目には「大検より、そっちのほうがうれしくないかな?」と思ってしまうのですが、そうではなかったといいます。<br>
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「本当は東大に行きたかったので。高校を中退した人には多いと思うんですけれど、コンプレックスから『みんなの頭を超えてやる』という気持ちで東大を目指すんです。<br>
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いま思えば、最初から身の丈に合ったところを受けていればよかったんですけれど。<br>
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それでちょっともたついて、22歳のときにその大学に入りました」<br>
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大学も最初はなかなか通えなかったそうですが、しばらくしてまた、あるきっかけが訪れました。<br>
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父親に病気が見つかり「5年後の生存率が50%」と告げられたのです。<br>
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「それでスイッチが入ったと思うんです。<br>
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大検に合格した後、N先生というすごくいい精神科の先生に出会って、ずっと通っていたんですけれど。<br>
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父の病気がわかったとき、N先生に『電車に飛び込みそうになった、もう外に出ているだけでつらい』と訴えたら、『わかった』と言って、初めて薬(抗不安薬)を出してくれて。<br>
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それを1日3回飲んでいたら、本当にもう、数日で治っちゃったんです。<br>
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『やったー』と思って、すぐ近所のコンビニでアルバイトを始めて、それからは大学にも行けるようになりました」<br>
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こんなにもよく薬が効く人がいるとは。「薬で楽になった」とか「薬が合わなかった」という話はよく聞きますが、「数日で治っちゃった」という話はそうそう聞きません。<br>
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薬が合っていたこともあるでしょうが、ちょうど浮上するタイミングだったのでしょうか。<br>
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それから祐樹さんは、大学に通いながら司法試験を目指します。<br>
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就職氷河期の真っただ中で、周囲にも資格取得を目指す学生は多かったといいます。<br>
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残念ながら資格取得はかないませんでしたが、29歳のときに無事、大学を卒業することができたのでした。<br>
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■本音は「銀行に勤めたかった」父が変わったきっかけ<br>
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祐樹さんは、自らの回復にはいくつかの要因があったと考えています。ひとつは「両親が変わった」ことです。<br>
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「何でも『こうじゃなきゃいけない』という感じだったのが、ありのまま、現実を受け入れてくれたんです。<br>
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僕は父や母の考えていたような優等生ではないけれど、僕なりに自分の人生を生きていけばいい、と思うようになってくれたみたいで」<br>
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なぜ祐樹さんの両親は変わったのか。おそらく、主治医だったN先生が、彼の両親と話をしてくれたためではないかと祐樹さんは考えています。<br>
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親からもN先生からも直接聞いたことはないのですが、のちにネットで見つけたN先生の論文に祐樹さんの症例があり、そこには祐樹さんがN先生に話していないこと、<br>
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つまり両親しか知りえない情報がいろいろ書かれていたからです。<br>
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もうひとつの要因は、父親が公立校を退職後、私立校の校長になったことです。<br>
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「それで父はものすごく変わったと思う」と祐樹さんは話します。<br>
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「うちは曾祖父の代まで商家だったので、父にももともと商才があったのかもしれません。<br>
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私立の校長だから、自分で考えて予算を行使するんですけれど、それがもう毎日楽しくてしょうがないみたいで。もう、嬉々としている。<br>
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それまでは“ガチガチのスパルタ教育の先生”だったのが、いつの間にかサミュエルソン(経済学者)の話を普通にするようになっていて。<br>
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僕は今、投資家をしているんですが、最初に投資の基礎を教えてくれたのも父なんです」<br>
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父本人から胸の内を聞いたのは、私立に移ってから10年後でした。<br>
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父親は70歳で祖父と同じ、ある勲章をもらったのですが、このとき「学校の先生になるべきではなかった」と祐樹さんに語ったそう。<br>
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「本音は『銀行に勤めたかった』と言っていました。<br>
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僕もそれを聞いて『ああ、やっぱりそうだったんだ』と思って。<br>
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父も祖父の手前、学校の先生になったけど、たぶん不本意な人生を歩んできたんでしょう。<br>
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教員の世界って陰湿なところがありますが、本当は父親は、そういうのが大嫌いなので。<br>
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『なんでこんなところに自分はいるんだ』って、ずっと思っていたと思うんです」<br>
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いまはもう、ご両親とも他界されたそうですが、「晩年はゆっくり話せる時間があってよかった」と振り返ります。<br>
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いま、祐樹さんは東京で暮らしています。<br>
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高収入ではないものの「投資でちょっとずつ増やして」おり、将来の生活に不安はないそう。<br>
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いま住んでいる街をとても気に入っており、「いまがいちばんいい」と話します。<br>
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「みんな、ちゃんとしているんですよ。<br>
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僕が住んでいるあたりは、そんなお金持ちはいないんだけれど、人の悪口を言う人なんてまずいないし、皆さん仲良くやっている。<br>
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言ってもしょうがないんだけれど、××(地元)の人たちにも、東京の人たちを見習ってほしい」<br>
 +
実際は東京でも、彼の地元と同じようなところはあると思うのですが……。<br>
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でも少なくとも、多くの大人は自分の意思で住む場所を選び、不快な人間関係から離れることができます。<br>
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子どもの頃には想像もつかないかもしれませんが、大人になるだけで解決できる問題もあるのです。<br>
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当連載では、さまざまな環境で育った子どもの立場の方の話をお聞きしています(これまでの例)。<br>
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詳細は個別に取材させていただきますので、こちらのフォームよりご連絡ください。<br>
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大塚 玲子 :ジャーナリスト、編集者<br>
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〔2020年6/7(日) 東洋経済オンライン〕<br>
  
 
'''■移住を支える地域の力 移住が教える地域の魅力'''<br>
 
'''■移住を支える地域の力 移住が教える地域の魅力'''<br>

2020年7月17日 (金) 14:20時点における版

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田舎暮らし

所在地 北海道清水町
TEL
FAX

周辺ニュース

ページ名 田舎暮らし  (事項百科、)
「何をしても噂になる」田舎を逃れた男性の絶望
「周囲の目」に苦しみ続けた男性の思いとは…
「父と祖父が校長でした。祖父は地元の名士として知られ、父は祖父を見て自然と教職を選んだようです。
私は有名人の息子として、どこへ行っても『安村先生(仮名)のお孫さん』『安村先生の息子さん』として特別扱いされていました」
連絡をくれたのは40代の男性、安村祐樹さん(仮名)です。
昨年、当連載で紹介した「牧師の子」の話を読んで近いものを感じたとのこと。
祐樹さんは中学から不登校になり、高校を中退。
その後、大検を経て大学に通い、いまは「ふつうに働いている」と言います。
休日の朝、スカイプで話を聞かせてもらいました。
最初は互いにややぎこちない雰囲気でしたが、祐樹さんの出身地の歴史話になると彼の表情が和らぎ(大の歴史好きだったようです)、画面越しに空気がほぐれていったのでした。
■「自分だけ何か違う」という違和感や疎外感があった
祐樹さんが不登校になったのは、中学校に入ってすぐ学級委員と学年委員長に選ばれたことがきっかけでした。
もともと控えめな性格で、小学校のときはのんびり過ごしていたのに、成績がよかったためか、先生から「長」に指名されたのです。
「いきなり知らない人たちのなかで、みんなをまとめなきゃいけないと言われても、何をしたらいいかわからなくて。
しかも担任が非常に厳しい先生で。奥さんが教育委員長(現在は教育長と一本化)の娘で、父親や祖父とは“別の派閥”の人だったせいか、僕のことを殴ったり蹴ったりすごくいじめる。
でも父は口を出せません。
ふつうの家ならクレームを言えるけれど、父が言うと“先生対先生”の戦争になってしまうので」
中1の夏休み明けから、祐樹さんは学校に行けなくなります。
その後、母親が手を尽くして担任を異動させ、中2からは父方の親戚が担任になってくれましたが、それでもなぜか祐樹さんは学校に行けませんでした。
すると「せっかく担任を異動させたのに」といって、今度は両親が先生たちから責められたそう。
「でも中3の春からは、何事もなかったように学校に行くようになったんです。
なんで行けるようになったのかは自分でもわからない。うまく説明できないんですけれど」
聞くと小学校の頃から友達は多く、いじめなどもまったくなかったそうです。
おそらく学校へ行けなかったのは、教員たち(父親を含む)の間の、微妙な緊張感を感じ取っていたからでしょう。
高校は地元の進学校に入りましたが、入学式だけ出て、すぐ退学することに。
これもなぜ行けなくなったのか、自分ではよくわかりません。
「なにか周囲に対して、違和感や疎外感があって。自分が浮いているような感じ。
友達とは毎日遊んでいたんですけれど、自分だけ何か違うな、という感じがありました」
■ランニングも犬の散歩も、なんでもネガティブな噂に
当時、祐樹さんが抱えた違和感や疎外感には、「祖父や父が地元で有名な教育者だったこと」が影響していたようです。
「父も祖父も、非常に独特な世界観をもっていて。
自分の子どもはとにかく優等生でなきゃいけない。
歯を食いしばって勉強して、スポーツをやって、先生の言うこと、親の言うことを『はい、はい』って聞いて。
姉はそれが完璧にできる人だったので、僕のときは『なんで急に問題ばかり起こすんだ』という感じだったと思います」
また冒頭にも書いたように、祐樹さんはどこへ行っても「安村先生のお孫さん」「息子さん」といわれ、特別扱いされるのが常でした。
「もう本当に、どこへ行っても言われるんですよ。
東京のコンビニから、実家へ荷物を送ろうとしたときさえ、店員の女の子が『××(地元の地名)ですか?  安村さんって苗字、よく聞きますよ。安村先生って、いましたよね』と言われたこともあります」
東京に来てまでこうなのですから、地元ではいうまでもありません。
「小学校のとき寒い日に、なんとなく思いつきで袖なしのランニングシャツで友達とそばを食べに行ったんですね。
そうしたらすぐに『安村さんのところは、こんな真冬でもランニングを着せてスパルタ教育だ』っていう噂がすぐに広まって。
母親から『あんた、ランニング着てそば食べたでしょ』と言われました。
散歩させていた犬が車にひかれそうになって叱ったときもすぐ噂になり、『安村さんのところの息子さんが犬をいじめてる』って。
なんでも、ネガティブな噂になってしまうんです(苦笑)」
想像するだけで息苦しい、狭い世界です。祐樹さんが子どものころ、親や周囲から感じてきたプレッシャーは、並大抵のものではなかったようです。
■一流大学合格より、大検に受かったときがうれしかった
高校を退学してからは家にこもり、「好きでもないのにゲーム」をしたり、テレビ番組の録画を見たり。
その頃に起きたのが、宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件です。
ニュースでは大量のビデオテープが並んだ犯人の自室が繰り返し映し出され、祐樹さんは「このままだと、ああなってしまうのでは」と危機感を募らせます。
そこで、東京に住む姉の勧めに従い、家を出ることにしました。
東京へ行くと、姉が手配してくれた部屋に住みつつアルバイトを始めましたが、それまでずっと部屋にこもっていたこともあり、なかなかなじめません。
だんだんと精神状態が悪くなり、心療内科に通うようになります。
そんな生活のなかで、とてもうれしいことがありました。
19歳のとき、大検(現・高等学校卒業程度認定試験)に合格したのです。
「大検に合格するまでは、学歴としては中卒です。
身動きがとれない状態だったのが、『大学を受けることができる』というところまで来られたので。やっと、扉が開いたような感じです。
あれはたぶん、いちばんの親孝行だったと思います。親も本当に喜んでくれて」
当時を振り返る祐樹さんは、本当にうれしそうでした。
ただ、それから3年後、彼は誰もが知る一流大学に合格しています。
はた目には「大検より、そっちのほうがうれしくないかな?」と思ってしまうのですが、そうではなかったといいます。
「本当は東大に行きたかったので。高校を中退した人には多いと思うんですけれど、コンプレックスから『みんなの頭を超えてやる』という気持ちで東大を目指すんです。
いま思えば、最初から身の丈に合ったところを受けていればよかったんですけれど。
それでちょっともたついて、22歳のときにその大学に入りました」
大学も最初はなかなか通えなかったそうですが、しばらくしてまた、あるきっかけが訪れました。
父親に病気が見つかり「5年後の生存率が50%」と告げられたのです。
「それでスイッチが入ったと思うんです。
大検に合格した後、N先生というすごくいい精神科の先生に出会って、ずっと通っていたんですけれど。
父の病気がわかったとき、N先生に『電車に飛び込みそうになった、もう外に出ているだけでつらい』と訴えたら、『わかった』と言って、初めて薬(抗不安薬)を出してくれて。
それを1日3回飲んでいたら、本当にもう、数日で治っちゃったんです。
『やったー』と思って、すぐ近所のコンビニでアルバイトを始めて、それからは大学にも行けるようになりました」
こんなにもよく薬が効く人がいるとは。「薬で楽になった」とか「薬が合わなかった」という話はよく聞きますが、「数日で治っちゃった」という話はそうそう聞きません。
薬が合っていたこともあるでしょうが、ちょうど浮上するタイミングだったのでしょうか。
それから祐樹さんは、大学に通いながら司法試験を目指します。
就職氷河期の真っただ中で、周囲にも資格取得を目指す学生は多かったといいます。
残念ながら資格取得はかないませんでしたが、29歳のときに無事、大学を卒業することができたのでした。
■本音は「銀行に勤めたかった」父が変わったきっかけ
祐樹さんは、自らの回復にはいくつかの要因があったと考えています。ひとつは「両親が変わった」ことです。
「何でも『こうじゃなきゃいけない』という感じだったのが、ありのまま、現実を受け入れてくれたんです。
僕は父や母の考えていたような優等生ではないけれど、僕なりに自分の人生を生きていけばいい、と思うようになってくれたみたいで」
なぜ祐樹さんの両親は変わったのか。おそらく、主治医だったN先生が、彼の両親と話をしてくれたためではないかと祐樹さんは考えています。
親からもN先生からも直接聞いたことはないのですが、のちにネットで見つけたN先生の論文に祐樹さんの症例があり、そこには祐樹さんがN先生に話していないこと、
つまり両親しか知りえない情報がいろいろ書かれていたからです。
もうひとつの要因は、父親が公立校を退職後、私立校の校長になったことです。
「それで父はものすごく変わったと思う」と祐樹さんは話します。
「うちは曾祖父の代まで商家だったので、父にももともと商才があったのかもしれません。
私立の校長だから、自分で考えて予算を行使するんですけれど、それがもう毎日楽しくてしょうがないみたいで。もう、嬉々としている。
それまでは“ガチガチのスパルタ教育の先生”だったのが、いつの間にかサミュエルソン(経済学者)の話を普通にするようになっていて。
僕は今、投資家をしているんですが、最初に投資の基礎を教えてくれたのも父なんです」
父本人から胸の内を聞いたのは、私立に移ってから10年後でした。
父親は70歳で祖父と同じ、ある勲章をもらったのですが、このとき「学校の先生になるべきではなかった」と祐樹さんに語ったそう。
「本音は『銀行に勤めたかった』と言っていました。
僕もそれを聞いて『ああ、やっぱりそうだったんだ』と思って。
父も祖父の手前、学校の先生になったけど、たぶん不本意な人生を歩んできたんでしょう。
教員の世界って陰湿なところがありますが、本当は父親は、そういうのが大嫌いなので。
『なんでこんなところに自分はいるんだ』って、ずっと思っていたと思うんです」
いまはもう、ご両親とも他界されたそうですが、「晩年はゆっくり話せる時間があってよかった」と振り返ります。
いま、祐樹さんは東京で暮らしています。
高収入ではないものの「投資でちょっとずつ増やして」おり、将来の生活に不安はないそう。
いま住んでいる街をとても気に入っており、「いまがいちばんいい」と話します。
「みんな、ちゃんとしているんですよ。
僕が住んでいるあたりは、そんなお金持ちはいないんだけれど、人の悪口を言う人なんてまずいないし、皆さん仲良くやっている。
言ってもしょうがないんだけれど、××(地元)の人たちにも、東京の人たちを見習ってほしい」
実際は東京でも、彼の地元と同じようなところはあると思うのですが……。
でも少なくとも、多くの大人は自分の意思で住む場所を選び、不快な人間関係から離れることができます。
子どもの頃には想像もつかないかもしれませんが、大人になるだけで解決できる問題もあるのです。
当連載では、さまざまな環境で育った子どもの立場の方の話をお聞きしています(これまでの例)。
詳細は個別に取材させていただきますので、こちらのフォームよりご連絡ください。
大塚 玲子 :ジャーナリスト、編集者
〔2020年6/7(日) 東洋経済オンライン〕

■移住を支える地域の力 移住が教える地域の魅力
あなたの住む清水町はどんなまちですか―
そう聞かれたら、どう答えますか―
住み慣れた何気ない当たり前の暮らしでも清水町に魅力を感じ、何かを求め移住してくる人がいます。。
今回の特集のテーマは 移住 移住者の声から普段私たちが気付かないまちの魅力が見えてきます。
移住は人生の一大転機とも言え、大きなチャレンジでもあります。
清水町へ移り住むことになった皆さんとの縁をひも解いていくと、色々な角度から人々を結びつける力があります。
たったひとりの町民との出会いから移住先がここに決まったり。移住後も暮らしやすいようにと地域ぐるみで支えたり。
移住した皆さんが地域に溶け込んでいく流れが自然とできあがったり。
この町を選んで移り住んできた人たちが口を揃える、「ちょうどいい町」。この言葉に秘められるまちづくりのヒントを探ります。
■聴かせて移住物語
ひとりとの出会いがたくさんの縁を繋いだ
HO PETER SILVAN(ホーピーターシルバン)さん、寺内 麻紀さん、舜さん(中2)、姫夏さん(小4)、堯さん(中1)
自然豊かな北海道暮らしに憧れて、2年前に兵庫県芦屋市から移住してきました。
山村留学を考えていた3年前、鹿追町と芽室町に見学に来たときでした。
3人の子どもが北海道でもアイスホッケーを続けていきたいと話したところ、清水町のアイスアリーナを紹介されました。
早速アイスアリーナまで足を伸ばしてみたところ、私たちと同じように東京から移住してきた人とお会いするという、大きな出会いがありました。
「アイスホッケーをするならアリーナが近くていいよ。来ちゃいなよ。」
このまちでの暮らしなどたくさんの話を聞け、その全てはとても魅力的でしたが、それには移住後の仕事を見つけなければならないため、その時は諦めざるを得ませんでした。
数か月後、私(麻紀さん)に帯広畜産大学の英語講師としてのお誘いがあったので、ようやく子どもと4人で移住を決断することができました。
子どもたちがこの地を気に入ったのもあり、神戸市のインターナショナルスクールに勤めていた夫も昨年の春に移住し、憧れだった家族5人揃っての北海道暮らしが叶ったのです。
不便に感じていることは何もありません。
自宅からは歩いてコンビニにも行けるし、清水市街や隣町のスーパーにも10分で行けます。
病院も近くにあり、時間外診療にも柔軟に対応してくれます。
御影はみんなが親戚のような存在で、子育てにもすごく良い環境です。
栄え過ぎていない『ちょうどいい町』という印象が強いですね。
夏場だと玄関先に野菜が積んであったり、地域が優しさにあふれているので、私たちも自然と打ち解けられました。
移住してきた者として感じているのは、情報の発信量がまだまだ少ないというところです。
今の時代、インターネットに載っていないと存在すらしないものと判断されてしまいます。
移住に関わるものに限らず、情報はたくさん発信してほしいです。
また、移住を決断するには、「住むところ」と「仕事」の2つが揃えば何とかなると思っています。
住宅の斡旋だけでなく、「どんな仕事ができますか?」
こんなたった一言のアプローチで、移住への光が見えてくるのではないかとも感じています。
現在、マイホームを建築中の寺内さん。新たな住処(すみか)を楽しみにする家族の輪を、もう一回り大きな「ちょうどいい町」という地域の輪が包み、暮らしを支える姿がここにはありました。
■聴かせて移住物語
惹(ひ)きつけられた魅力多くの人に伝えたい 田中 邦和 さん
「北海道に住んでみたい」漠然とした思いで足を運んだ北海道物産展。
『あすなろファーミング』の乳製品と出会い、そのおいしさに衝撃を受けたのが、清水町に移住したいと思った最初のきっかけでした。
その後、ふるさと納税もさせていただきましたが、送られてきた寄附報告書に掲載されている『町のできごと』を読み、ますます移住への思いを強くしました。
昨年の11月に、東京都で開催されていた北海道暮らしフェアで話を聞き、その後清水町に来たときにも商工観光課の職員や建設業協会の皆さんが親身になって相談に乗ってくれました。
以前は名古屋市で自身が所有するマンションに住み、化学系製造工場に勤務をしていました。
移住に不安が無かったといえば嘘になります。
ある程度の貯蓄がないと決断すべきではなかったのかもしれませんが、どうしても清水町に来たいという気持ちが強かったのです。
マンションを売却する前に移住して来てしまいました。
現在、町内で土木作業員をしています。
当初は「暮らしていけるだろうか?」とも思っていましたが、憧れの清水町では、心にゆとりを持った生活ができています。
北海道で冬を越す自信がついたら、家を構え定住したいと考えています。
清水町は名古屋市と比べて格段に静かで住みやすいところです。
飲食店が閉まるのが早いなとも思いますが、スーパーもコンビニもあるので、「田舎過ぎず都会過ぎず」全く不自由していません。
移住してくるときは、清水町のたくさんの人たちにお世話になりました。
恩返しの気持ちも込め、これから移住を考えている人に町の素晴らしさを伝えるお手伝いもしたいと思っています。
機会があれば北海道暮らしフェアなどにも参加してみたいですね。
休日には北海道内を回り、温泉めぐりをしている田中さん。
今は高齢化や担い手不足が進む中、農作業の請負等をする『コントラクター』と呼ばれる組織の立ち上げに興味を持っています。
36歳の若き青年は、地域に根ざした活動を夢に抱き、一歩ずつ歩み始めています。
〔広報shimizu 2019年2月号 北海道清水町〕

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