十年前にこの理解にたどり着いた私は、それとは違う方法を試行錯誤してきました。
私の取り組みの重点は、当事者がその解決方向を自力で探し、つくりだすための条件づくりです。
当事者のなかでの人間関係をできるだけ自然な環境で積み重ねることです。
対人関係をつくるなかで、自分にできることを生かせるようにしたいと考えたのです。
これは行政機関からも他の支援団体からも評価もされないし、あまり見向きのされないものでした。
孤立無援の取り組みといっていいでしょう。
それは当事者にとっても楽な道ではありません。
それでもこの過程に参加し続けてくれた当事者が少なからずいたことは私にとっての支えでした。
不登校情報センターというスペースでは、あまり制約せずに好きなことを持ち込みやすくしました。
不登校情報センター内での作業を収入の得られるものにしようとしたのは、その一つの方法です。
まどろっこしい取り組みですが、当事者にとってはそれでも精一杯のこともあったと思います。
事態を理解できない人には何の役にも立たないことを続けていると思われたようです。
支援としては精神的なタフさを求められる方法、苦しい道を選択してきたことは確かです。
いまの時点では他の支援団体でも就職が唯一の道ではない程度には理解は広がったと思います。
たとえば東京仕事センターという公的機関のチラシ「多様な働き方専門相談」には「NPO、ボランティア、農業、在宅ワークなど、企業に雇用される以外の多様な働き方に関する相談に応じます」とあります(太字はチラシにおいてアンダーラインで強調されているところです)。
これに対応する就業支援のNPOや民間機関は私が試行錯誤をしてきたことが参考になるのかもしれません。
ところが世の中の動きはまた別のことを教えてくれました。
引きこもりから社会参加の方向に近づこうとしていたはずなのに、社会の方が引きこもり状態に近づいてきていると感じるのです。
このような形で引きこもりと一般社会が接近するとは予想してこなかったことです。
これは引きこもりの社会的な意味には別のものがあると示唆しているのです。
引きこもりの原因・背景は、直接的には対人関係のゆがみや脆弱性、人間が成長する環境の衰弱・変化によるものです。
それとともに、その土台に歴史的な社会の大きな変化がある、それを感じさせるのです。
その歴史的な変化を、無意識的に受けとめる感性ゆたかな人たちが事態を先取りして表現しているのが引きこもりともいえます。少なくともそのような人が引きこもりのなかには少なからずいます。
一般社会の人たちもようやく社会の歴史的な変化が、自分の生活にも及ぶと感じ取りつつあります。ところが社会システムはなかなか時代の変化に対応しません。それを感じて、人々は適応するのに内側からブレーキをかけ始めつつあるのです。
それが一般社会の引きこもりへの接近であり、壁が低くなっている背景事情といえるのです。
引きこもり経験者には「仕事とは自分を殺してやるもので、自分を生かすことと仕事は対立するもの」という感覚の人が少なからずいます。
「仕事のなかで自己実現する」時代が近づいたからこそ、このような感覚が際立ってきているのです。
歴史の変わり目というのは、このようなパラダイムシフトの生じる時代です。
言いかえれば「自己実現なき社会参加」は、どういう形であれ、魅力を失っています。ことに若い世代においては拒否されているのです。
(つづく)