1月2日に「不登校情報センターの取り組みの特殊性」を書きました。この特殊性のために関わりやすかった人もいれば、逆に関わりづらかった人もいるはずです。私には何ともしがたいことです。私自身は深いところで納得しないと動けない人間であり、小器用に対応できないのです。
それとは別の理由で不登校情報センターから離れた人もいます。
ここのフリースペースは受け入れる人のタイプが無制限というか、誰でも彼でも受け入れると思えて離れた人とします。
具体的には「病的に重い人は避けて欲しい」、「自己中心が強い人は来ないようにして欲しい」、「境界性人格障害の人は受け入れないのが当然でしょう」…これまでに聞いたことのある言葉です。他にもあったかもしれません。
こう訴えていた人は、その時点でせっぱつまった状態におかれていたと思います。私がそれを受けとめ対処をしないために離れていったのでしょう。私にそういう対処を求めるのはむちゃです。私は困難をもつ人を理解したいのであって、そういう人を来なくするのは本末転倒です。いい例えかどうかはわかりませんが、それでは消防士が火事場から離れるようなものです。
求める人の言わんとすることはわかっているつもりです。いくぶんは私自身が感じることだからです。私の前では極端には表現しないが当事者間では露骨に表れやすいのだ、ということもまたわかります。それがわかったうえで、だから私の目の前でそれが表現できるようになればいいと思うほどです。私はそういう人を理解したいのです。
これらのフリースペースに来る当事者を選別的にしたいのは本来的にはその人のもつ課題です。それを他者の問題にして解決を図ろうとしていると私は理解しています。そこに留まり、関係の間合いを経験し、学ぶことが必要です、
わけありのいろんな当事者が集まるスペースは、その意味で難行苦行の場に感じるでしょう。その苦行に耐えられなくなったのです。ところがそれ以外の場は意外と見つからないのです。しばらくしてまた戻ってくる人は言葉にはできないけれども感覚的に何かがわかったのです。
「弱いものへの関心は貴重です」と12月24日に書きました。私にはこの気持ちがあります。弱い状態に置かれた人に関心が向くという傾向です。たぶんこれを超えることは私には無理ではないかと思えるほどです。
当事者として不登校情報センターに来なくなることも1つの選択です。それは拒否反応のひとつです。拒否反応や選択ができる人は、少なくともその時点での状態を関しては、たとえば拒否できない、選ぶことができない「病的に重い人」よりはいいのです。私が対処しなくても“来る来ない”の状態の選択は自然にできていきます。
それでも病的に重い人、自己中心が強い人、境界性人格障害の人などの多くは来なくなっていきます。そちらの人もまた苦しいからです。来ないで欲しいといった人もそう言われた人もともに多くは来なくなり「そして誰もいなくなる」わけです。その人たちはそれぞれのレベルで自分の抱える問題が未解決のままです。
そして私はそういう何かを持った人への関心が消せないタイプの人間です。再来、あるいは再々来を待っています。そういう自分を、改めて自覚した今年の正月でした。